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山の番犬

主人公は亡くなった夫のメモを見つけ、犬を連れて書かれていた村の山に登る。小道に入り洞窟に突き当たると犬が中へ走り去った。追いかけると低い声の何者かに犬を取られ山の番犬にされてしまう。そこが願いの叶う洞窟だと知ると、犬を取り戻すためにその手順を探し回る。そのうちに夫の家族と出会い、夫の死がかつて狼に子供を取られてしまったせいだと知る。低い声の主はかつて山を守っていた狼だった。主人公は狼の復活を願った。それが狼の長年待っていた願いだった。犬が戻り喜んでいると足元に二匹の狼の赤ちゃんがいた。一歳になるまで育て山に返したら、夫の子供も返してくれると約束し、夫の家族と共に赤ちゃんを育てる決心をする。


「なんだってそんなにちっこい犬、連れてきたんだ」

 駐車場を出たばかりの坂道なのに、そんな声が飛んできた。たった今、すれ違ったばかりの老人の声だったのか。遠目から見たときは目尻を下げたにこやかに微笑む老人だった。だから彼だと思えない。

 周りを見回した。山の斜面に立ち並ぶ木々がアスファルトに影を落とし、風が通るたびにその影が揺れ動く。他には誰もいなかった。

 だが振り向いて顔が見えた時には、この老人に違いない、と思った。その顔は東大寺の仁王さんそのものに変わり果てていたからだ。目は飛び出さんばかりに大きく見開き、口は横に伸びていびつに歪んでいた。何を怒っているのか。

「この犬ではこの山を登れないですか」

 過ぎ去った老人の方へ体を回し、声を絞り出した。けれど遅かった。老人は足早に道を下りて行き、すでに駐車場の階段へと向かっていた。

「早いな」

 しばらくの間、老人の後ろ姿を眺めていた。カーキ色のリュックを背負い、ふくらんだポケットには灰色の金具が何本も刺さっている。反対側のポケットでは二色織のロープが揺れている。足を上げた靴裏は分厚くボコボコとしている。そのせいで足元だけが後れを取り、出で立ちとはかけ離れた年寄に見えた。老人は駐車場に続く階段へと姿を消し去った。

「あんなふうに言わなくてもね、サーフ」


 サーフと初めて出会ったのは四年前、夫の悟と買い出しに出掛けたショッピングモールだった。駐車場から建物に入るや否や、ガラスに仕切られた部屋の向こうに飛び跳ねる子犬たちが見えていた。買い物客がガラスに手をついて歓声を上げていた。十ばかりに仕切られたそれぞれの部屋で白や薄茶色、茶褐色といった様々な犬があどけない姿で応えていた。

 そんな人だかりの合間で一匹の犬だけが眠りこんでいた。その犬は全身が真っ黒だった。頭を両足の間にうずめているせいで姿かたちがわからない。誰も顔の見えないその犬を気にかけていなかった。

 その犬が頭をもたげ瞳を開いた瞬間、私の心は決まっていた。

 会いに出かけたのは一度や二度ではなかった。四度目の夜に家に連れ帰った。その夜から私と悟の生活が一変した。私たちの人生はサーフが主人公の物語に書き換わった。


「この山険しいのかしら」

 社会人になって十年。今となっては往復一時間の通勤だけが私の運動時間だ。だからこそ老人の言葉が私を不安にさせた。

 そもそも、ハイキングコースと書かれた看板を見てやって来たのだ。

「崖を上るわけじゃあるまいし」

 私は道の先に目を凝らした。足元のアスファルトが視界の端まで続いている。それにしても、老人は登山をする人の恰好そのものだった。もっと先に険しいコースが用意されているのだろうか。

 サーフがリードを引っ張る。犬と言う動物は初めて歩く道の匂いを早く嗅ぎ回りたい生き物なのだ。

「わかったよ」

 歩き出した道の左側は山の斜面だ。山肌の木は空に向かって勢いよく枝を伸ばし、枝の多くは黄緑色のやわらかい葉をつけ始めていた。若葉の香りが通り過ぎると、お日様が出始めた時の乾いた洗濯物のような臭いが漂ってきた。もう太陽が山の上に顔を出す時間か。上着は手を通さずに腰に巻いたまま歩くと決めた。

 山の斜面から木立が遠のき、土が露わになってきた。

 ようやく案内板が見えてきた。

『野鳥の森 こんな鳥がいます』

 シジュウカラ、メジロ、キビタキ、オオルリ、コゲラ。それぞれの絵の下に水彩画のような鳥のスケッチ、さらに鳴き声がカタカナで書き添えられている。これならスズメと燕程度しか知らない私にでも見つけられる。

 案内板のすぐ脇から山に向かって階段が始まっていた。丸太を地面に埋めただけの簡単な階段だ。段差が狭く子供でも駆け登れるほどだが、これがハイキングコースなのか。案内板にその文字は一言もない。

サーフが行こうと首を振り上げた。

「でもね、おまえの足ではこの階段を上るのは無理よ」

 腰を落としてサーフを抱きあげる。

「両手で横に抱いてください。ダックスフンドはヘルニアになりやすいからね」

 獣医の声が聞こえるようだ。わかってはいるけれど今は片手だ。両手で抱くと足元が見えづらい。

 サーフを持つ手がしびれ始める。落っことしてしまいそうで一気に階段を上りきった。
息が上がった。静まるのを待ちながらこれから登る山に目をやった。

 これはいい。上り坂は緩やかで道幅は今登った階段の倍はある。サーフと並んで上れそうでいい。

 サーフを地面にゆっくりと降ろした。彼はすぐさま頭を左右に振り回す。長い耳がプロペラのように回転した。続けて前足から尻尾の先まで全身を激しく揺さぶった。見ている私まですっきりとした。

 足元の土は黒っぽい色をしているが踏みしめると軟らかい。

 道の両脇は整備された並木道さながらに葉を広げた木が等間隔にそそり立っている。葉の隙間から太陽が通り抜けて来た。手の平で捉えるとほのかに暖かい。

 いきなりホイッスルのごとく甲高い音が森を切り裂いた。顔を上げると一本の枝が大きく揺れて一羽の小鳥が飛び去った。

 私は思わず息を吸いこんだ。まだ艶やかな朝の空気がしっとりと肺を潤した。来てよかった。

「さて登るぞ」

 サーフを見下ろした。私と目が合うのを待っていたかのように、サーフが走り出した。私も慌ててついて行く。

しばらくは緩やかな上り坂を進んだ。そのうち道の先が見えなくなった。道はS字にカーブを始めた。

 何度目かのカーブでサーフが足を止めた。足を踏ん張ったままで耳をそばだてる。私も足を止めて耳を澄ませた。ズッズッと言う音が耳に届いた。その音は一定の長さで繰り返される。人間の足音だ。ほっとした。

 リードを握りしめてその場で待った。曲がった道の向こうから登山帽が現れた。同時にポケットだらけのチョッキと、またしても登山靴が見えてきた。顔が垣間見えた。先ほどの老人より若干若い中年の男性だった。

 男性は目が良くないのか、思いっきり眼を細めてサーフに顔を近づけた。

「かわいい犬だな」

 私は礼を言った後、思い切って男性に聞いてみた。

「この先険しくなるんですか」

 男性は来た道に体を回して指をさした。

「あの岩の先に急な坂があるけど」

 言い終わらないうちにまたサーフを見下ろした。

「がんばるんだぞ」

 男性は両手で拳を作りサーフの前に突き出した。そして来た時よりも早足で降りて行った。

「まただわ」

 私はサーフの頭を撫でつけた。どいつもこいつも犬ばかり気にする。

「お前には難しいのかな」

 その岩で休もう。リードを引いてサーフを促した。

 岩の表面は、大きな刀で真横に一気に切り裂いたように平らだった。滑らかな椅子の座面のようで私の足が突然悲鳴を上げた。私はリュックも降ろさずに尻を落とした。

 男性の言っていた急坂が、目の前にそびえ立っていた。なかなかのものだ。掘ったように一度下がり、すり鉢の淵に向かうように弧を描いて上っている。

 サーフが舌を出していた。息が上がっている。

「喉が渇いたね」

 リュックを下ろしアルミの皿と水の入ったペットボトルを取り出した。皿に水を入れると太陽が皿の中に顔を出した。皿の中で揺らめく太陽をサーフが舌で掬いあげた。

 コツコツコツコツ……。

 頭のすぐ上だ。木を突いているリズミカルな音。静かに頭を上げ見回した。大きな幹から枝が伸びたところ、ちょうど人間の男性の二の腕とそっくりなところを縞模様の小鳥が歩き回っていた。『野鳥の森』の案内板を思い出した。コゲラだ。まだ目当ての虫が見つかっていないのか留まる場所を決めかねていた。

「パパと一緒に来たかったね」

 悟は決してサーフの散歩を怠らなかった。

 帰りがどんなに遅くなっても三十分は連れ歩く。おかげでサーフの足が逞しく太り、胸も反り返るほど大きくなった。

 サーフにはきっとわかっている。けれどまだ帰りを待っているのかもしれない。今朝もまた、悟が去って行った方角を見つめ続けていた。

 悟は事故で急死した。きょうが四回目の命日だ。「行ってくる」と声を残したまま「ただいま」が聞けていない。私はまだ飲み込んだ空気を吐けていないままでいる。


 今朝は悟の好きだった特別なコーヒーを淹れた。咲き始めたばかりの花のような浅く香しい香り。専門店でしか手に入らないけれど、昨日の会社帰りに足を延ばして買ってきたのだ。

