コミュニティを渡り歩く
コミュニティってなんだろな。
居場所ってなんだろな。
私は一定のコミュニティにとどまり続けることをしんどく感じるのかなと思う。学校は小中高と毎日通ったし、大学にも通ったわけであるから、適応する力が身に付いたとは思う。やりたいことをやるためには部活に所属するという手段が適切だったので参加した。でも「ひとりになりたい!!!!」という心の叫びが止まらなかった。バイトもいくつかやっていたが、そこがコミュニティ化していくことに耐えられなかった。バイト後にしゃべったり、休日に遊びに行ったりするお誘いをなるべく避けた。いろんなコミュニティに形式的には属していたが、私はいつも孤独だった。高校生までは実家で暮らしていたから、家族は毎日帰る、生活基盤のコミュニティといえる。でも、家に帰っても心は孤独だったし、帰らないという選択肢をいつも探していた。
「こうじゃだめだ、ちゃんと人と関わらないと。」という外圧的な焦りは、私の孤独を質の悪い状態にしていった。
大学院生になると、コミュニティを自分で選べるようになった。特に、研究の関心が近いフィールドに足を運ぶようになった。ボランティア先は、やっぱりコミュニティである。私は、どこへいっても、参加者になりきれない観察者。その立場から、参加者側に行く方法が分からない。最近は、関わるコミュニティの数が増えた。心地よさがある。私は、一定の距離感で、私と価値観の近い人々と話せるコミュニティを複数渡り歩いている。一方で、関わり始めたのなら学び取らないと、関わり続けないと申し訳ないし、勿体ないという思いから、観察者でしかないことに罪悪感がある。どれも研究に関わっているから、コミュニティを切るという選択ができない。逆に、部活とか遊びのコミュニティは積極的に私から距離を取った。お金もない院生にとって、遊びが苦手な私にとって、軽やかな会話が苦手な私にとって、それらの世界は、息がつまるしストレスを増長させる点でいらないと判断した。自己防衛のための逃げであった。
数年間所属する大学院の研究室だって、私にとっては、渡り歩く一部。でも、部活と同じように、所属しておかないと、関わり続けておかないと私がやりたいことができないという義務感のもと、参加者になろうと頑張っている。それがとてもとても疲れる。
友人関係は、どんどん1対1の関係にシフトしている。というか、私がそれを選び取っている。複数人がしんどい。疲れる、こわい。相手が一人だとゆっくり話せるし落ち着く。昔の各コミュニティで出会った気の合う数人が、今の私を支えてくれている。その子たちと連絡を取る時、私は孤独ではないのだなと感じる。あとは家族。家族はとても大切だと思っているし、帰る場所だなという思いが強まっている。
そろそろ、どこかのコミュニティの「参加者」にならないといけないんだろうなと思う。研究のための調査先として。自立した人生を充実させるために。特に、「家族」という特に重たい位置づけのコミュニティをつくった方がいいのだろうとは思う。経済的な理由と、親を喜ばせたいという思いがあるから。
でも、”渡り歩く”↔”ひとりの空間に帰る” のではなく、
”渡り歩く”↔”家族というコミュニティに帰る”
という形態になることを想像しただけできつい。以前経験したプチ2人暮らしは1週間でギブアップだった。シェアハウスも無理だった。また、一人暮らしを始める前のように、毎日の家族との生活がストレスになってしんどくなってしまったらどうしよう。そんな不安もよぎる。だから、今の私にはまだ早いと思う。
あーあ、私は何をしているんだっけ?
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