![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/41481687/rectangle_large_type_2_f47d30fba00ed383db4083461ed9f1a1.jpg?width=1200)
ラーメンを食べて初めて涙した|事前準備編【0からラーメン】
涙が出るほどうまいラーメンを食べたことがある人間は今までどれくらいいたのだろうか?
きっと一生のうちにそんなラーメンを一度も口にせず死んでいく人が大多数だろう。
そんな中僕は思わず涙が出るほどおいしいラーメンを期せずして作ってしまった。
ちなみに涙もろくは決してない。
涙腺はサハラ砂漠のように乾ききっている。
ちなみにサハラは砂漠の意なので、和訳すると砂漠砂漠になる。
トリビアはさて置き、本題に入ろう。
先に言っておきたいのだが、これからその泣いてしまうほどおいしいラーメンの作り方を書いていくのだが、真似して作ろうと思っている方は今すぐにあきらめた方がいい。
いくら料理好きでも、カレーをスパイスの調合から始めるような凝り性の方でも読み始めた頃には断念している。
しかし読み終わったころには、すぐにラーメンが食べたくなって、そのラーメンは今まで食べてきたラーメンとは違った味わいを持って迫り、感慨深い何かを訴えかけてくるかもしれない。もしかしたら私と同じように泣いてしまうかも。
その理由は以下を読んでいけば自然と分かってくるだろう。
まずは材料集めからだ。
材料集め
今回は鶏塩ラーメンを作っていく。
必要な材料は塩、鶏、小麦、かんすい、(こんぶ)。
いたってシンプル。
また必要な器具は器、箸、包丁。
特別なものは何もない。
そしてこれらのものを集めていく。
集めていくということは、スーパーにいくことを意味しない。
塩は海水から作り、鶏は卵から孵し、包丁は鉄を打つのだ。
以下にそれらの集め方を載せておくので参考にして欲しい。
・塩 瀬戸内海で藻塩を作った。
・鶏 こちらは三部作だが最終話だけ載せておく。ちなみに卵を取りに行くためだけに香川の養鶏場を訪ねる話も別にあるので興味ある方はそちらも。
・小麦 畑を耕すところから製粉まで盛りだくさん。
・かんすい みなさんご存じですか?ラーメンの麺には必須なんですよ。
・包丁 伝統工芸士の指導の下、鉄から打っていきます。
・器と箸とこんぶは記事がなかったので、私たちのHPに載っているものを参照されたし。
材料を集めるだけで南は四国、北は利尻島まで足を運び約一年を要した。
数行前に参考にして欲しいと言っておいてなんだが、どんな料理好きでも農業をし、製塩し、畜産をし、漁業をし、工芸、陶芸するところから始める人はいないだろう。
さて冒頭で言ったことの意味が分かり始めたところで、やっと調理に入ろうと思う。
これからは調理当日の様子を思い出しながら、なるべく当時の気持ちを鮮明に書き留めることを心がけたいと思う。
2019年11月29日
天気は晴天。お日様は燦々と輝き、空は青々としている。
ラーメン作りに適した空模様だ。
ひやりとした風が頬を撫で、気持ちが少しばかり引き締まる。
今日は一年以上かけて準備をしてきたラーメン作りの総仕上げ、すなわち調理をする日だ。
今日はやることがたくさんある。
まずはいつも懇意にして頂いている先生の家の庭に足を向ける。
ここ数週間足しげく通った道だ。
ただ今日は足取りが重く感じる。
その理由ははっきりとしている。
今まで分かり切っていたことだが、考えないようにしてきただけだ。
その訳はラーメンの主要材料となるニワトリを殺さなければいけないからだ。
香川県まで片道13時間かけて有精卵を取りに行き、2週間温めて孵した彼ら。
誕生の場に立ち会った時の、生命をそのままぶつけられたような感動は今でも忘れられない。
それから大人になれず死んでしまったものもあったが、毎日世話をして、立派な大人になったあいつら。
中々の貫録だ。
親バカなのかわからないが、多少の誇らしさもある。
よくもまあこんなに大きく力強く育ったものだ。
ただしこれまでのすべての過程はラーメンを食べるためにあったのだ。
今日彼らを殺さなければいけない。
殺される必然はないし、殺す必要もない。
今日ラーメンを食べることをやめればいいだけだ。
そうすればきっと彼らはその生を全うし、死ぬ時まで生きるだろう。
あえてその生に強制的な終わりをもたらす理由は自分にあるだろうか。
そう自問自答すれば、答えは「ない」だ。
ただ、今日彼らを食べなかったとしても、きっとこれからも肉は食べ続けていくだろう。
ならばその責任の一片でも引き受けるために、今日自らの手でその生を頂くことはするべきなのかもしれない。
私たちは矛盾した世界に生きている。
理屈ですべてが説明できるわけではないと、この世界に身を置いていれば誰しもが分かることだ。
生まれたばかりの赤ん坊だって、この世界が不合理であることを感じ取っているのかもしれない。それであんなに大きな声で泣いて、訴えかけているのかもしれない。
一方で学校で勉強し、理屈を学ぶ中でこの世の中がキレイに割り切れるような、そうでなければ何かがおかしいような気がしてくる。
私たちは不条理に対して憤り諦めるか、見たいものを見て論理の力で分かりやすく線を引くかをし始める。
前者はやるせないし、後者は真実を語らない。
この問いに対して、私は答えを出さないという答えを出した。
矛盾に向き合い続けるのだ。
きっと答えは出ないし、向き合い続けることはとても大変なことだ。疲れて放り出してしまうこともあるかもしれない。それでも生身でぶつかり続ける。
その向き合い続ける姿勢に生きることの本物らしさがにじみ出てくると思う。
人間は汚いところもあるけれど、美しい面もある。
弱いけれど強い。
賢くて浅ましい。
性善説だ性悪説だなんて日和ってないで、矛盾に向き合え。
人間はもっと豊かだ。
世界はもっと深くて広い。
だから、今日私は可愛がって育ててきたあいつらを食べる。
続く