 エスプレッソ用の小ぶりなコーヒーカップは悟の仏壇に、たっぷり入るマグカップは私用。それらを並々とコーヒーの入ったポットとともに両手に抱えて仏壇に向かった。

 小さなカップにコーヒーを注いだときだ。

「しまった」

 ポットの蓋が外れカップの上でカコンと音を立てた。慌ててポットを水平に戻したが遅かった。

 仏壇の中は土色の水溜りが出来上がった。水溜りの中から拾い上げたものは皆、茶色の雫がとめどなく滴り落ちる。

「お財布も水浸しだわ」

 救い出した財布の中身を、広げた新聞紙の上にぶちまけた。

 悟のポケットから出てきた時のまま、何もかもそのままにしておいたのがいけなかった。

 悟がもしここに帰って来たら財布を探すに違いない。そんな淡い思いがそうさせていたのだった。

 ティッシュで軽くふき取りながら指先で一つ一つ拾い上げる。犬と私の写真、コンビニのレシート、これは悟の最後の買い物だ。それとお札が数枚。これらは沁みだらけだ。カード類は洗えば済む。ポイントカードはもう捨てよう。その奥から数枚の名刺を引っ張り出した。これらはコーヒーの災難を逃れ乾いていた。

 引っ張り出した名刺も新聞の上に並べてみた。仕事関係のものが数枚とうちのリフォームを見積もった会社が二枚、最後の一枚は悟の名刺だった。これだけが手垢にまみれている。気になって裏返してみた。

『五月四日AM一〇:〇〇 川美村』

 悟の字だ。

「何これ」

 私は名刺を持ったまま空を見つめた。

 きょうが五月四日。

「大きくなったらきょう行く山へ絶対に連れて行くからな」

 悟が亡くなる前日、四年前の五月三日に言い残したその言葉が今も頭から離れない。

 仏壇を振り返り写真を見る。とっておきの悟の笑顔がきょうは引きつって見えていた。写真の前にはコーヒーの沁みたティッシュが山になったままだ。

 私は携帯電話で地図を立ち上げた。川美村から事故現場はいくつもの山を越えてつながっていた。

 リュックサックを手に取った。財布やタオル、水や犬用の皿などを突っ込むと犬を抱きかかえて助手席のゲージの中に座らせた。

 カーナビの目的地に川美村と打ち込んだ。いくつもの候補地が居並んだ中で『川美村野鳥の森』が目に留まった。

「ここだわ」

 悟はサーフを子供の様に愛し慈しんでいた。天国から見ているのかどうかわからないが、きょう連れて行ってくれと言われている気がした。エンジンをかけた。サーフが立ち上がって一声鳴いた。

「嬉しいね」

 私は袖口で目尻を抑えるとアクセルを強く踏み込んだのだった。


 どのくらい思い返していたのだろう。サーフが私の脛に頭をぶつけて来た。

「ごめん、ごめん。とっくにお水を飲み終わっていたのね」

 アルミ皿にわずかに残った水を捨て、ハンドタオルで軽くふいた。袋に入れてリュックに押し込み立ち上がった。

 リードを固く握りしめて行く先のすり鉢状の坂を仰ぎ見た。

「行くぞ」

 最初の下りで勢いをつけ、ぐーっと上まで一気に登った。地面に小さな石がちらほらと突き出ていた。それらは足の裏にひっかかり滑り止めになってくれた。意外にも、うまく行った。

 ひと思いに駆け上がったせいで呼吸もそれほど乱れなかった。サーフもだ。

「たいしたもんじゃない」

 彼も上手に登り切った。さらに先へ行こうとリードを引っぱり続けている。

 すり鉢の淵で道が二手に分かれていた。左は下っていて右が上っていた。迷わず右に進んだ。

 歩き始めるとすぐにサーフが立ち止まり後ろを振り返った。左側の下り坂から人が現れた。そのまま待っていると、小さな老女杖を突きながら上ってきた。ゆっくりではあるが杖のせいでリズムが伴っている。三叉路を通りすぎ私たちが上ってきた坂へと下って行った。すり鉢を下がっていったのだ。

「大丈夫かな」

 私はすり鉢の淵まで急いで戻った。老女はもう、さっき休憩した岩のところまで下りていた。早い。ここに来る老人たちは皆慣れているのだ。

 サーフはまだ動かない。老女をじっと見つめ続けていた。

 老女の姿が見えなくなってから全身で身震いをした。

「さあ、行こう」

 道は緩やかに上っている。サーフの足取りも軽やかだ。道の両脇には相変わらず背の高い木が間隔をあけて整列している。あいた地面からは小ぶりの木や伸びかけた草があちらこちらから突き出していた。

 低く黒っぽい木の枝から十数羽の鳥が一斉に飛び立った。裸になった木には丸い紫色の実だけが残った。食事の邪魔をしてしまったらしい。また戻ってくるかしら。

 羽音の消えた空間あたりからちょろちょろと水音が聞こえてきた。濃く艶のある木の葉が私の胸元ほどの高さで密集している。水音はその根元から聞こえてくる。枝の上から首をつき出し覗き込んでみた。岩が重なりあい小さな崖を作っていた。そこに流れる水が岩を伝っている。中程からは滝のように落ち、たまった水が空中にはね返っていた。

 水の流れが空気を動かし、私の髪を揺らしはじめた。うっすらと汗ばんでいた額がひんやりとしてここちよい。しばらくのあいだ、はねた水がダイヤモンドのように光る光景を眺めていた。

 一本の道が目に入った。足元から滝の横を通って森の中へ続いている。獣道か。

 サーフはダックスフンドの中でもひときわ足が短い、と皆が言う。最近ではお腹が丸みをおび、どんどん地面に近づいてきている。この山の頂上がどの位行けば着くのかわからないが、登りきるのは難しいだろう。行きかう人々にもそればかり言われている。

 家から車で一時間三十分、標高四百メートル。出がけにエンジンを温めながら、この山を携帯電話で調べていた。四百メートルがどのくらいの高さなのかがわからない。だがすぐ後ろに九百メートル、千メートルと山々が連なっている。高速道路からも遠目に見える山だった。それなりに高く並び立つさまは堂々として威厳をも感じたものだ。

 この獣道を進めるところまで行こう。休める場所を見つけてボーっとしよう。本も持ってきた。カメラもある。鳥を撮るのもよい。それで十分だ。道路のすいているうちに家に引き返そう。

「そっちに行ってみようか」サーフに声をかけた。

 だが彼は四つん這いのまま動かない。しっぽは真上に立てたままだ。これほど細い道に入ったためしがないからだ。少しずつ引っ張り森の中へ足を踏み入れた。

 獣道は上り坂が続いていた。重くなってきた靴底を見ると土がつき始めていた。空気が凛として水気を帯びている。深い森に入った証だ。別世界への扉があったとしたら、開いていた扉に気づかず入りこんだ。そんな気にさせた。

 サーフが立ち止まり道の先を見つめる。数歩歩いては止まる。声をかけ促しながら進む。枝の間から垣間見えた空の青がさらに遠くへ行ってしまった。立ち並ぶ木々が葉をこすり合わせる。そこかしこからざわめきのように聞こえ始めた。

「暗いな」

 私まで足を前に出すのをためらった。これが続くのならこれ以上進まないほうがいいのか。カーブしている道の先を見た。木の間から灰色の岩が垣間見えた。

「なんだろう」

 足がひとりでに歩き出した。道のつきあたりか。山が灰褐色の岩肌をさらけだし、まんなかにぽっかりと大きな穴をあけていた。洞窟だ。大きな四輪駆動車でも悠々と入れる大きさだ。ゴツゴツとした岩が壁を作り、湿った土の地面が続いていた。三歩ほど進んだ先は、奥から迫りくる暗闇でかすんでいた。

 耳を澄ませた。何だろう。くぐもった音が洞窟の奥から聞こえてくる。風だろうか。サーフは足としっぽをピンと張り、目を見張ったまま歯を食いしばっていた。音はだんだんとさらにはっきりと聞こえ、それが足音だとわかった。人影が闇の奥から走り出てきた。

 慌ててサーフを抱き上げ入り口の脇へ体をずらした。サーフが小声で唸り始めたので口を手で覆った。

「かんべんしてくれよー」

 男性は口の中で声を出した。三歩ほど歩くとさっと後ろを振り向いた。やがて前に向き直ると目を閉じ、大きく息を吐いた。さらに肩を上下に動かし深呼吸を繰り返していた。

 男性はすぐ脇にいる私たちに気づかない。びっくりされる前にこちらから声をかけてみた。

「あのう」

 結果は同じだった。男性は一メートルほど飛び退いた。

「ごめんなさい」

 私は小さく叫んだ。私の顔を見ると男性はふうと息を吐いた。

「何かあったんですか」私が尋ねた。

「いやー、それがなあ」

 男性は右手で頭の後ろを掻いた。

「この洞窟を初めて見てね」

 五十歳前後だろうか、この人はいかにもハイキングといった軽い服装だった。

「なんで今まで気がつかなかったんだろうって入ってみたんだよ」

 私は洞窟の奥に目をやった。男性はポケットから懐中電灯を取り出して見せた。

「そうだな、十分くらい行くと突き当たりが見えてきた」

「わりと深いんですね」

「でもよ、奥をはっきり見る前に声がしたんだ」

「人間のですか」

「はじめはエコーのきいた爺さんのような声が唸っていると思った」

 男性はズボンの後ろポケットからタオルを取り出し額の汗をぬぐった。

「びっくりして突っ立っていたら、もう一回聞こえてきた」唾をのんで続けた。

「何かがおるかーって」

「何かって」

「そこがよく聞き取れなかったんだ」

「おじいさんはいたんですか」

「懐中電灯で照らしてみたけど誰もいなかったんだよ」

「もしかして幽霊」

「まだ昼前だぜ。でもな、もう一回聞こえはじめた時にはそう思ったよ」

 男性は両手で両腕を包むようにしながら言った。

「で、このとおり逃げてきた」

 私は洞窟に足を半分だけ踏み入れた。暗闇に耳を傾け、音を探した。頭の上で木の葉のこすれる音がさざ波のように行ったり来たりしている。ときおり風が吹き抜け笛の音のように鳴った。

「あんたも早くここをはなれた方がいいよ」

 男性は片手を上げると背中を丸め小走りで去っていった。

 左手が小刻みに震えていた。抱えていたサーフをゆっくりと地面におろした。最初に前足を、あくびをしながら後ろ足を気持ちよさそうに伸ばした。力の抜けた左指にしびれが走る。リードの持ち手を右手に持ち替えようとした。その時、サーフが走り出した。手からはなれたリードが波打ち、サーフの後を追うように走っていった。

