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歴史を妄想することが何故楽しいのか

歴史のあれこれを勝手に妄想することに楽しみと喜びを感じている私ですが、何故それがそんなに楽しいのかについては、自分なりの答えを既に見つけています。

大きく分けて理由は2つ。1つは、単純に「歴史もの」が好き。

まずはこれに尽きますが、では何故「歴史もの」が好きなのかと言うと、いろんな理由があげられのですが、でも一番の理由は、自分一人では到底経験できないたくさんのドラマチックな人生に触れることができるから、なんですね。

それは何も歴史上の超有名人に限った話ではなく、歴史に名を残すわけでもない市井に生きる人々の中にも見出すことができ、むしろ「こんな凄い人がいたのか」と、より感動を覚えることも度々です。

どうやら私の心が、その種の「感動」を常に求めているようで、そのためには自分から「歴史もの」に乗り込んでいかないと新しい感動を発見することができないのです。なので、その感動を求めて、果敢に「歴史もの」の世界に飛び込んでいくと、そういうわけです。

さて、もう1つの方の理由は、これまた単純に「推理もの」が好き、です。

これはもう、DNAに組み込まれているからとしか説明のしようがありません。ほぼ物心がつく頃にはもう、「推理もの」にしか興味がなかったといっても過言ではありません。

子供の頃から趣味は読書と公言できました。よく本を読む子供ではありましたので、きっと周囲の大人たちにも「本好きな子供」と思われていたことでしょう。例えその本のジャンルが「ほぼ推理小説」だったとしても。

小学校の時も図書室にもよく通っていた思い出がありますが、借りて読んだ本は、「ルパン」か「小五郎」です。そして子供向けの推理小説ジャンルの棚を読破したところで、さらにその棚の本をもう1周するという、そんな子供でした。

これは決して大げさな話ではなく、社会人になって5年目くらいまでは「○○殺人事件」というタイトルにしか興味がなく、夏休みに強制的に読まされる学校指定図書以外では推理小説本しか読んだことがなかったといっても過言ではありません。

(このことはこちら↓にも簡単に書いています。)

つまり、推理小説の何が好きなのかというと、「謎を解くワクワク感」がこの上なく好きなのだ、ということです。「謎」、「ミステリー」、この二つの単語は私にとってはキラーワードで、その単語を一目見ようものならば手に取らずにはいられません。

私の脳は、常に新しい「謎」を追い求めているのです。

歴史の妄想にとりつかれる必然

私の心は「感動」を求め、私の脳は「謎」を求める。
この2つの欲求を同時に満たしてくれるものがまさに「歴史妄想」なのです。これは必然としか言えません。

歴史はまさに「人の営み」の集積で、そこには人の数だけの人生があり、さらにはたくさんの「謎」があり、そして今となってはもはや解読不可能な「ミステリー」がわんさか埋まっているのです。

歴史妄想は、まさに私のためにあるような「楽しみ」なのです。

一生かけても終えることができない「楽しみ」を私は得てしまっているわけで、こんなに幸せなことはないなと実感する日々。

今年、2024年も間もなく終わろうとするこの時期に、今年も歴史を楽しく妄想することができたことへの感謝をするとともに、来年はまた新しいテーマを見つけたいと貪欲に願う。

この感謝と願いをこめて、ゆるゆると年の瀬をむかえたいと思うのでした。

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