一人旅の効用についての思索
僕らは日々色々な仮面をもつ。
職業人としての自分、趣味での自分、家庭での自分、友人といる時の自分、ネット上での自分。
それは肩書きだったり、関係性だったり、キャラクターだったりする。
普段からナチュラルに使い分けるものだが、仮面はいつしか自分を侵食してくるもので、自分の素顔がわからなくなることも。
そういう時にこそ一人旅をお勧めしたい。
家、会社、地域など慣れ親しんだ空間、それに付随する関係性を一度捨て去るのである。
まず、どこどこの誰々さん、という話が通用しなくなる。
例えば会社で、「あの人はこんな人」という認識だったり、家族内で「彼女はいつもこう対応してくれる」という出来上がった人間関係があるだろう。
それがあると、コミュニケーションコストがかからず極めてスムーズだ。
その「鎧」を脱ぎ捨ててしまおう。
あなたはその旅において、何者でもない、通行人Aだ。
「関係性」は自己と他者を結びつけ、相対的に自己の認識を生むものだが、時に鎖にもなる。
だから、誰かと一緒に行くより、一人がいい。
何も遠出しなくてもいい。とにかく行ったことのない場所へ足を向けてみるのだ。
関係性は土地や空間に対しても適用される。
「あの信号はいつも大体40秒で赤に変わるから、このタイミングと距離だったら小走りで行こう」なんて生活動線が出来上がっている経験、誰にもであるだろう。
それも捨ててしまえ。
バスがこの路線で合ってるのか、この土地は山あいで寒くなりはしないか、なんてビクビクしながら未知のエリアへ言ってみよう。
行ったことのないところに計画性もなくぶらりと言ってみて、そこの場所の人、時間の流れ、建造物、匂い、食の味付け、五感全てを働かせてみよう。
その空間にとってあなたは紛れもない「異なる存在」となるのだが、あなた自身もその「異常事態」を感じてみると良い。
初めましての人を少ない情報量で「こんなひとかな〜」と推察したり、「この系統の服もありだな」とか「このラーメンクソマズいな」とか、普段と違うもの、新しい感覚に、リアクションが生まれることで、見えていなかった自分の一面に出会う。
ちなみに僕は最近、福島第一原子力発電所に一番近い駅、大野駅に行ってみた。
2021年10月現在、歩きで行けたのは駅周辺30M程度で、あとはフェンスに阻まれている。
あれから10年半。日数にして、3800日越え。
いまだに除染作業が完了しておらず、人が暮らせないことに改めて原子エネルギーの功罪について考えさせられた。
この地域に暮らすものとして向き合い続けねばならない問いだが、答えはまだない。
一つ言えることは、人の則を超えてしまったものを扱うことは、できるだけ避けるべきだという考えが自分の中に生まれたが、それについてはまた別の機会に。
新たな場所、新たな人、新たな味。
一つ一つに出会い、そうやって、まるでダイヤモンドを削って面ができるかのように自分の輪郭を確かめる。
長くなくてもいい、観光スポットばかりでなくてもいい。
日常に「旅的瞬間」を織り交ぜることで、感性の澱みに流れが生まれ、瑞々しさやエネルギーが保たれるのではないか。
以上、旅の効用についてをつらつらと書いてみた。
皆さんも良い旅を。