「え、待って。サーフ!」大声で叫んだ。戻ってこない。

「なんで? サーフ!」

 庭でリードを外しても走り出したりはしなかった。散歩中にリードを放してしまったときも私の顔を見上げて待っていたじゃない。それなのに。一人きりで暗闇の中へ駆け入ってしまったなんて。

「うそでしょ」

 名前を繰り返し叫んだ。二分も待つと戻ってくると思えなくなった。

「どうしよう」

 私も入るしかない。懐中電灯なんて持ち合わせているはずがない。それでもポケットに手を入れた。携帯電話に手が触れる。これがあった。

 一歩ずつ穴の中へ踏み込んだ。電話のライトと言うものをはじめて使った。思ったよりも明るい。腰を少し折れば地面がくっきりと見える。歩きながら名前を呼び続けた。

 名前を呼んでも戻ってこないなんて、足を怪我して動けなくなったに違いない。いや、倒れて横になっているのかもしれない。隅っこにいたらとても見えない。なにせ真っ黒な犬だ。首輪だって見分けがつかない。はじめはうす茶色の天然皮だったが焦げた茶色に変わり果てている。もっと目立つ色にしておけばよかった。

 生暖かい空気が頬をかすめた。どのくらいのあいだ、入れ替わらずにここにとどまっているのか。洞窟であるはずなのに私の鼻は砂漠のような渇いた空気を吸い込んだ。この中も外と同じ時間が流れているのだろうか。

 そうだとしたら穴の中を一〇分は歩いている。おじさんが突き当たりまでかかったと言っていた時間だ。ライトを奥に向けてみた。すると、何かが聞こえた。足音を消して耳を澄ませた。

「ウー、ウー」

 かすかだがサーフのうなり声だ。立ち止まったまま大声で叫んだ。

「サーフ!」

 反響する自分の声が消えるまでじっと待った。

 期待した声の代わりに、うしろから妙な音が響いてきた。ザクザクコン……、ザクザクコン……。誰かくる。

 サーフの声の方へ駆け出したかった。だけど、どうしよう。足を止めたまま首ばかりを前後に振った。後ろからくる何者かが、おじさんが聞いたと言う声の主なのか。自分が襲われてしまってはサーフを救えない。ライトを消した。息を殺して壁を手で探った。指先が触れるとゆっくりと背中からよりかかった。

 その奇妙な音が白い灯りとともに近づいてきた。削れた杖の先と白い足首が目に入った。

杖と言えば。坂の上の三叉路で見かけた老女が杖をついていたっけ。

 息を吐く音も耳に入ってきた。かなり近い。すると、吐く息にしわがれた声が混ざって聞こえた。

「おねえさん、そこにいらっしゃるんか」

 すくんでいた私の肩がすっと下がった。

「はい」

 私は間を置かずに聞き返した。

「なぜ、おねえさんってわかるんですか」

「やっぱりここへ来てしまったか」と言うと、そばまで来て私の顔をライトで照らした。

 思わず顔を背けた。

「ごめん。犬を連れて上に登って行った人だろ」

「なんだ、気づいてたんですね」

「犬は取られちまったか」

 取られたって、何かの言い回しだろうか。

「今追いかけているところです。この先で鳴き声がするんです」

「じゃ急がないと」

 老女が先に立って歩き始めた。

「あの、ここへ入ったのは初めてじゃないんですか」

「朝早くに入ったばかりじゃ」と答えると足を止めた。

「何も知らなくてここへ来たのか」

「おそらく、そうみたいです。山の空気を吸いに来ただけなんです」

 この低い山で登山の恰好をしたおじさんを二人も見た。そしてこの老女だ。

「この山、何かあるんですか」

「それより、犬だ」

 老女は答えずに先を急いだ。

 洞窟の突き当りは光が射していた。それに人間が一人入れるほどの穴があいていた。穴の内側に平らな岩で台が出来ていた。

 サーフのお尻が見えた。その穴に半分体を入れ、台に向かって低い声でうなっている。

 大声で呼ぶとサーフの頭が振り向いた。しっぽを指揮棒のように繰り返し振り続ける。その反動でお尻が左右に揺れている。ああよかった、と思ったそのときだった。

「黒い犬がおったぞー」

 年老いた男性の低い声が響き渡った。

 取られる! 私は走り、サーフを掴もうと手を伸ばした。老女が私の体を支えてくれた。あと一歩、白く光る真ん丸な目と見つめあった瞬間だった。サーフは空中に浮いた。透明な手で持ち上げられたかように、ふわっと。星のようなの光が台の上を照らすとサーフの二つの目が不気味に光を放った。その眼はまだ私を見上げていた。そのとたん、小さな洞窟がシャっと閉ざされた。まるで天の岩戸のように。

「いやよ。なんで。どうしてサーフを取られなきゃいけないの」

 私はサーフと何度も叫び、閉じた岩戸を叩き続けた。叫ぶのをやめて岩戸に耳をくっつけてもサーフの声は返ってこなかった。下を向いて座り込んだ。

 老女が私の肩に手をそっと置くとそのぬくもりが伝わってきた。そう言えば、朝ここへ来たと言っていた。何か知っているのだわ。

「この扉はどうやったら開くんですか」

 私は老女を見上げたが表情が見えない。電話のライトで老女の顔を半分照らした。老女がぐっと顎を上に向けた。

「私は様子を見に来ただけなのだが」

 老女は黙り込んだ。しばらくしてはっと息を飲むような音と共に話を始めた。

「私の息子は、孫を返してほしいと願った」

 何の話だろう。頭が氷の塊のように重い。次の言葉を待つしかなかった。

「一生に一度の願いを。そして代償が自分の命だ」

ぞくっとした。

 何かの儀式じゃあるまいしと思いつつも、凍りついた頭の中で溶けた血管から血液があふれ出てくるように頭の中がぐちゃぐちゃになった。

「とにかく、早く外に出なくては」

 老女は座りこむ私の腕をだしぬけに掴んだ。

「でも……」

「ここはな、時間が進まないんじゃよ」

 普通の洞窟とは何か違うと思っていた。蝙蝠や蜘蛛やらがいそうなものだが、生き物の気配を感じない。草一本、苔一株さえも生えていないのだ。

 私は反対側の手を地面につき、よろよろと立ち上がった。働き始めた脳みそのひだの間に老女の物話を押しこんだ。手のひらについた土を掃った。

 閉ざされた岩戸にもう一度手をやり、片方の耳をくっつけた。サーフの気配はもう消し去られている。

「サーフ、待ってて」

 私は声に出さず、口の中でその言葉を飲み込んだ。

 老女が私の後ろに回りこみ、足元を白いライトで照らしてくれた。岩戸が閉ざされてからは再び暗闇に戻っていた。

「さあ」

 老女は掴んでいた私の肘をほんの少し押し出した。足が一歩前に出る。そのままそろそろと歩きはじめた。

 何がサーフを持ち上げたの。あの奥はどうなっているのだろう。あの台は何のため。頭の中を疑問がぐるぐると回る。そしてまた同じ疑問、なんでサーフを連れて行ったの。

「そういえば、あのおじさん」

 洞窟から走り出て来た男性が最初に語った言葉を思い出した。私は声を上げた。

「今までなぜこの洞窟に気づかなかったんだろうって言っていたわ」

 何も言わず一〇歩ほど進んだあと、後ろから老女の声が返ってきた。

「その人はどんな格好だったかね」

「そうなの。その人だけが私と同じようにハイキングに行くような服装だったわ」

「番犬がいなかったから、誰でも入って来れたからな」

「番犬って」

 と聞きかけた時、誰かが呼ぶ声が洞窟にこだました。光が差し込んで出口が見えていた。

「おーい」

「あれ、真人かー」老女が応えた。

 出口にいそいだ。どんなに目を凝らしても輪郭を捉えるのがやっとだ。少し待った。輪郭は一人の男性の姿となり、ポロシャツにジーンズ、カーディガンをはおり、腰に手を当てているとわかってきた。おおよそ三十歳位だろう。

「ばあちゃん。一人で山に登るなんて無茶だよ。あっ」

 老女がへたり込み、両手で耳を覆った。同時に、私の耳の奥から最大限のボリュームで音が流れ出した。深夜のテレビ放送が終了した時のカラーバーとともに流れるピー音そのものだ。

 しばらくしてその音が止むと、老女が首を振りながら言った。

「洞窟に入る前の時間に戻されたんじゃよ」

 私はあわてて時計を見るために、携帯電話を取り出してボタンにタッチした。

 十時五十五分。はっきりと時間をおぼえているわけではないが、確かに思ったよりも時間が過ぎていない。

 真人と呼ばれた青年が老女をゆっくりと立ちあがらせた。

「あまり時間が長いと気絶するそうじゃ」

「さあ、帰ろう」

 真人が小さな声で老女をたしなめた。

「こんなことしたって翔太は帰って来やしない」

 真人はちょこんと私に頭を下げた。そして引っぱるように老女を連れ去った。

 さっきの老女の話、孫が翔太くんなのだろう。そしてこの人が息子にちがいない。なんだ、生きているじゃない。やっぱりさっきの話は昔話なのだわ。

「おばあさん! ありがとうございましたー」私は慌てて叫んだ。

 小さくなった丸い背中から手が弧を書くように伸びた。名前も聞かなかった。見えなくなった老女に頭を深く下げた。

 どっと座りこみたくなった。あたりを見回した。少し道を戻ったところに切り株があった。腰を掛けてリュックを下ろした。ペットボトルを取り出し、水を飲む。サーフの水のボトルが隣に並んでいた。取り出すと両手で包みこんだ。固いプラスティックの感触がふわふわとした毛並みに変わる。また涙があふれてくる。ここにいれば戻ってくるかもしれない。そう思うと立ち去り難かった。

 こうして座っていると何事もなかったかのようだ。家に帰ればサーフがしっぽを振って迎えてくれるのではないか。いや、もうすぐ曲がった道の向こうから走り出てくるのではないか。

