爺ちゃんの話
わたしは東京で生まれ、その後、父の故郷である東北のとある地方都市に引っ越しました。
最初はモヤシっ子扱いで、あからさまにいじめられたりもしました。しかし、ある日を境にガキ大将とチョイといろいろありまして。たまたま認められて、晴れて田舎の子として仲間の輪に加えてもらえるようになりました。
で、学校が終わると友人たちと散々に遊んで、夕暮れ時に「ただいま〜」って家に帰ると、居間の手前にある板の間に爺ちゃんがいましてね。胡座をかいて、背中を丸めて、いっつもなんかしらの作業をしとりました。
爺ちゃんは元鉄砲撃ち(なのかな?)。いわゆるマタギと呼ばれる人でした。当時はもうとっくにリタイアしていて、毛皮加工や剥製製作が生業。我が家の板の間を仕事場にして、革の鞣しや縫製作業をしていました。
扱う動物は多岐にわたります。
いま思い出せるだけでも、狸、狐、貂、鼬鼠、兎、鴨、雉、猛禽類などなど。
時には口から長〜い舌を出して絶命しているデッカい熊が横たわっていることもありました。まるでお金持ちの家にありそうな敷物のように。
初めて見た時はビックリしましてね。結構エグい環境だったんですよ。
あ、これらの動物たちは、ちゃんと狩猟免許を持ったハンターさんが許可申請を行なって捕獲してきた獲物です。
今は動物愛護が叫ばれる時代ですから、法律的にもいろいろ縛りがあるのでしょうが、当時は、たぶん、、合法だったんでしょう。中には、見るからに怪しさ満点の、闇取引業者みたいなオッサンが来ることもありましたが(そういうオジさんに限って、無遠慮に子どもだったわたしをからかうんで嫌いでした。頭をワシャワシャやられたり、もう最悪)、大抵の猟師さんたちは帽子やベストなんかにキチっと徽章を付けていて、登録証を提示していたりもしてたんで、狩猟を真っ当な商売としてやられていらっしゃる方々が持ち込んでこられてたんだと思います。知らんけど。
それらの動物(の亡骸)は、猟師さんたちからの注文に応じて、爺ちゃんが鞣し革にしたり、裏地や飾りをつけた毛皮の襟巻にしたり、剥製にしたりしていました。時には「毛皮はくれてやるから肉だけ切り分けといてくれ」というオーダーもあったようです。解体したばかりであろう肉を新聞紙に包んで、大事そうに抱えて帰っていく人と玄関ですれ違ったことがあります。
もちろん逆のパターンも多くて、食卓にタヌキ鍋がのぼることもありました。兎の肉は鶏のササミの干し肉みたいで。貂も一度食したことがありますが、兎よりももっと硬くて、食えたもんじゃなかったのを覚えています。
まぁ、爺ちゃんの仕事をとやかくいう勇気なんて、まだまだ子どもだったわたしにはありませんでしたし、無論とやかくいう道理もなかったのですが。
あのケモノ臭い家に帰るのがイヤでしてね。
苛性ソーダがたっぷり張られた大きな桶に、動物たちの毛皮が浸されて、ユラユラ漂っているのを見るのも嫌。専用の小刀で器用に表皮を外されて、裸ん坊になったナニカの肉塊が無造作に転がっているのも嫌。鞣しの工程で出た黄色い脂が、その辺の床にベチャベチャと飛び散っているのを踏んづけちゃったあの感触も嫌。四肢を釘で打ち付けられ、板に張られた狸や鼬鼠の毛皮がそこかしこに干されているのも嫌。丸々太ったノミがピョンピョン跳ね回っている板の間を通りぬけて、生活エリアである居間に行かなければならないという、あの家の構造を恨めしく思っていました。
でも、爺ちゃんにくっついて、山へ出かけるのは好きでした。
爺ちゃんも歳をとっていたからか、わたしが中学に入った頃にはほとんど行く機会はなくなってしまいましたが、小学生の頃はまだまだ足腰も丈夫で、何度か狩りに連れていってもらったのです。
狩りといっても、くくり罠猟です。
くくり罠とは、山間のケモノ道に、針金とかバン線のようなワイヤーで作ったトラップを仕掛けるというもの。動物がその罠に足を踏み入れるとキューッと締まって、そこに嵌って動けなくなった動物を捕獲するスタイルの猟です。
朝早く出発して、狩猟区画内の何ヶ所かに仕掛け、山菜採りなどでほうぼうを歩き回った帰りに、獲物がかかっていないかを確認しながら帰途につきます。
時には使われなくなった廃屋や、むかし爺ちゃんが若い頃に勤めていたという水力発電所の跡地なんかにビパークして、休み休み設置した罠をチェックして帰るといった日もありました。
ちなみにこれもちゃんと狩猟免許が要りますんでね。素人さんがやったら犯罪ですからお気をつけあれ。
くくり罠巡りの合間にやる、釣りも好きだったなぁ。
餌は、さしとり虫といって、虎杖(イタドリ・蓼科の植物)の茎をポキっと折ると中に居る、飴色っぽい体をウネウネとさせている蛾の幼虫です。
当然、現地調達です。
この虫を鉤に付けて垂らすと、岩魚がアホほど釣れるんですよ。
ポイントさえ誤らなければ、まるで釣り堀のように入れ食いでした。
もちろん帰ったら塩焼きです。身がフワフワでうまいんです。
爺ちゃんは、その岩魚を肴に、毎晩コップに一杯だけ注ぐ二級酒を旨そうに飲むのが常でした。
いまになって振り返ると、爺ちゃんは仕事をしている時も、山を歩き回っている時も、沢に降りて釣りをしている時も、決して無駄口を叩かず、笑顔も見せず、いつも眉間に皺を寄せて神妙な面持ちでいました。それが晩酌の時だけはコロコロと表情を変え、カラカラと笑って楽しそうに昔話をはじめるんです。
ま、いっつもおんなじような話しかしないんですけどね。
動物を殺めたり、その肉を捌いたり、ある意味、不浄な行いでもって生計を立てていたものですから、子ども心になんだか後ろめたさもあって。爺ちゃんには、そんなに懐いていなかったんです。ジイチャン、ジイチャンと、無邪気にあとをついて回る孫ではありませんでした。ハッキリ言っちゃうと、よい感情を持っていなかったんです。
でも、自然に対する畏れとか感謝とか、山歩きの娯しみみたいなものは、まるっと爺ちゃんから学んだような気がしています。やたらと縁起担ぎに拘ったり、神仏に手を合わせたりするのも、よくよく考えたら爺ちゃんの影響かも。
それに、わたしが高校を卒業して進学のために上京する際も、入学金やら学費やらは一から十まで爺ちゃんが出してくれたんだそうです。父は一切そんなことを言わず、さも自分で出したかのような素振りでしたが、母がこっそり耳打ちしてくれたんです。毛皮や剥製づくりでコツコツ貯めたであろう貯金で、アンタは好きな勉強ができるんだからね、って。その時は涙が出ました。
そんな爺ちゃんのことを、ふと思い出しました。
もっと孫らしいことをしてあげればよかった。
せめて孫らしい振る舞いで接してあげればよかった。
今夜は久しぶりにビールではなく、コップ酒で晩酌を楽しんでみようかな。