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記号論と、アヒルの水かき

いつだったかなぁ。仕事のイロハがそこそこわかってきて、自分でも若干ながら調子づいてた頃だったでしょうか。往時のボスから突然こういわれたんです。

「そうそう、次のあの企画さぁ……〝記号論〟的に展開してみてくれよん」

はて? 記号論とは?? 記号論的に展開???
わたしは少々慌てました。

今でこそ、わからないことは「わかりません」といえる勇気を持てるようになりましたが、当時は旧帝大、有名私大出身の後輩たちがウジャウジャと入社してきてた矢先。しかも、少々の年次や経験の違いなど、あっという間に飛び越えてきそうな優秀な子ばっかりで、激しい過当競争状態にありましたからね。少しでも気を抜くとジリ貧になるという強迫観念に苛まれ、とにかく自分を大きく、賢く見せようと必死でした。まだまだ自信がなかったんでしょうね。

例えば、最近だとお偉い学者先生方に取材していて「今の企業には明快な〝パーパス〟が求められているんですよ!」などと云われちゃうと、「すみません…パーパスってなんですの? 直訳すると〝目的〟でしょうか? でもお話の流れから察するに〝志〟みたいなことですかね? ヴィジョンとの違いは?」なーんて風に質問責めにしちゃうんですけど。
だって、書き手のわたしが理解してないことを、読み手にわからせよってのはあまりに乱暴じゃないですか。

だから「それってどういうことですか?」と素直に尋ねればよかったものを、つい「わっかりました。お任せあれ!」と返しちゃったのです。

それからが大変でした。
ネットで探してみても、今みたいにいろんな人が何かについて論評したり、噛み砕いて解説してくださってたりするような、奇特なウェブサイトや言論プラットホームなんてありません。見つかるのは学会の論文のようなものばかり。シニフィアン? シニフィエ? 誰かの答えをカンニングできるような環境はネットの海には転がっておらず、自分で答えを見つけるしか術はなかったのです。

心が粟立ってきて、居ても立ってもいられなくなり、青山ブックセンターに駆け込みました。「すいません。記号論について書かれた本を探しているんですけれど」って。

で、書店員さんが「え〜(困)」と「う〜ん(汗)」を繰り返しながら「この辺ですかね〜」と指し示してくれたのが、ロラン・バルトの『エリクチュールの零度』など単行本数冊。
結構ああいう四六判って高いんですよね。痛い出費でしたがクレジットカードで支払いました。コレも自分への投資や! って言い聞かせて。
書店員さん、無茶を申し上げてすみません。ついでに『物語の構造分析』も買わせていただきますんでお許しを、ってな感じで。

その晩、眼をギンギンにさせて読みしだきました。まさに格闘です。
でも、正直いって取りつく島もないほど、わけわかんない。

焦りました。フランス人よ、なんでもこうにも小難しくこねくり回すのだ。アンタたちのよくない癖だぜ。読んでいる言葉の一つ一つがまったく腑に落ちず、自分の察しの悪さと愚昧っぷりに恥じ入りました。わたしって、手前味噌ながらかなりの読書家だと自負しておりましたが、もしかしてアホだったんじゃないかと不安と恐怖のズンドコに陥りました。たぶん30%、いや20%も理解できなかったんじゃないかしら。

でも、なんとなく仄かに見えてきたのは、受け手(読者)が、そこに書かれたさまざまな情報を、受け手の理解の有無や濃淡を超えたところで〝記号的に受け取れる〟ような? 少なくともボスが用いていた〝記号論〟的展開とやらは「わかりやすい構成にしろよ」ってことなのかなと。


あ、肝心のその企画の骨子をお伝えしていませんでしたね。
12ページほどのボリュームで展開するその特集ページは「作家たちの食法」と題したグルメ企画。つまり、これに照らすと、その12ページの中で取り上げる何人かの作家たちについての記述を、単純に考えれば並列させたプログラムに沿って展開せよ、ということになるでしょうか。

なんのことはない。よくあるA・B・C・Dを等分にみせてゆくカタログ的ページネーションです。

・冒頭で記述対象となる作家名をガツンと立てる。
・作家が愛した料理と、それを食すために足繁く通った店も立てる。
・本文で、その作家の食にまつわるエピソードを綴る。
・タラシを活用して、その作家が遺した食に対する拘りを付け加える。
・挿絵の写真も、店、料理、ともに統一感を持たせたアングル・構図に。

谷崎は喜代川や伊豆栄の鰻が好きで、池波は蕎麦に唐辛子を直接ふって食うのを好んだ云々と、一本のストーリー仕立てにして、ああだこうだと長文で語るのではなく。それぞれの見開きで、あらかじめ設定した場所に作家名があり、料理名を掲げ、それを食した店と写真を載せるということ。要は、誰がどのページのどの場所から読み始めても「直感的に情報を拾える」というスタイルです。

いや、ホントはもっと深いところで「〝記号論〟的展開を」とボスはいったのかもしれませんが、わたしの脳はロラン・バルトさんのせいで、もはや蕩けて流れてなくなりそうな勢い。だもんで勝手にそう解釈しました。というか、そう解釈することにしちゃいました。

取材では努めて並列的に展開できるよう、カメラマンさんには同じ画角からの写真をリクエストし、お店のご主人には作家との思い出に絞ってお話を伺いました。また、タラシとして流すコピーも、作家が過去に綴ったエッセイや随想などを読み漁り、そこで語られていたジャストなワードをチョイスして、個々の料理に対する強い拘りや思いが伝わるようにしました。

もうね。クルマで喩えたらメルセデスベンツのCクラスですよ。いちいち説明書なんて読まずとも、なんとなくここをいぢればエアコンが動くんじゃね?とか、このダイヤルを回せばライトが点くんだろ?とか。本能的に、どこにアイポイントを移せば、何が書いてあるかが手に取るようにわかるといった、今でいうUIに配慮した工夫をさまざまに施しました。
もちろん見た目だけではなく、情報の中身にも気を遣って。

で、ボスにチェックしてもらったら「うん、まぁ、こういうことだよな。いいんじゃない」。
ホッ。なんだよ、こんなんでよかったのかよ。。

おそらく、小説家にはそれぞれ熱心なファンがいて、谷崎や池波についてメチャメチャ詳しい人だっています。そういう彼らにしてみれば、たかだかイチ編集者が狭い了見でもって、自分たちが敬愛してやまない作家のことをベタベタと手垢のついた言葉で綴りやがっても共感に値しない。だとすれば、読者それぞれの作家観や記憶の俎上に、取材した各要素をシンボリックにシステマチックに提示して差し上げて、あとどう感じるかは読者に委ねるのがベターということなんでしょう。知らんけど。


編プロ在籍時代は、こうしたことの繰り返しでしたね。ハタからみたら優雅に水面を揺蕩ってるねーって思えても、わたしだけじゃなく誰もが水面下では必死に足を掻いていました。

それでも、当時は編集者たるもの「無知は罪」とばかりに見栄を張って生きていました。「武士は食わねど高楊枝」とやせ我慢をしながら、裏では必死に帳尻合わせの勉強をしていました。いいんだか悪いんだかわかりませんが、もっと肩の力を抜いたってなんとかなったんだけどなぁ。でも、いいんだか悪いんだか未だにわかっていませんが、アヒルの水かきはこれからも続いていくと思います。

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