 どの位そうやっていたのだろう。お尻に痛みを感じだしたその時、道の先から足音が聞こえてきた。耳を澄ます。土を踏みしめるような足音だ。サーフの土を蹴る音とは違う。

 音はカーブを曲がって姿を現した。人間だった。今度は軽めの登山スタイルだ。六十がらみの男性だった。きょろきょろと首を回している。木の間で座っている私を見止めると大きく目を見開いた。

「犬を見たか」

「え、黒い犬ですか」

「ああ、黒くてちっこい犬だ」

「まさか。その犬がいたんですか」

「あれ、番犬だろ。この山の」と言うと頬が少しにやけた。

「番犬って何ですか」

「想像していた番犬と全然違った。足がひどく短くてな」

「今? 今、いたんですか」

「ああ、このカーブの手前まで、前を走って案内してくれていたよ」と、男性はその先に目をやった。

「ああ、これが洞窟か」

 その声を聞きながら私は既に走り出していた。男性が来た方へと道を戻りカーブを曲がりきった、その時。

 すっと小さな黒い影が動いた。その影はいっとき立ち止まりこっちを見上げていた。私は影と目が合った。だが影は走り去った。まるでこれ以上見ているのがいやだと言った風に。

「サーフ!」

 まちがいない。なぜ私には影しか見えないの。番犬って何。あの洞窟のお化けに番犬にさせられたって言うの。

 でも生きている。生きているなら取り戻せる。さっきの男性はどこで会ったのだろう。

 私はいそいで洞窟まで戻った。だが男性は洞窟に入って行ってしまったようだ。戻るまで待つか、それとも山を下ってみるか。そうしたら、もう一回下から登ってくれば番犬が出てくるのだろうか。私もサーフに案内されるのだろうか。

 確実な方を選ぶべきだ。日が暮れるまでに取り戻さないと、暗くなった山では下山さえ難しい。切り株に再び腰を掛ける。太陽がまもなく真上に昇るところだ。

 高い木の枝の向こうは絵の具をたっぷりの水で薄めたような透き通った水色の背景が広がっている。先端の枝が揺れると、いっとき何もかもが真っ白な光に包みこまれる。太陽が真上に昇ったのだ。

 もう昼なのか。携帯電話を取り出した。立ち上げるとサーフの振り向いた顔が画面いっぱいに待ち受けていた。目がしらに力をこめて時計の文字を見た。十一時三十分。昼にはまだ時間がある。時間は多ければ多いほどいい。

 少し歩こうかと立ち上がったとき、男性が洞窟からふらふらとよろけ出てきた。しばらくの間目をしばたいていたが、目が慣れると持っていた懐中電灯をポケットに差し込んだ。そのとたん、男性は耳をふさぎ、腰をかがめた。私は目を瞑って身構えた。一度目よりはずっとましだった。目を開けて腕時計に目をやった。十一時十五分。よし、時間が戻っている。男性が首を振りながら私の方へ歩みよってきた。

「ひどい耳鳴りだ」と、さらにこめかみあたりをポンとたたいた。

「まだいたのかい」

「待ってたんです」

 男性の肩は上下に揺れていた。私は自分が座っていた切り株を指さした。

「そこで休まれたらどうですか」

 男性はよたよたと歩き、切り株の断面に片手をついた。ゆっくりと腰をかけ、リュックを地面に落とした。タオルを取り出して頭をひっかき回すと、口を開いた。

「あの番犬は、おねえさんの犬なのかい」

 私は首を縦に振り、唇を噛みしめた。

「ここんところ、黒い犬をほしがっているって聞いていたが」

「誰が」

「山だよ」

 サーフは山の番犬にされたのか。私はあふれそうになる涙を指の先でとらえた。

「なぜ黒い犬なの」

「訳は知らんが、前の番犬が黒い犬だったらしい」

 男性は口に当てたペットボトルをさかさまにし、ごくごくと音を立てた。キャップをつけ直しながら尋ねた。

「おねえさんはどうやってここに来たんだい」

「ただ細い獣道を伝って歩いてきたらここにたどり着いたんです」

「ふん」男性は首を小刻みに上下に揺らした。

「番犬の役目は、願い事を叶えに来たものだけをここへ案内する」

 続けてタオルとペットボトルをリュックに押し込んで言った。

「ハイキングに来たような人には来させないようにするためだ」

 男性がすくっと立ち上がった。

「これ以上は言えない」

「どうして」

「願いをかけたものは、ここに至った道筋や願う手順を口外してはいけないと約束させられたんだ」

 男性はリュックを手に取り、背を向けたまま声だけを出した。

「あんたの犬って言うから、聞き及んだ話はしたが」

 男性はリュックに腕を通しながら歩き始めた。私は口を開いた。だが声にならないまま、丸まった男性の背中を見送った。

 ジェット機のエンジン音が高い枝の上を通って行った。

 人差し指くらいに小さくなった男性をただ眺めていた。すると人指し指が振りむいた。

「願えばいい❘」

 そういうと大きくうなずいて見せた後、手を振った。

 私は背伸びをして両腕で丸を作った。願えばいいのだ。サーフを返してください、と。

 ワルツでも躍りたい気分だ。小走りで洞窟に向かった。だが足は、はたと止まった。

 願う手順……と男性は言っていた。ふいに老女の言葉が、記憶の襞からポンと飛び出した。

「命と引き換えに……」

 何かを差し出さないといけないのか。

 それよりも――。手順が分かったとしても。やっと手に入れた番犬を手放すのだろうか。

「とにかく、山を下りて引き返してこよう」

「願い」を持って登ってくれば番犬が、サーフが案内をしてくれるかもしれないのだ。

 道は途中からくねくねと曲がり始めた。Y字路や三叉路を下に下って行くように進む。携帯電話で写真を撮っておこう。草を抜いて枝にぶらさげた。道標(みちしるべ)だ。

 やがて道は下り、大きな岩が重なる岩肌に差し掛かった。やっぱりおかしい。来るときは木立を縫うような平坦な一本道だった。一つの石ころさえ見ていない。風景が明らかに別物だ。だから登山スタイルなのか。

 願い事を持った人だけを通す道、しかも手順どおりに来ないといけない。きっと手順を知らない人たちが登山の構えで無理矢理入り込もうとして来るのだ。

 そして番犬のいなかった時だけが誰でも入り込める時間だった。だがそのせいで、私とサーフは迷路へと迷い込んでしまった。

 なんとか岩を滑り降りると見通しが良くなった。今までよりはあきらかに広い道に突き当たった。その角にはこんもりとした茂みがある。水の落ちる音と、小さなしぶきが垣間見えた。

「間違いない。ここが獣道に入って行ったところだわ」

 すっと冷たい空気が頬と鼻を掠めて行った。洞窟の中の乾いてよどんだ空気が蘇った。身震いが体を走った。でもサーフを取り戻すためには再び入らなければならない。

 ここを歩いて登ってきた朝が何日も前の出来事のようだ。サーフの左右に揺れるお尻を見ながら、のんびりとしようと思っていたのに。

 道の先が消えて下に続く道が小さく見える。すり鉢状の坂だ。足を後ろに蹴り上げて靴の裏を見た。自分の靴底を初めて見た。思った通り凹凸がない。ずるずると滑るはずだ。今度ハイキングシューズを買おう。

 坂の頂点で立ち止まった。

 すり鉢の淵、三叉路だ。左側が上ってきたすり鉢坂で、右側は細くゆったりとした下り坂だ。

 ここで初めておばあさんを見かけた。おばあさんは何度もここを歩いているのだろうか。

「なぜおばあさんは右から来たんだろう」

 看板が一つ立っていた。一気に登った急坂の途中だ。「P」の文字と矢印の書かれた看板が突きささっている。右側には何の案内もない。

 風がくるりと舞うように通り抜けた。ほつれた髪が右の坂道に向かってなびく。

「ちょっと行ってみよう」

 坂道は浅瀬の砂浜のように緩やかに下っている。道はだんだんと森に吸い込まれるように細くなり、伸びた枝が髪をひっかける。髪を枝からほどきながら目線を前に戻すと、道の見分けがつかなくなっていた。ため息をつきながらあたりを見渡した。真横に向かって一筋、誰かが歩いた後が残されていた。両脇の枝は深い緑色の葉を蓄えている。そのつるつるとした葉は神棚に飾られる榊に似ていた。

 何度も髪をひっかけながら奥へと入り込むと、灰色の鳥居が垣間見えた。近づいて手で触れるとざらざらとした古い墓石のようだった。そのすぐ真下から階段が始まっていた。上りきると小さな境内が広がり中央に拝殿が備えられている。乾いた地面には一斉に草が芽を出し始めていた。拝殿は四角い斜め格子の扉でぴっちりと閉ざされている。中を覗こうと隙間を探したが無駄だった。

 拝殿の前には古ぼけた賽銭箱が置かれている。その横にちいさな屋根を付けた案内板が立てられていた。大上神社と書かれている。おおうえと読むのだろうか。

 赤茶けた木製の拝殿は古ぼけたログハウスのようにも見える。手を触れると思いのほか滑らかにすべる。後ろ側に回りこんでも同じように隙間は見当たらなかった。

 傾いてきた太陽が黄色みを帯びて拝殿を突き刺してきた。

「無駄な時間を使ってしまったわ」

 急いで階段を下り境内を走り抜けた。木立のわずかな空間を潜り抜けると、やがて三叉路が見えてきた。すり鉢のふちで一呼吸置くと、駐車場まで一気に走り抜けた。

 空っぽのドッグチェアが助手席で待っていた。ドアの取っ手を引っぱると風が音を立てて中に入り込み、入れ替わりにサーフのにおいが鼻先を走って逃げて行った。運転席にどかんと座りこんだ。体の重力が肩からズーンと下に落ち、足先にピリピリとしびれを走らせた。しばらくただ座っていた。

 こうしていると一人でここに来たように思えてくる。サーフがしっぽを振って待っている家に、帰ろう。またもやそんな考えが頭を占める。虫を掃うように頭をぶるぶると振った。

