「嫌悪感」と「多様性尊重」の狭間で
今回は、年上の異性の友人に関するジレンマのお話です。
私はジレンマに悩んでいたんだなぁ、と最近ようやく気づきました。
他者を大切にすることと私を大切にすることの両立は難しいですね。
1.友人について
友人の名前をAさんとしましょう。
Aさんは私よりも4歳上で、4年前に出会いました。
Aさんは猪突猛進タイプで、独りよがりで、頑固な性格。人情に溢れていて、仕事熱心なところはとても素敵なところ。尊敬する友人の一人である。でも彼は、人情に溢れすぎていて、他人との適切な距離感が分からない。出会った人との縁は大切にすべきと信じていて、自分から離れていく人は裏切った人だと捉える。こんな感じだから、友人関係は狭く、一人ひとりと深海のように深い関係を求める。他人が背負いきれないほどの期待をぶつける。日記のようなLINEがとめどなく届く。写真も動画もたくさん届く。ひとりで過ごすのは苦手だと、誰かといないと寂しいのだと、彼は話す。
正直、めんどくさい時がたくさんあるから、私が唯一気軽に文句を言える相手。でも、Aさんは都合のいい前向きな人だから、私の批判は届かない。反省する様子を見せるけれど、彼のなかにとどまらず、流れていく。
おそらく、彼と仲良くし続けることは大変なことだと思う。
Aさんは鬱病を患ったことがある。
何度か転職を経験していて、今は運輸業に就いている。都合よく解釈する傾向があり頑固な性格と、繊細な性格を持ち合わせている。キャリアとか恋愛とか生きる意味とか、そういったテーマについて、いつもぐるぐると悩んでいる。私には長文LINEが届く。彼のメンタルが危うい時も含まれている。
彼は私が出会った中で初めての鬱病の経験者だった。
私が学部生の時、本当に死にたくてたまらない気持ちを理解してくれて、話を聞いてくれて、人生の先輩としてキャリア相談に乗ってもらって、元カレの相談にも乗ってもらった。私の面倒くさい性格も、「人間らしくていいじゃん。」と言ってくれた。だから、とても感謝している。
私が自己受容をできるようになって安定してきてからは、2人で長文LINEを送り合って、対話を楽しむ時もあった。私もAさんも深く思考するタイプ。でも、私たちの性格は似ているようで違う。だから、話していて気づきが多かった。30歳目前のAさんは、周囲の当たり前の人生とのギャップに頭を抱えている。仕事を詰め込み身体を酷使することで、無理やり周囲を見ないようにしている。でも、孤独感や将来への不安感や焦燥感は、日々、彼の心を苛んでいる。加えて、彼の親は昭和時代の考え方でとどまっているから、Aさんの未婚や生き様を責めるのである。私は、そんな痛みに寄り添い、話を聞き、彼の良さを認めるのである。彼は、彼であることが素晴らしいから。
一方で、過去の自分、私自身の嫌いな部分をみているようでいらっとくることもある。私は昔から私が大嫌いだから、社会の現実を直視し、社会の標準との距離を埋めるべく、社会に適応させる努力をしてきた。20歳半ばで自分の変化を感じ始めている。でも彼は、「社会的適応力」を高めて、自分との上手な付き合い方を身に付ける過程にある痛みから逃げてきた。かなり開き直って我が道を進んできたのである。彼が本を読み、自分を俯瞰するようになったのは、私と出会って2年ほどたってからである。
そして重要な点は、Aさんはかれこれ1年半以上、私のことを「大好き」だと言い続けていること。私がAさんの性格を理解し始めた時、私の本能は、Aさんに好かれることだけは避けなければならないと警鐘を鳴らしていた。だから、対話をしつつも、適度な距離を意識して関わってきた。
でも必然のように、彼の重い愛情のベクトルがこちらに向き始めた。私は当初から恋愛対象ではないことを伝えていた。一方が恋愛感情を抱いてしまった以上、過去の関係性には戻れない。私は距離を置こうと努めた。
