清宮幸太郎はなぜ否定されるのか
Twitterにてとある方にリプライを頂いて、僕も思うところがあったので一つ長い話をしたいと思います。あえて該当のツイートは紹介いたしませんが、気になる方は僕のTwitterをチェックしてみてください。すぐわかります。
まず前提として、僕のスタンスを一つ。それはアンチ的な人に対する僕自身の思考のスタンス。「そう言う楽しみ方をしている人には近づかない」。
そもそも、「自分の推し活、好きなものを楽しもう、とする時間の中にアンチの相手をする時間を組み込む意味がない」です。無駄です。
そういう意見をいちいち見たり聞いたりするだけならまだしも、そういうことを言う人にわざわざ反論するために僕自身の時間を費やす必要性が全くありません。
そんな奴のために割く時間や心があったら僕は好きなものに真っ直ぐ心を注ぎたい。
そう言う人、つまりアンチ的な人は「そう言う楽しみ方をしている」人です、人それぞれの楽しみ方に文句をつける理由は僕にはありません。
人が物を思うことは自由です。何かを言うことも自由。それに対して聞かないことも見ないこともまた自由なのです。
自分という価値観がそこに存在するのは自分以外の価値観が他に存在するからです。そういう人もいる、ということを見てまた自分は自分のあり方を磨いていく。
それで良いのではないでしょうか。「好き」の気持ちは真っ直ぐ使う、僕はそうしています。
まあそれはそれとして今回のテーマ、清宮幸太郎はなぜ批判されるのかということに対する僕の考え方ですが、原因は大きく二つあります。
一つ目は、
<清宮が執拗に批判されるのは実力があると思われているから>ということ。
そもそも本当に実力がない、実績もなければ期待もない選手にはアンチは粘着しないんですよ。
清宮幸太郎がいつも批判の矢面に立たざるを得なくなるのは彼にそれだけの価値があるという「前提がある」からです。
二つ目は、
<それはそれとして根本的な批判の原因は清宮にある>
誰かとの比較とかそういうことではないもので、彼自身が胸を張ってやり切りましたと言えるだけの結果の絶対値が残っていないから批判されるのです。
ただ、その結果というのは一朝一夕に出るものでもなく、誰もがそれを求めてもがいているのがプロ野球というものなので原因は清宮にあるけれども、
責任が清宮だけにあるわけではない。ことプロ野球において成績というのは他の選手の成績如何によって印象が左右されてしまうことはままあるわけで、今の清宮が十分評価されないのは環境のせいでもあります。
例えば清宮の同期、23歳の選手で通算HRが清宮の上をいくのは村上しかいない。というかこの世代でまともに試合に出て主力やってる野手がそもそも村上しかいない。
統計的な話をすれば村上は世代の中で明らかに異常な値なので、そういう括りの話をするときの比較対象に挙げてはならない選手です。
異常な観測値は除外して考える、これは小学校の授業でもやることです。
大体、彼はNPB史上に照らしても異常な成績を残しているのであって、
一般的な成長曲線は描いていないことについてはもっと留意されるべきです。特別であるということは「一般化してはいけない」ということです。
清宮を論ずるにあたって村上との比較は無意味なんです。
以上の事柄から、僕は
清宮幸太郎という選手を今「失敗だ」とか「成功だ」とか論ずること自体が無意味であることに皆が気づいていないのだ
ということを結論として申し上げておきます。割と簡単なこと。
彼はまだ未完成の選手であり、ここからいかようにも変わっていくキャリアの入り口にいる選手です。
生まれたばかりの赤子がいつの間にか言葉を話すように、どんな人間にも成長して新たなことができる可能性があります。
その可能性の扉は本人にしか開けませんが、それを当事者でもない我々が背後から失敗だの成功だのと論ずること自体が無意味だと、そういうことです。