「サーフを取り戻さなくては」

 一二:三〇。ここに座っていても時間が過ぎるばかりだ。もう一度山を登ってみよう。願い事を持ってここから登ればサーフに会えるかもしれない。

 グローブボックスから懐中電灯を取り出し、車を降りた。ドアを勢いよく閉め、駐車場を出た。アスファルトの上を数分歩くと、ふわふわとクッションの上を歩いているように感じた。足の裏がむくんでいるのか。さっそうと歩くと言うわけには行かなくなった。

 野鳥の看板の脇を山へ入り込む。三度目のすり鉢状の坂道を、勢いをつけて駆け上がった。心音が耳のあたりで木琴のような音を響かせる。立ち止まり大きく息を吸う。鼻から湿気を帯びた空気が入りこむ。耳を澄ませた。

「水の音だわ」

 間違いない。滝に近づいてきた。そこから獣道に入るのだ。

 その時、道の先から黒い犬がこちらに向かって駆けてきた。

「サーフ」

 叫びかけた口を慌てて両手で抑えた。青年が犬を連れて降りてきたのだ。黒い柴犬だ。

 心の中で何かが頭をもたげた。貢物……。

 人懐っこい犬だ。尻尾を振りながら私をめがけて走ってくる。青年が紐を引いたので前足をバタバタとさせて私の膝の前で止まった。

「かわいいですね。何歳かな」聞きながら、その何かが強い衝撃へと変わる。

「一歳になったばかりです」

「あら、そう」

 私はしゃがみ込んで柴犬の頭を両手でなで、徐々に前足の脇に両手を挟む。

「まだ赤ちゃんなのね」

 力をこめた。すぐに走り出せるように位置につく。

「この先はきつい下りだから気をつけてね」

 私は顔を上げ青年に微笑んで見せた。両手から力を抜いて立ち上がった。

「そうですか。さようなら」

 青年と犬は去っていった。

 丸い瞳がサーフとよく似ていた。あの犬ならサーフと交換してもらえたかもしれない。

 貢物か。おばあさんは命と引き換えと言っていた。なぜ願い事を聞くのだろう。誰かを待っているのかしら。洞窟のお化けに聞けばいいんだわ。あなたの願いは何。

「あれ、道がない」

 すらりととがった木の葉が一枚風に乗って舞い降りた。葉のこすれあう音が、迫りくる大波のように轟音と共に吹き抜けていった。カーンカーンと拍子木を打つ音がけたたましい音を立て始めた。竹やぶだ。密集した竹の幹がぶつかり合っている。

「さっき、ここを降りてきたばかりなのに……」

 竹は地面から寄り添うように突き出し、足を踏み入れる隙間を開けてはくれなかった。

「降りるときに写真を撮ったわ」

 携帯電話を立ち上げ、写真を開いて一つずつ指でめくった。突っ張っていた膝ががくんと折れた。どれも獣道の先の写真だ。道に入れない今は意味をなさなかった。写真を閉じると画面には一三:四四の文字が現れた。

「サーフ」

 竹やぶに向かって声の限り叫んでみた。番犬は現れない。電波の強さを示すアンテナが一本、ときおり出てくる圏外の文字になんとか打ち勝っている。誰かに電話して相談しようか。この山の名前ってなんというんだっけ。

 地図アプリを立ち上げた。薄緑の地図の上を点線が一本くねくねと続いている。電波が弱いせいだろうか。現在地が分からない。地図を縮小すると高速道路が見えてきた。

「郷土資料館」

 そんな文字が飛び込んできた。今朝降りたインターチェンジの近くだ。

「ここなら何かわかるかもしれない」

 立ち上がりふたたび駐車場まで走り下る。残る時間は四時間ちょっと。日が長くなってきてはいるが、そのくらいが限度だろう。時間が二回戻っているのが幸いだった。

 駐車場に走り着くや否や、エンジンがかかるのも待たずに発進した。十五分で郷土資料館にたどり着いた。隅っこに二台、玄関前に一台、乗用車がとまっていた。

 受付の若い女性がにこりともせずに私の顔を見つめていた。

 お金を払うのか。リュックを降ろし財布から小銭を取り出して女性に渡し、中に入った。

 階段とその奥にエレベーターが1の文字を光らせて止まっていた。階段の前のホールには老夫婦がひと組、椅子に腰かけて紙コップのお茶を飲んでいる。微笑ましいが話しかけている時間はない。

 資料室と書かれた矢印が階段の上で二階を指し示していた。階段を上がりきるとすぐに展示が始まった。部屋の壁にガラスで仕切りを取りつけ、その中に写真や書物などを並べている。

 ざっくりと見渡した。ここに来る意味がなかったのではと焦る気持ちが先立った。もう足は階段に向かっていた。展示写真に目を走らせながら出口付近に近づいた時、狼の写真に気がついた。

「狼がいたのね」

 近づいてみると、山で見たばかりの「大上神社」の写真も展示されている。その横に板に彫り込まれた文面があった。おおかみじんじゃ。


江戸時代末期、此の山を守っていたのは黒い狼の一族であった。狼は人間と獣の間に境界を引いた。人間は境を超えることを恐れ、動物も人里に入りこまなかった。あるとき狼の子供が人里へ迷い込んでしまった。それを見つけた人間の子供は狼を子犬と間違え、ひもで結んで飼い始めた。子狼はみるみるやせ細り、力を振り絞り初めての遠吠えをした。それを聞いた狼の父はかすかに光る石をくわえて村長のところへやってきた。狼の父の口からは血が流れ、爪ははがれてしまっていた。村長は子狼を返してやった。狼はくわえた石を足元に落とし、子狼をその口で舐め、頭を上下に一振りして山の奥へと姿を消した。石を磨いてみると金色に光輝いた。村のはずれで金が取れることを知り、村はおおいに潤った。村人が狼を大上として祀ったのがこの大上神社であるとされている。また、願い事が叶うとされ、昭和の中期までは多くの人が願い事を持って訪れた。


 あの神社、大上神社に願うのか。そうだ、賽銭箱があったじゃない。

 急いで車に戻る。まもなく一五時。エンジンをかけ駐車場を飛び出した。

 狼が日本の山にいた。知ってはいるものの、龍や一角獣のようにおとぎ話と区別がつかない。狼が山を守っていた。それぞれがいるべき場所にいて必要なものだけを捕る。人と獣の領域を守り、立ち入らせない役割を担っていた。人間には守れそうもないこの星を、もう一度狼に守ってもらった方がいいのかもしれない。

 思いを巡らせながら山へ急ぐ。やけに対向車が多い。駐車場のゲートをくぐると、登山口の階段のそばに車を突っこんだ。もうほとんどの車が出て行ってしまっていた。駐車場のコンクリートには白い四角が二列ずつ描かれていた。残った数台の車に太陽が影を落とすと、灰色に抜けた子供の歯のように見え妙に寂しかった。さあ、急がなくては。

 最初の一段に足をかけたとき、ドラムをたたくような音が駐車場に入ってきた。先のとがったスポーツタイプの車だ。そのまままっすぐに私の丸い車の隣にすべりこんできた。

 ぶるっと一振りして止まると、元の静けさが戻った。今頃来る人がいるのね。目を逸らそうとしたとき、開いたドアから白髪頭がずり出てきた。頭がくるりと回りこちらを見上げた。洞窟から私を連れ出してくれた老女だ。

「間に合った」

老女は顔を皺だらけにして言った。

「なんで」と言いながら、私は老女の元へ走った。

 まるで自分のおばあさんのように、いや、永遠の別れを告げて戦地へ旅立った後に思いもよらず再会した友人のように、老女に飛びついた。懐かしさでいっぱいだ。

「こらこら、苦しいよ」

「ごめんなさい」

「一人でどうしていたんだい」

 私はもう一度抱きついて涙の吹き出た顔を老女の肩に乗せた。心細かったんだ、私。すばやく涙をぬぐうと体をはなし、頭を下げた。

 老女は首を回して運転席を返り見た。見ると真人が微笑んでいた。洞窟の入り口でまで老女を迎えに来ていた息子だ。真人が頭に手をやりぺこりとお辞儀をした。私は両手で頬を覆い、深く頭を下げた。