2.友人に対する「嫌悪感」
私には、Aさんに対して真逆の2つの気持ちが共存している。
ひとつは、彼との縁を切りたいという気持ち。
Aさんの重苦しい愛情が苦しい。ストーカー的思考回路に思える。
Aさんと仲良くなった頃、彼には大好きな相手がいて、私はよく恋愛相談を受けていた。当時もストーカーレベルの思考回路で、私は幾度も注意をした。だが、彼はやめろと言っても聞く耳を持たない。
彼の重すぎる愛情表現も、振り向いてくれない相手に対して逆ギレする態度も、愛情を持て余して一人で病んでいるところも、正直、気持ち悪いと思った。嫌悪感とまでいえる感覚になった時期もある。
今、そのベクトルが私に向いているのだ。
Aさんは、私の気持ちを考えることなく、以下の行動をする。
「大好き」の感情が溢れて持て余してしまうから、私に毎晩「大好き」と送ってくる。まだ元カレと付き合っている時に告白してくる。断っても何度も送ってくる。ご飯にいこう、デートにいこう、電話しよう、今何しているの?私が無視をすると、どうでもいい日記を大量に送ってくる。
私は何度も嫌だと伝えた。既読無視をするのではなく、なぜ私が嫌なのかということを丁寧に何度も説明した。Aさんのどのような行動がダメなのかも何度も伝えた。これは私なりの、お世話になった友人に対する誠意だった。ただ拒絶するのではなく、人の気持ちを理解してコミュニケーションを取ることが苦手な彼の特性を理解したうえで、関わってあげたいと思った。また、一時期は、深い対話ができる友人関係を失ってしまったことが悲しかったから、あわよくば元の関係性に戻したいと思った。
私は、否定をする私がおかしいのかと、私が恋愛に対して逃げ腰すぎるだけなのかと、自分の心が汚いのかと、自分自身を何度も内省して検討した。しかし、途中から、なぜ私ばかりが妥協して、自分の中に湧き上がってくる嫌悪感を我慢しなければいけないのか、と疑問に思った。友人に相談すると、全員が「そいつは危ない。早くブロックした方がいい。気持ち悪い。あなたは悪くない。」そう言ってくれるのだ。そっか、私は嫌って思っていいんだ。
彼の中で肥大化している私が怖い。勝手に期待してくるのが怖い。私との結婚生活や私との子どもについての妄想の話をしてくるのが嫌だ。私が夢に出てきてエロかったと話してくるのが気持ち悪い。私がAさんを好きにならない理由は、元カレの友達だからという「大人の事情」だけだと思い込んでいる。「俺は『大好き』だと思っているけど、これは俺の考え方だから、気にせず異論は持ってもらって大丈夫よ。」などと上から目線で話してくるのも本当に理解不能。怖い。腹が立つ。私の心のパーソナルスペースに土足で侵入してこないで。私の優しさを利用しないで。いくらあなたが違うと言っても、あなたのこれまでの言動は私への依存や執着でしかない。
Aさんの言動に反応させられることが本当に苛立たしい。
3.友人という「多様性を尊重」したい気持ち
2つ目の感情は、友人として、人として、ありのままの彼らしさを否定せずに認めてあげたいという感情。これは、福祉を学ぶ者として、私の価値観として大切にしている部分である。
確かにAさんと関係を維持することは難しい。でももし、私がAさんとの友人関係を拒否してしまったら、社会のなかで独りぼっちになってしまう彼のような存在を増やしていくことに加担することになるのではないか。「多様性尊重」の社会と逆のベクトルに加担することになるのではないか。Aさんは、その個性があるからこそ輝いていると本気で思っている。だから、極端な性格だからといって、それが変わらないからといって、安易に縁を切るようなことはしたくないのである。