ですから僕は自分の配信の中で、「よく頑張りました」「成長が見られますね」、もしくは「もっとこうすると良くなりますね」
「こういう風な取り組み方はいけませんね」という方向で選手のプレイについて評することはありますが、
「この選手は育成失敗です」「この選手はもう終わりです」という可能性や伸び代を断じて貶めるような話をしたことはないと断言できます。
人間の成長や工夫には限界はありません。いくらだってどんな方向に立って成長できるし、できることはあります。
ただ、それでもプロ野球生活に終わりが来るのは、その後ろにもっと大きな可能性がたくさん控えており、
その光に道を開けてあげる必要があること、そしてそこまで弛まぬ鍛錬を続けてきた肉体と精神には休息が必要だからです。
そんな選手たちにファンとしてできることはたった一つ、選手の弛まぬ努力を見つけ、褒め、応援の声を届けることだけです。
そしてまた新たな選手の一面を見つけ、同志と分かち合い、喜び合う。これ以上に何か必要なことがありましょうか。
さて、話題はもう一つありまして。
Twitterでお話をした中に上がってきたのが、今回のU23の意義の話。
「なぜ一軍の清宮が二軍が出るような試合に呼ばれるのか」ということが話題になっているとお伺いしました。
が、これには大きな認識の間違いがあると言わざるを得ません。
というか、プロの一軍の選手なのであればなおさら、プロアマ問わずの場に出て交流を深め、野球の更なる発展に寄与することを名誉と捉えるべきです。
先の「二軍が出る様な」という話し方は、そういう意図ではないのかもしれませんが、二軍に対して侮蔑的な意図を感じて、個人的には違和感しかありません。
あまり深くは話しませんが、そういう風に二軍に対してある種のハラスメントじみた思考をする方がもしいるのなら、
BIGBOSSがなぜ「BIG組」と「BOSS組」という呼び方をするのか、その意図をもう少し深く考えてみて頂きたい。考えが浅すぎる。
これは野球なんですよ。
話を元に戻しますが、今回の選抜試合の意義とは、ってことですよね。
そもそもなんですが、侍ジャパンが常設となった背景には、WBCやプレミア12、それから今は公式競技では無くなってしまったオリンピックといった
国際大会でこれまで結成されてきた臨時連合軍的な「日本代表」、これを常設化することによって恒常的な強化につなげ、
「すべての世代で「世界最強」になること」を目指す、という意図があります。
今回のU23選抜というのは、侍ジャパントップチームを頂点としたピラミッドの中でも、23歳以下の世代の選抜選手チームということになります。
このチームがいずれ社会人選抜や大学選抜、はたまた世代も上へ下へと混ざり合ったり合わなかったりして、
初めて垣根が一つもない「最強の日本代表」、侍ジャパントップチームとなるのです。
つまりこれはいつかの最強チームの礎としてチームに呼ばれることがなぜ無駄だと思えるのかという話です。
それは大きくポジティブな評価でこそあれ、「二軍でも出しとけばいい適当なチーム」という認識なのであれば、認識違いも甚だしい。
最強チームの一員として世界に対抗できうる可能性を持つからこそ呼ばれたというのに、何の不満があるというのか。
さらに言えば、侍ジャパンに参加することのメリットとして、最近ではカープへ入団した秋山選手が記憶に新しいですが、普段接することのない選手同士の技術的、精神的な交流、普段絶対対戦しないチームとの対戦がもたらす野球観の拡張など、選ばれたからこその経験というものを見逃すことはできません。
どんな経験も糧にこそなれど、無駄になることなどあり得ません。清宮にはぜひたくさんの刺激を持って帰ってきて頂き、そのことをまたチームメイトに分け与えて共に切磋琢磨し、いずれもっと多くの選手が日本を代表して侍ジャパンに呼ばれるようなきっかけになってほしいと思っています。
とんでもなく長くなりましたけど、とりあえず僕が思うこととしてはこんなもんです。
お目汚し失礼いたしました。