「すみません。おばあさんに抱きついたりして」

 真人は相変わらずにこやかに首を横に大きく振った。

「家に着いて、あなたの話を聞いたんです」

 車から降りてくると真人は切れ長の目を老女に走らせた。老女は固く握った握り拳を私の手に向けて差し出した。

「役に立つかどうかわからんが」

 私が手のひらを広げると老女が握っていたものをそっと置いた。私は目を見開いた。親指の先ほどの石がわずかに金色に光っていた。

「これは伝説の狼がくれた光る石ですか」

「うちの仏壇の抽斗にしまってあってな」

「これを貢物にすれば……。でも返せなくなります」

 私は石を押し返した。

「いいんだよ。持っていきなさい」

「でも、おばあさんの願いをこれで叶えた方が……」

 すると真人がはっきりとした声で言い放った。

「子供は死んでしまったんです。もう戻らないでしょう。でもあなたの犬はまだ戻ります」

 真人は無理に笑顔を作ったときのように、頬にえくぼを深く刻みこませた。

 真人は老女に一度視線を送ってから私に向かって言った。

「俺の友達がその石を持ってあの洞窟へ行ったんです」

 老女は口をはっと開けると大げさに真人を見上げた。

「子供を取り戻すために」と真人は肩を落とした。

「真人、それは」

 そう言いながら老女は倒れこむように車のボディに手をついた。私が大急ぎで車のドアを開け、駆け寄った真人が老女を座席に座らせた。

 真人はこくりと頭を下げ、話を続けた。

「兄弟同然、いや、それ以上のやつでした」

「その友達はどうなったの」

「駄目だったんです。そいつじゃ駄目だった」

 真人の肩が小刻みに揺れ始めた。強く握った拳をも震わせ、自分の額に押し付けて抑えこんだ。

 私はふいに洞窟の中でおばあさんに聞いた言葉を思い出した。

――息子が孫を取り戻すために――。

 だったら――。私は口から出してしまった。

「その友達が父親だった」

「え」

 真人の顔から色が消えた。足元の草むらから季節外れのすず虫が空気を震わせ静かに啼いた。

 しまった。私ってなんて浅はかなんだろう。

「ごめんなさい。私、何も知らないのに」

 真人が口を開こうと唇を小刻みに動かした。だが声にならなかった。

 私は泣きそうなほど悔やんだ。自分を蔑んだ。そして、どうしようもなく自分の方から何かを告げたい衝動に駆られた。

「三年前、この近くの県道で主人が亡くなったの」

 私は一つ咳払いをした。

「私、桂木沙耶と言います」

 真人が目をひん剥いて私を見た。

「うそだろ」

 真人は首を何度も横に振り、終いには哀しそうなかすれ声をあげた。

「あなたは悟の奥さんだって言うのか」

 老女が空を見上げ何やら呻き始めた。いや、そうではない。南無阿弥陀仏と繰り返している。

「え、悟って言ったの」

 確かに悟と言った。神様仏様。この人が悟の友人だと言うのでしょうか。

 老女が念仏を唱え終えると車から両足を降ろし地面に降り立った。そして顔に米粒でもついているとでも言うように、食いつかんばかりにあごの真下から私を見上げた。

「あなたがきょう、ここに来たのは何故なんだ」

 私はやや尻込みをしながら、今朝仏壇でメモを見つけるまでの話をして聞かせた。

「五月四日十時、川美村と、書いてありました」

 そう締めくくると、今度は真人が呻き出した。

「それは、俺との電話のメモだ」

 真人は額を手で覆った。そのまま動けなくなっている姿は見ていて辛かった。

 私だって引きちぎられた人形のようだ。口惜しさと喜びと悲しみと心地よさ。その感情が反発し合い体をばらばらに引き裂く。だが悟が急用と言っていた理由が今わかった。

「子供がいなくなった日だったのね」

 真人は観念したようにかすかに顎を動かし目を閉じた。

 死んだ子はどんな顔をしていたのだろう。息を止め、心に蓋をし、かすかに息を吐き、声に変えた。

「悟がその、亡くなった子供の父親なの」

 見たくはなかった。真人や老女の首が縦に動くその瞬間に、ここを離れたいとさえ思った。けれど悟はなぜあんなところで死んでしまったのか。四年間、心の奥に沈み込んでいた疑問が今、晴らされるかもしれない。真人が回答を言い渡した。

「悟はわが子を救い出すために狼に自分の命を差し出したんです」

「ああ」

 心の蓋はいとも簡単に、声を出しただけのわずかな振動で外れ落ちた。

 悟に子供がいた。けれどその子は亡くなっている。さらに悟はその子のために命を投げ出した。私は今、空想の世界にいるのだろうか。

 気がつけば風が消え去っていた。木のてっぺんで赤い口を開けて鳴いていた騒がしい小鳥も、最後の下り坂でアスファルトを引きずる人々の鈍い靴音も、音と言う音が掻き消えた。

 その空気を獣の鳴き声が切り裂いた。私は思わず山頂を見上げた。犬が泣いている。

 真人にも聞こえたのだろうか。袖を捲りあげ、手首にはめた時計に目をやった。私もその時計を覗きこんだ。十五時二十五分。時間がない。真人が声をあげた。

「今は犬です。行ってください。じきに日が暮れます」

「でも」

「絶対に無事に下りてきてください」

 真人が手を差し出した。

 私は手を握り返し、真人に電話番号を言い残した。

 山に向かって体を回し階段を一息に上りきった。振り返ると、二人はまだそこにいた。目が合うと何度もうなずき、よく見るとその微笑んだ顔は泣いているようだった。

 三叉路を左に曲がり密集した木立の足元に踏み込んだ。

 森が迎え入れてくれている。そう感じたのは、顔の前に垂れ下がっていた梢が空を仰ぐようによけたから。風があたかも自然に通り抜けるふりをして、枝を分けはじめたからだ。

 肩がすっと落ちた。頭の中の走馬灯は記憶の手掛かりを見つけるべく、ぐるぐると回り始めた。悟に子供がいた。その衝撃は耐え難かった。

 籍を入れる時、ちらりと見せてくれた戸籍には結婚歴はなかった。そこで子供はいませんよねとは聞けばよかったのか。

 だが。その衝撃の半面、泡色の暖かい灯が心の真ん中から広がり始めていた。

 ひとりぼっちじゃなかった。私にも家族がいた。それに待っていると言ってくれた。

 すっかり黄色くなった木漏れ日が私の体をオセロの盤のように格子模様に染めあげた。ほのかに温かい。

 大上神社にたどり着いた。拝殿の正面に来るとリュックを下ろした。

さあ、今はサーフを救い出すのよ。

 大きく息を吸って、頭の中の疑問や邪念を吐き出した。小銭を取り出すと、賽銭箱に投げ入れた。今度は息を吸いこみ、声を出して言った。

「狼さま、あなた方狼が山に戻ること、そしてサーフを返していただけるよう祈ります」

 一礼し、ぱんぱんと手を二度たたいた。音が響き渡る。大きく手を打ちすぎたか。その音の響きがまだ、やまびこのように尾を引いている。音は拝殿を一巡し、戻って来ては、まだ低い音が響き渡っている。

 違う……、拝殿の中だ。誰がいる。耳をそばだてた。低い声だ。これは、ハスキーなおじいさんの声だ。

「え、何て言ったの」

「洞窟へ行け」

「狼さまなの」

「洞窟へ向かうのだ」

「サーフを返してくれるの」

「今言った願いをそのまま願うのだ」

「わかったわ。そうしたら返してくれるのね」

 私は顔を上げた。けれど、違う、と思った。

「ほんとうですか」

「ん」

「サーフを返してくれるんなら、どうして悟の子供は返してあげなかったのですか」

「う」

「悟は命と引き換えて死んでしまったのに、どうして」

 ハスキーな声がさらに声を低く響かせた。

「その男はおそらく村長の血をひいておったのだろう」

 にわかに小鳥のさえずりが聞こえてきた。葉のこすれる音とともにひやりとした空気があたりを包み込んだ。拝殿は再び静まり返っている。

「悟が村長の血を引いていた」

 また知らされた新たな事実に頭の整理が追い付かない。

「おばあさんは村長の奥さんなのね」

 おばあさんは血が繋がっていないから、願いに行っても無事だったのかもしれない。

 真人が息子でなく、悟が息子。

 なんという話だ。それに番犬になったサーフ。狼をよみがえらせる私。

 コーヒーをこぼさなかったら、私はここへは来なかった。どこまでが仕組まれているのかまだわからない。

 でも、願いが認められたのだ。サーフを返してもらえる。

 私は洞窟に向かって歩き始めた。最初はスキップを踏むように弾んでいた足も、しだいに重く足の裏の腫れが痛みを増してきた。ちょっと休もう、そう思ったとき、水のせせらぎが耳に届いた。滝だ。なんと爽やかな音だろう。こんもりと生い茂った葉の間から水しぶきが垣間見えた。

「最初に通ったときと同じだわ」

 行く手を阻んでいた竹やぶには風が吹き抜けていた。幹のぶつかり合う音も今は聞こえない。太陽の光を八方にちりばめた美しい空間が広がっている。姫を見つけてほしいがために翁を迷い込ませる道を開いたかのように、道は待ってくれていた。

 大上神社の神が道を開けてくれたのだ。だったら番犬が案内のためにやってくるはずだ。

 両手を合わせて道に拝みこんだ。そして、そのままそこに座りこんだ。リュックを下ろしペットボトルを取り出した。自分の水は空っぽだ。サーフ用の残った水を取り出して飲み干した。

「サーフに会ったら水をあげなくちゃ」

 落ちる滝の水にボトルを突き出した。空っぽのサーフのボトルはいっぱいに満たされた。

「ワオン」

 鳴き声がすぐそばから聞こえた。はっと体を回しみた。黒い影が目に映った。

 番犬が現れた。洞窟の前で途方に暮れていた時にやってきたおじさん。そのおじさんの願いをかなえるために案内してきた番犬だ。今度は私を洞窟へ導くためにやってきたのだ。

番犬は今、獣道の真ん中で立ちすくんでいる。サーフだろうか。まだ黒い影にしか見えない。

 逃げてしまわないように、私は腰を落とし忍び足で近づいた。アルミの皿を取り出し、滝から汲み入れたばかりの水を注ぎ入れた。黒い影の番犬は頭を下げたように見える。前足あたりに水を置くと私は一歩離れた。

「喉乾いたでしょ」声をかけてみた。

 番犬が水を飲んでいるのかはわからなかった。番犬がゆっくりと頭を持ち上げたかと思った途端、犬に戻った。

 だが私の目に映ったその顔はサーフではなかった。様子が全く違っている。目が半月に形を変え黄色く光っている様は悪魔の使いのようで気味が悪い。巻き毛に覆われた垂れ耳は空に向かってピンと立ち、どんな物音も逃さず聞こうとしている。張りつめた空気に息をもつかせないと言った様子だった。

 やにわに番犬は森の方向へ身を翻した。首を一振りし、ついて来いと言うようなしぐさを見せた。サーフなら振り向きざまに真っ黒な瞳で私を見上げる。あの愛らしさとは大違いだ。

 あわてて水をリュックに戻す。番犬はもう走り出していた。後ろ足がウサギのように左右一緒に前に出る。走り方はサーフそのものだった。サーフだったらと、足の痛みも忘れ私も走り出した。

 太陽が私の目の高さまで落ちてきた。枝の途切れた隙間から黄色くなった光が容赦なく突きさしてくる。昼間の白い太陽よりも夕日になりかけた黄色い太陽の方が目にささる。

 番犬はときおり速度を緩め振り返る。その顔はどこまでも変わり果てたままだ。必ず私のサーフは戻ってくる。そう唱えながら懸命に足を繰り出して後を追った。

 やがて洞窟の入り口が見えるカーブまで来ると、番犬は立ち止まった。一呼吸置くと、クオンと小さな声を上げどこかへ走り去ってしまった。

「サーフ」

 力の限り叫んだ。だがそのこだまは山にはね返り消え去った。私は番犬の残像が消えうせるまでそこにそのままで立っていた。

 サーフを追うか。いや、洞窟へ入って願うべきだろう。

「よし」

 時計を見ると、十六:三十五。懐中電灯を取り出した。洞窟の入り口に立ちどまると、まずは手を伸ばし奥まで光を入れてみる。光の途切れたところから、丸い暗闇がぼんやりと始まっている。私は足を踏み出した。

