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新しいエコロジーとアート (東京藝術大学大学美術館)

長谷川祐子教授の退任記念として、この『新しいエコロジーとアート』が開催されたのでその感想を書こうと思う。最初に長谷川祐子氏の視点に興味を持ったきっかけについて触れ、その後に展示の感想を書きたい。

まず、長谷川祐子氏の視点に興味を持ち始めたきっかけは、以前に訪れた瀬戸内海にある福武財団が運営する『犬島 家プロジェクト』がある。
瀬戸内海にある小さな島、犬島におけるアートプロジェクトで、この島には精錬所があり、日本の都市文明繁栄の見えない部分で支えていた場所でもある。その場所から精錬所を運営する会社は撤退し、廃墟になっていた。
犬島の近くには、豊島という島がありこの島は長年、産業廃棄物の不法廃棄の場所となっており、大きな問題ともなった。そして、犬島も産業廃棄物の廃棄場として検討されていたという。
このような場所に現在は、福武財団運営の『犬島精錬所美術館』が建ち、かつて精錬所であった廃墟をエコロジーの観点から建築を再利用し美術施設に変貌した。
『犬島 家プロジェクト』はその付近にある、古民家を修繕し、直島での『家プロジェクト』に倣ったものとなる。

『犬島精錬所美術館』(著者撮影)

私は、この日本の明治維新後に歩んできた文明の発展の恩恵を受けているのは間違いない。
だけど、必ずしも日本は正しいことをしてきたと言えるだろうか。急速な西欧化を推し進めるために多くの犠牲を払ってきたように思える。
東京に全てを一極集中させ、地方との平等な関係は成り立っていただろうか。
そして、公害を軽視していなかっただろうか。
私は、ストイックに自然に敬意を払って全てをありのままに、極端に自然を維持すべきだとは考えない。
だが、現代の人間の文明発展に活かしているテクノロジーを自然のために利用することはできないだろうか。
ある人が言っていた、「文明は文化を守らなくてはいけない。」という言葉がある。

文明 = 経済活動、医療、科学、IT、その他生活をわかりやすく便利にするもの
文化 = 芸術などその文明発展のために見過ごされてきたもの。

と定義すると、明治維新後の日本は文明の発展ばかりを追い求め、文化を軽視していなかっただろうか。
福武財団の会長、福武總一郎氏はベネッセの二代目の社長でもあり、積極的に文化活動をしてきた人でもある。その人が「経済は文化の僕である。」と口癖の様に仰ってたという。私は、この「文化」という言葉に「自然を思う気持ち」も含めたいと思う。
そして、長谷川祐子氏の積極的なエコロジーを考える姿勢は、極端に自然をそのままにというものではなく、現代美術を文明技術を利用して文化・自然のあり方について考えさせるきっかけ・動機を提供している様に思えた。

前置きが長くなってしまったが、この展覧会の感想に移りたい。
私が大きくこの展覧会で感じたことは、上記のことにも通じるが、現代の技術をいかに私達の生活を便利にするというよりも、離れたしまった「文明」と「文化」をもう一度繋ぎ合わせる試みであると感じた。

以下いくつかの気になった作品について

 "Autonomous Island" 作:長坂有希 イラスト:藤井琴(所蔵:ボローニャ近代美術館)

この作品は、いくつかのイラストと共に音声が流れておりキャプションによると、

「ある離島が経済危機によって首都圏から切り離され、自治区になったという設定の物語。中央・周縁の関係性の中に潜在していた不平等さと暴力性に気づき、他の生き物や非生物とつながり、昔から培われてきた島特有の生きる知恵と再接続することで自分達の居場所を見つけていく島人が一人称で語る物語。」

同展覧会キャプションより

この流れている話の中で、この島を「私達の国のハワイ」と題した広告キャンペーンによって、観光地として売りに出されたがやがて廃れていったというエピソードがあった。
これは、現実の社会でも起きていることで、「観光地」という眼差しはあくまで都市側の人間の視点であって、そこに平等な視点はないと私は思っている。

"Four Walks of to the source of Kamo river" by Elena Tutatchikova

この作品は、2021年夏から冬にかけて京都市内から鴨川源流まで4回歩いた記録とのこと。
川に沿って歩くことで思考の迷い、風景を直線的なものでなく環境も含めた多層的なものとして受け入れていく旅ということを伝えている。
私も大学時代に、近くの川であったり池であったり、水辺の近くを一人でも友人とでも歩くことが多くあった。その時に行っている行為は友人と少し踏み込んだ会話であったり、一人で考え事を消化する時間でもあった。その時間は今でも強く記憶に残っている。
水と記憶は切り離せないものであり、ここに注目している点が私の体験と重なる部分があり興味深かった。

『浮浪庵』作:渡辺青+井上岳

茶室の定義は様々だと思うが、私は以前にあった東京国立博物館でのデュシャンと千利休の展覧会を思い出す。現代芸術家の杉本博司氏は、デュシャンも千利休も同じ「精神の捻くれ」を持ったものと言っていたが、デュシャンの様に既製品の機能を奪い、美術品として扱ったこと。そして利休の4畳半の狭い閉ざされた空間に美を見出したことも共通項がある。
この作品のキャプションに、

「侘茶の精神はもとい、そのような取り留めなく流れ移ろう人生の中で、ひと時の瞬間を味わうことであったはずだ。茶室は永遠を目指していない。常に生まれたてであり、既に老いている。ある時代、空間の中に現れては消え、また消えては現れる。揺れ動く環境の中でそのあわいを感覚する。」

同展覧会キャプションより

材料はあくまで既製品的なもの、そしてその閉ざされた空間と外の空間の堺の曖昧さは、今の私達の文明的な生活と自然の関わり合いに通じるものがあるのではないだろうか。

"Decomposition" 作:毛利悠子

この作品は、実際の果物に電極をつなげ、そこにスピーカーを繋げることで、果物が朽ちていく毎にスピーカーから流れる電磁音が強く激しくなるもの。
まず、この展示だけの部屋になっており、実際の果物を腐らせているので、部屋の中には異臭が漂っている。ただ、この香りに対するアプローチはとてもサイト・スペシフィックなものでとても面白かった。

私の知識不足な部分もあり、汲み取れなかった部分もあるだろうが、非常に中身の濃い展覧会だった。この展覧会に合わせて出版された『新しいエコロジーとアート「まごつき期」としての人新世』を購入したのでこちらも読み終わり次第に感想文を載せようと思う。

画像元:Amazon.co.jp


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