しかも、Aさんの精神は不安定で頻繁に心が弱る。私自身、これまで生きづらさで悩んできたから、彼の痛みや生きづらさは否定せずに聞いてあげたいと思う。私がしんどい時、彼という理解者がいたおかげで前に進もうと思えたのは事実である。だから、彼がしんどい時には傍で話を聞いてあげる存在でいたいと思っている。彼は、私が「最も弱みを見せることのできる友達」なのだと話す。別にそれが嬉しいというわけではなく、心がつらい時、そんな存在がいることの価値を、私は身に染みて理解している。
4.関わり方の揺らぎ
彼の愛情のベクトルが私に向いてしまって以降、私は私を救うために身に付けてきた、認知行動療法や自己理解などに関する知識やコツについて、より積極的に情報共有するようになった。彼に行動を促すようになった。彼が見ないようにしている生きづらさと向き合い、それを乗り越えていくための「支え」や「エンパワメント」の実践のつもりである。同時に、彼を変えることができれば、お互い楽に生きることができるし、私への異常な執着をやめてくれるだろうと思う。元の関係に戻れなくても、彼が元気になるなら、それは嬉しいことだと思うからである。
一方、私が「嫌悪感」に耐えきれず、怒りがこみあげてきた時は、かなり厳しい言葉で拒絶を示す。LINEを既読無視することにも慣れた。もう電話もしないし、会わないと決めて、断り続ける。返信してあげているだけ優しいと思う。ただこういった行動は、私の価値観にそぐわないから、私の日常が嫌な気分に染まる。ダブルで憂鬱になる。
つい数日前、久々に事件が起こった。
私は本当に久しぶりに未読無視していたものに返信をした。過去一番に、拒絶を示してから数か月後のことだったと思う。さすがに大人しくなっただろう。そう思っていたのに、届いたのは「大好き」の論理の押し付けだった。様々な出会いを探したけれど、やっぱり「大好き」だと。「俺の考え方だから、異論があっても大丈夫だよ。」と。
私は怒った。独りよがりで私の大嫌いな行動をされたので、腹が立って、気持ちが悪くてしょうがなかった。無視してもよかったが、この気持ちをぶつけておかないと消化できないと思った。
しかし、その後、Aさんが鬱病手前の状態であることが発覚した。私は本当に悔しかったけれど、なんともいえない気持ちになり、怒りを飲み込み、「友人として」彼の話を聞くモードに切り替えた。彼にとっては、自分が「大好きな人」と「何でも話せる人」が重なっているため、「好きな人の気持ちを考慮した言動」と「とにかく自分の気持ちを言葉にして吐き出す必要」の間でジレンマが生じているのだ。というよりも、相手を配慮する余裕がなくなっているから、いつもにも増して私の批判は届かず、むしろ彼を深くえぐってしまうのである。
上記の構図が理解できる私が、より精神状態が「平常」である私が、妥協して、彼に共感をしめさなければならない状況。そこでAさんから「ご飯に行こう」と届く。断れるわけないじゃん!!!!対面したくないのに!!!嫌だ!また不快な気持ちになりたくないのに!縁を切りたいのに!
私じゃない人に頼ってよ!!!
5.私の行動に対する社会的評価
私はどうしたらいいのでしょう?
友人としてAさんの幸せを願うのは、ただの偽善、思い上がりですかね?
彼の周りには、ちゃんと彼の弱さと強さを直視できる味方が見当たらない。
だから、私は彼を見捨てることができない。彼を変化させようとするお人よしな部分はあるが、隣人であり続けることは当然の行いだと思っている。
ですが、私の多くの友人たちは、こう答えるでしょう。
「また返したの???○○が返事するのがダメ。優しすぎるんだよ。」
「Aさんの弱っているのって本当なんかな?気を引きたいだけかもよ。」
なぜ私が責められるの?それとも私のためのアドバイス?
あなたたちは、人の弱さを知らないのか?
世界の両面がみえなければ、人生は気楽なのにね。
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