 突き出た小石に何度も引っかかる。額に汗がにじみ出てきた。緊張が歩幅を縮めているようでなかなか辿り着かない。

 懐中電灯を持った手を先へと突き出した。光が壁にはね返ってきた。突き当たりだ。肩の力が抜けそうになる。

 さてこれからだ。自分の心音と上がった息が洞窟の中を賑わしていた。治まるのを待って身構えた。耳鳴りのようなつーんと言うわずかな音が聞こえ始めると暗闇はやっと静まりかえった。

「えっと」

 大上神社で言われた通りに、そのまま繰り返すのだ。

「狼様。あなた方が山に戻ること、そしてサーフを返していただけるよう祈ります」

 一礼し二度手を打った。

 拍手の余韻が消え去ると、目の前で轟音が鳴り出した。岩戸が開き始めたのだ。戸の開いた隙間から光が差しこみ、徐々にあたりを明るく変えていった。

 岩戸が開ききると台座があらわれた。ここにサーフが乗せられて消えたのだ。台座の向こうから手のひらほどの星のような光が瞬いていた。

「貢物はあるか」

 ハスキーなおじいさんの声が静かに言った。大上神社の神様と同じ声だわ。

「はい」

 私は答えると、ポケットから老女に手渡された光る石を取り出した。輝く星の前ではただの石ころに見える。光が蘇るよう手の平でくるくると回してこすった。なんとか古いやかんほどの光が戻ってきた。そして台の真ん中に静かに置いた。

「おおっ」

 狼はむせたようなうなり声を上げた。

「これを持ってくるとは村の者か」

「もらったものです」

「なんと」

 狼が呆れたように言った。

「朝一緒にここへ来たおばあさんからいただいたのです」

「おまえは何者だ」

 老人の声が応えずに聞き返す。

「私は、今の番犬の母です」

「なるほど」

「あなたが狼様なのですか」

 思い切って聞いてみた。

「いかにも」

「なぜ、願い事を叶えてくれるのですか」

「一つの願い事をずっと待っていたのじゃ」

 狼は微かに咳を掃うと続けた。

「おまえが願ってくれた、狼が森に戻るようにと」

「誰かが唱えるまでずっと待っていたの」

 私はびっくりして聞き返した。

「わしは自分では願えないから、待つしかなかったのだよ」

 そう言うと、台の向こうからキャンと鳴き声が聞こえてきた。黒い影がくうんと鳴きながらウサギのように駆け寄ってきた。

「番犬はもう必要ない」

「サーフ」

 まん丸い黒目に長いまつ毛、波打つ巻き毛の垂れた耳、私のサーフそのものだ。私はサーフを抱き上げ頭を撫でまわし頬に唇をつけた。サーフは私の鼻を何度も舐めかえした。

 まだ鳴き声が響いている。こだまだろうか。

「キャンキャン」

 声はどうやら足元から聞こえている。見下ろすと真ん丸な四つの目が私を見上げていた。

「犬なの」

 私はしゃがみこんだ。フワフワの毛に包まれた子犬が二匹、寝ぼけ眼で鳴いている。

「なんてかわいいの」

 頭と背中を撫でつける。北極にいるハスキー犬を小さく丸くしたような顔。あれ。

「まさか」

「お前の祈りのおかげで生まれ出たわしの子孫じゃ」

「狼様の子孫は狼よね」

 私はもう何にも動じなくなってしまっていた。色々ありすぎた。

「まずはこの子たちに山を守らせる」

 サーフは赤ちゃんの臭いをクンクン嗅いだ。顔を上げるとどうするのとでも言うように上目遣いで私を見上げた。

「悪いが、大人になるまで面倒を見てくれないか」

「えっ」

 狼の赤ちゃんは私の足元でじゃれついていた。靴先を両手で抱えて嚙みつきだしたと思うと、一匹が靴ひもを口にくわえ腰を引いて引っ張りだした。それ以上引けなくなると目を細め、歯をむき出し、唸る。
 やっぱり狼なのだ。顔つきが怖い。大人の狼が争う姿、未来の姿を垣間見たような気がした。この子たちにこの山を守らせるって言ったわね。

「昔のように人と動物の領域を守るためなのかしら」

「森を守る手助けだと思ってくれ」

 そう言われては断る私が悪人のようだが、無理なものは無理だ。

 だが狼は語り続ける。

「人の願い事を聞いているうちに、わしは知った」

「一番は宝くじだと」普通はそうだわ。

「まあ当たってないとは言わないが」狼は続けた。

「ほとんどの人間はこの森が美しいままであるようにと付け加えるのだよ」

 私は首を左右に振った。うそよ。

「わしら狼がこの森に蘇る、それは地球を元に戻す一歩だと思ってくれればよい」

 森も地球も私一人では救えないわ。

「サーフだけで精一杯です」私は声に出した。

 そう答えるやいなや目の前をパラパラと何かが落ちてきた。台の上を見ると金の石が星屑のように散らばっていた。目を見張った。

「お前の目も金に眩むのだな」

「いや、いくらいただいても三匹面倒見るのは無理ですから」

 私は赤ちゃんとサーフを見比べて言い足した。

「このうち二匹は十倍くらい大きくなるのよ」

 いきなり鋭い声が飛んだ。

「早く取れ。閉めるぞ」

 考える前に両手が動いていた。金の石をかき集めるとポケットに突っこんだ。

「一歳になるまででいい。頼んだぞ」

「狼様! 子供はどうなるの」

 岩戸がバンっと音を立てて閉まった。

「狼の子らが森へ戻った時に返す」

 声が遠のきながらもはっきりと約束した。

「絶対よ」

 私は岩戸に向かって大声をぶつけた。

 余韻が遠のいて消えた。

 顔は岩戸を向けたまま、目だけを足元に向けてみた。

「うそでしょ」

 サーフが不安げな目で私を見上げると膝に掴まり立ちあがった。赤ちゃんの一匹がサーフを真似て足のすねに掴まった。もう片方は靴紐をくわえたまま寝息を立てている。

「地球の前に私が壊れるわ」

 狼から聞いた話にはまだ疑問が残っている。しかしぐずぐずしてはいられない。

 外は夕闇が迫り来ているに違いない。リュックの底にタオルを広げ二匹の赤ちゃんをしまい込んだ。ファスナーを留め金まで滑らせるがわずかに隙間を開けておいた。狭い場所が安心なのだろうか、もぞもぞと動いているが間もなくおとなしくなった。サーフをもう一度抱きよせ地面に下ろしリードを握りしめた。

「さあ、帰ろう」

 洞窟の出口へと戻ると時間を戻す耳鳴りが襲ってきた。時計を見ると一六:三五、洞窟へ入る前の時間に戻っていた。

「これがなかったら今頃真っ暗闇だったわ」

 さほど歩かないうちにリュックの背負い紐が食い込んできた。肩が悲鳴を上げた。赤ちゃんを起こさないために耐え抜くしかなかった。すり鉢状の坂を下りるのも三回目だ。太陽が西の山に顔を隠した。山は透き通ったオレンジ色の光を背負い稜線を黒く際立たせている。思わず溜息が漏れた。

 駐車場に辿り着いた。階段を下り切る。斜面から続く芝生が縁石まで延びていた。私の車一台だけがそこに横づけに停まっていた。駐車場には照明が灯り車の周りを明るく照らし出していた。

 芝生の上に赤ちゃんを座らせた。階段脇の自販機で水を買いサーフのボールに注ぎ入れた。赤ちゃんは交代でがぶがぶと飲み、つぎ足すとサーフがむせ返すまで飲み続けた。わずかに残った水で私の喉を潤した。二匹の赤ちゃんをサーフのドッグシートに押し入れた。シートは四角い箱型で細かい網の天井がついている。ジッパーで締め切ると頭も出せない。赤ちゃんは鼻で網を突き破ろうともがいている。その前でサーフがすっかり大人びて見えた。サーフを助手席の足元に座らせるとすぐに腹を床につけて寝そべった。

「お疲れ様だったね」

 私は運転席に回ると空っぽのリュックを後部座席に放り投げた。座席に腰かけると力が抜けていく。たちまち体中がじんじんと痛みを訴えてきた。

 空はすっかりと濃い闇へと変わりわずかに残る西の空も闇に飲まれる寸前だった。携帯電話を取り出した。画面には着信を知らせるマークがついていた。知らない番号だが真人だと思った。迷わず電話をかけ直してみた。

「もしもし」

「無事でしたか」

 ほんの一、二時間ぶりに聞く声だけれど目頭が熱くなる。

「サーフも帰ってきました」

「よかった。それで」

 彼は私の返答を待つように押し黙った。

「ええ」

 私はなんと答えてよいやら、考えつかなかった。

「ばあさんに代わりますね」と、彼の声が遠のいていった。

 しばらく待つとあのしわがれた声が聞こえてきた。

「よかったのう」

「おばあさん」

 溜まった涙がこぼれ出た。

「それで、どうなった」

 老女もそう聞いてきた。

「それが……」

 悟が村長の子供であると知ってしまった上、狼の赤ちゃんを育てる約束をさせられた。どこまで知っているのだろうか、この人達。

「とにかくうちへおいで」と老女。

「疲れちまっただろう」

 私は押し黙ってしまった。おばあさんと真人信じていいのかわからない。

 会話が途切れたせいだろう。真人の声に変わった。

「じゃ今から住所を言いますので、ナビに入力してください」

 エンジンをかけナビに入れると太い線で道順がひかれた。このすぐ近くの村へと誘っている。

「十分ほどで来れますよ」

 待っていますと、電話が切れた。

 有無を言わさない雰囲気に押し流された感じがした。私の疲れを思いやってくれたのもあるだろう。

 けれど。私の頭の中で疑問が首をもたげ始めた。

 なぜ老女はどうなったって聞くのだろう。サーフは戻ったと言っているのに。

 フロントガラス越しに星を数える。星を数え終わったら車を出そうか。この空の星は普段数えている空の星よりも数倍の時間がかかる。

 長い一日だ。それになんて日だ。最初はサーフを取り戻すほかに何も考えられなかった。考えてみれば、おばあさんが往々にして現れるのは不自然だ。急坂を下りて行ってしまったのに山の上の洞窟に現れ、歴史資料館から戻ってきた時にもまるで見ていたかのように私が山に戻る一歩手前で現れた。

