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わたしが考える、読点の付け方

高校の時、国語の先生がかわいらしい人でして。

あ、かわいらしいといっても女性ではありませんよ。オジさんっす。
新宿2丁目あたりにいらっしゃるようなオネエサマ方や、バンコクのゲイバーなんかでお見かけするやたらと見目麗しい男の子たちとは違って、見た目は完全に気のいいオジサマ。たぶん性自認はあくまで男性なんです。でも、ちょっとした仕草や物言いが柔和で、その先生に習った「嫋やか(たおやか)」という表現が、まさにしっくりくるような方でした。

その先生曰く、読点の置きどころは「ネ」が入って違和感がないところ。

先生は(ネ)、昨日(ネ)、家族と一緒に(ネ)、レストランへ出かけて(ネ)、食事をしたんだよ。
            ↓
先生は、昨日、家族と一緒に、レストランへ出かけて、食事をしたんだよ。

ただし、先生は、ぶっちゃけ読点の付け方に「ホントはルールなんてもんはないのよ」と仰っていました。実際、上の文章でも〝ちょっと入れ過ぎ〟な印象がありますもんね。もうちょっと減らしてもいいかな。

でも、先生がいってたのは、平仮名が連続して、どうしても前後がつながって見えちゃうゆえに読みづらくなるような場所とか、2つ以上の事柄を1つの文章でまとめて語る際の文と文との間とか、並列した語句と語句との間とか、打ちどころに〝目安〟のようなものがあるだけで、実はこれとされている規則はないということ。あくまで推奨の範囲をでない。基本的には自由なんだといってましたね。

確かに、西村京太郎さんの推理小説のように、読点だらけで「逆に読みづら……」という作品もあれば、わたしが昔大好きだった金井美恵子さんの映画のエッセイなんぞは、読点がほとんどなくって、いつの間にか「あれ? 結局いま何について語ってたんだっけ? ていうか、わたしは何を読まされているんだ?」と、アワアワさせられちゃう作品もあったりします(アレが堪らなく贅沢で心地いいんですけどね)。
本来、読点には、読者に誤読させない、読みやすさを追求する、といろんな役割を持たせられているはずなんですが、先生が仰っていらした「自由でいいんだよ〜」という考え方は、とても斬新で素直に受け取ることができました。

とはいえ。。
一応、商業ライター的な仕事を生業にしている以上、何らかの拠り所がないと。
なので、わたしは誰かに相談されたら、あのかわいらしい国語教師が教えてくださった「ネ」でリズムを刻んでみる〝読点の付け方〟をアドバイスしています。

わたしは先生の読点の付け方を今なお覚えていて実践している。

読点ないと、さすがに読みづらいですね。
だもんで、これに、読点を打つとすれば、以下のようになろうかと。

わたしは(ネ)、先生の読点の付け方を(ネ)、今なお覚えていて(ネ)、実践している。
         ↓
わたしは、先生の読点の付け方を、今なお覚えていて、実践している。

これなら、一般的によくいわれている「読点は主語のあとに付ける」という定説にも則っていますし、「先生の読点の付け方」を「今なお覚えている」ことと、「実践している」ことの、並列した述語を整理して読ませることができます。

もっというと、

先生が語った読点の付け方を、わたしは今なお覚えていて、実践もしている。

と、主語を差し込む場所を変えてみたり、

わたしが今なお覚えていて、実践しているのは、先生に教えてもらった読点の付け方だ。

といった具合に、言葉をどんどん入れ替えて、読点を打つ場所や、文全体のバランスを自分なりに整えてみてもいいかもしれません。

でもでも、必ずしも「文章を読みやすくすることが〝目的〟であり〝大正義〟ではない」ということも併せて強調しておきますね。ホントにココだけは強調したい。

先ほどご紹介した西村京太郎さんの文章も、あれはあれで愛着を抱いてやまないファンが少なくない、愛すべき文体を形づくっている要素だと思いますし、わたしが好きな金井美恵子さんの書き物にしたって、読み手を長い長い文章の迷路へと誘ない、それまで読み手が縋っていた時空間や物事への概念までをも眩ます、ある種の恣意的なテクニックの一つであるからです。
読点が極端に少ない文芸作品でつとに有名なのは、谷崎潤一郎の『春琴抄』や『蘆刈』、個人的にはあんまし好きじゃないんですが大江健三郎さんや村上春樹さんの作品も挙げられるでしょう。

雑誌の記事や小説はエンターテイメントなんだから、読者にストレスを与えるような長文の羅列や、わかりやすさを損なう読点の使い方は避けるべきだ?

そんなことは断じてありません。

日本を代表するエンターテイメント作品にだって、クセのある読点の付け方をされているものは多々ありますし、それが他者には真似できない深みや凄み、味わいをもたらしてもいます。

やっぱり、あれこれ考え合わせてみると、わたしの敬愛する国語の先生が仰っていたことは間違いじゃなかった。読点の置きどころさえ「自由でいいんだよ〜」なのです。

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