 助手席のドッグゲージを覗き込む。狼の赤ちゃんが二匹、寝息を立てている。

 息を深く吸い込んだが、もはやため息すら出てこない。

 サイドブレーキを外し駐車場の出口に車を向ける。そろそろ行った方がいい。

 駐車場を出てしばらく山を下る。ナビが左に曲がるよう指示を重ねる。入りこんだ脇道は狭かった。いやだなと思ったとたん対向車のライトが近づいてきた。速度を落とし止まって待った。やってきたのは軽トラックだ。窓を降ろすと年配の男性が顔を出した。助手席の娘らしき女性が頭を下げていた。

「うちの村へ来るんか」

「あ、この住所へ行くんですが」と私はナビに表示されている住所を読み上げた。

「村長の家だね」

 なるほど。これは想像していた通りだ。

「村長はおばあさんですか」

「いや、じいさんだが」とふいに窓を閉め始めた。助手席の女性はまだ顔を上げない。

「気つけてな」と男性は車を前に進めた。すれ違いざまに女性の横顔が見えた。歴史資料館の受付の若い女性だ。

 そのまま車を走らせるとこぢんまりとした集落が現れた。さらに数分走ると立派な瓦屋根の家に突き当たった。母屋と離れ、おまけに蔵のような建物もあり敷地は草野球が出来るほど広かった。

「目的地に着きました」

 ナビが急にそう言ったので、体がびくりと飛び跳ねた。

 玄関の明かりに影が揺れ動いた。ドアが開くと真人が立っていた。その隣に初老の男性が並んでいる。あの人が村長だろう。どこかですれ違ったか。見覚えがある。

「こんばんは」

 私はサーフだけを連れて車から降りた。

 男性は頭を深々と下げ掠れた声をあげた。

「ご苦労じゃったのぉ」

 何もかもがつながっている。やにわにそう感じた。狼の赤ちゃんをどうしよう。いや、もう知っているのかもしれない。私が二匹を連れて来たと。

 老女が家の奥から駆け寄り私の手を握った。

「キツネにつままれたみたいな顔しとるな」

 私は女優にはなれない。ひきつる顔を満面の笑みには化かせなかった。

「すみません。親切にしていただいたのに」

「悪いのはこっちじゃ。すまなかった」

「すまないって……。どれをさして言われてますか」

 私は情けなくなり笑い始めた。

 老女は笑わなかった。途端に私は膝から地面にへたりこんだ。村長の顔をはっきりと思い出したからだ。

「なんでそんなちっこい犬連れてきたんだ」

 山に来て最初にすれ違った男性に言われた言葉。仁王顔に変わった男性だ。今は穏やかなおじいさんに戻っていた。

「村長。私の犬が小さすぎて番犬には駄目だと思ったんですね」

「でもすぐにすぐばあさんに連絡したんだよ。女性と黒い犬が来てくれたと。立派にやってのけたなあ」

 村長はサーフのおでこを撫でた。私は立ち上がり村長に詰め寄った。

「狼の赤ちゃんのこともわかってるんですよね」

「え、狼が赤ちゃんを渡したのか」

 村長の目がびっくりしたように見開いた。

「あなたは、狼が蘇るよう祈ってくれたのか」

「奇跡が起きた」

 皆口々に驚き、感動すらしているようだった。

「狼には森の生態系を戻す力がある」

 老女がおもむろに目を閉じ、話し始めた。

「昭和の半ばごろまでは鹿が人里に被害を及ぼすようなことはなかった」

「なぜ狼なんですか」

「狼の主食だったからだよ。鹿の数は保たれていた」

 老女は目を大きく見開くと、続けた。

「私たち一族は狼ともう一つの約束事があった。狼を救う。絶滅させない」

「でも、だめだった……」と私。

「狼はこう言った。『狼を絶滅させたなら生まれた村長の子供、その子が子を宿し七歳になったとき山の神がその子を取り去るだろう』」

「え」

 私は真人を見た。

「とにかく、うちに上がってください」

「赤ちゃんを」

 私が言いかけると、離れの家の扉が開いて一人の男性が現れた。

 私の方に駆け寄って来ると、どうも、と言いながら車の鍵を渡すようにと手を差し出した。

「赤ちゃんたちは私が面倒を見ます」

「ああ、ここにもいた」

 失礼な言い方だが、こうなってはどっちが失礼だと自分に言い聞かせ、気にせずに続けた。

「三叉路の手前でお会いしましたよね」

「はい。すみません」

 もうすぐ道が険しくなると、すり鉢の坂の手前で教えてくれた男性だった。そう言えばこの人もサーフをじろじろと見ていたわ。

 すると真人がその男性の隣に立った。

「父です」

「はあ」

「僕たちは代々こちらの使用人の一家なんです。血縁関係もなく」

「何を言ってるんじゃ。もう家族だと言うのに」

 老女がぴしゃりと言い放った。

「もうお分かりかもしれませんが、悟がこの家の子でした」

 私はわずかに頷いて、まだ差し出されたままの手のひらに車の鍵を載せた。

 疲れた。頭も体もへとへとだ。促されるままに四畳半ほどもある玄関を上がり、次の間和室に入るとへたり込んでしまった。

 皆が座り終えるとお茶が振る舞われ、真人が話を始めた。

「少し悟の話をさせてください。」

 私はため息をついて答えた。

「狼の赤ちゃんより驚くかしら」

 だれも笑わなかった。

「悟は大学へ行くために十八でここを離れた。そして二十歳のときに大きなおなかの女性を伴って帰ってきた」

 老女が後を続けた。

「私たちは家族にしなければいいと思った。子供が七歳になったら取られるのは家族だけだと。それで」

「僕とその女性が結婚したんです」

 真人がつなげると、また老女が話し始めた。

「赤子の母親はひどい貧血もちでな、赤子を産み落とすと数か月後に亡くなってしまったのだ。悟は成績優秀でな、大学を辞めると言ったのを私たちが無理矢理大学へ戻したんだよ」

「戸籍上は僕の子供で育てたのも僕です。けれど七歳になった年、山に迷いこんでしまったのがあの四年前の今日です」

「この家の、村長の一族の血が繋がっていたからなのね」

 真人は私を見返した。

「狼はなんと言っていましたか」

 この答えを待っていたのか。

「狼は……、赤ちゃんたちを育てて山に返したら、子供を返すって言ってたわ」

 今度はそこにいた全員が私を見つめた。その何組もの目が、小さな星のような光を放ち始めた。

 真人が声を震わせて私の言った話を繰り返した。

「一年間育て上げた赤ちゃんを無事に山に戻したらと言ったんだね」

 私は頷いた。

 そこにいる誰もが長い間背負っていた錘を降ろしたかのように、晴れやかな顔つきに変わっていった。

 しかし私にはまだ疑問が残っている。これは答えを聞くのが恐ろしい。

「なぜ私だってわかったんですか。私も今朝までここに来るなんて思ってもいなかったんですよ」

 真人も老女も村長もみな首を横に振った。

「私たちはあなたの存在すら知らなかったさ」

「だったら、自分たちで黒い犬を使って願いを叶えればよかったのでは」

真人が答えをくれた。

「今日が子供の消えた日です。その日に黒い犬を連れた女性に願いをかけてもらうと言う決まりだったんです」

「私じゃなくても良かったんですね」

「息子が亡くなってから、命日が二度ありました。黒い犬と女性もやってきました。でも駄目だったんです」

「だったら、どう願うのかを教えれば、私だってもっと早くに教えてもらえれば」

「おのずからわき出した願いとして唱えていただかないと奇跡は生まれなかったのです」

「つまり……。おばあさんが三叉路の下から登って来た。その道を私に印象付けた。その奥の大上神社の立て看板、地図ですぐに出てくる歴史資料館、そして受付の女性は私が山へ戻ったと連絡をした。駐車場にやって来ると金の石を渡した。仕向けられていたのね」

「看板や資料館の資料は仕向けたわけではない。あなたのまっすぐな心が叶えてくれたのだよ」と老女。

「そうか」やっと気がついた。

「一族が狼の復活を願うのは当然だから」

「あなたの行く先々に先回りをしていたが、わしらはただ見守るしかなかった。」

 村長は天井を見上げ涙をこらえていた。

「奇跡を起こしてくれたのはあなたです。ほんとうにありがとう」

「もう一つ、きょう番犬がいなかったのは偶然なの」

「それはほんとに、たまたまなんだ」と真人。

「ただ、番犬の心労は大変なものでな、一年ほどで別の犬に交代してやってたそうだ」

 村長は声を震わせてそう答えた。

 老女が突然に私の目も見ずに突き放すように言い放った。

「狼の赤ちゃんはこちらで面倒を見るから、金は持ってお行き」

 その口は小刻みに震え、顔を遠くへ向けていた。老女は私に気を使っているのだ。

「おばあさん、私は悟の妻です。ここの離れにでも置いてもらえないでしょうか」

「え」

「狼との約束だから。私が赤ちゃんを育てます」

 全員が目を見張った。うんうんと首を縦に振りながら。だが老女は違った。

「巻き込むのは申し訳ない。きょうまで何も知らなかったのだろ」

「もう、家族の一員です」

 それに。

「もう地球が壊れたとしてもびっくりしません」

 皆がやっと笑った。

 私は老女の腕に自分の腕を回し入れた。老女はありがとうと小声で言うと皆に告げた。

「鍋ができてるよ」

 サーフが全身をぶるっと震わせ、いつもより長く遠くへと吠えた。遠吠えのように。

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