まちの競争力は混沌力と編集力に宿る。渋谷と下北沢というローカルで感じたこと
「渋谷、やべぇ」
ども。
久方ぶりに東京に来ておる。
(帰省で2週間前にもきたが、もはや誤差)
渋谷に滞在し、久方ぶりに友人と再会したが、渋谷はすごい。
人人人。
男女若者おじさんおばさん爺さん婆さんが深夜0時だろうが所狭しと行き交う。
教会をコンセプトにした罪深きクラブを横目に歩き、近くには警察に持ち物検査をされているアングラな若者たちがいる。
外国人がコスプレか際どいラインのファッションをしていると思えば、そいつはポケモンのぬいぐるみを持っている。
街の胎動もすごい。
渋谷のあっち側に行きたいのに、電車、路線、出口、ショッピングモールが大量にあり、2年ぶりに来るともはや福太郎が浦島太郎状態。
最短経路5分のところが20分とか平気でかかる。
チェーン店もあればハイエンドなお店、一本入ればいかがわしい店、いつからあんだよと驚く激狭なボロ居酒屋、エキゾチックな店、なんでこんなもんあんだよとなる意味不明なコンセプトの店。
住むにはキツイな。
率直にいって、人を選ぶまちだ。
この混沌に宿るもの
この混沌は世界でもトップクラスだろう。
ただの交差点なのに、タイムズスクエアと並んで世界的にも有名な観光地だ。
一人称視点で見ればゲロ吐きたくなるぐらいにごちゃ混ざっているんだけど、三人称視点として引きで見るとどうだろう。
美しくはないか。
各々がある種の傍若無人さをはらんで活動をしても、その集積により、「渋谷」は「渋谷」たりえる。
アルバムの中のシングルの作品が一つ一つ独立した世界観を持っているかのように。
秋葉原では、上野では、霞ヶ関では、横浜では、仙台では存在し得ないものが、ここにはある。
それがそれであるがままにあれる。それが渋谷の「コード」なのかもしれない。
生物多様性に相似系した、有象無象を内包できる環境と土壌、カルチャーベースこそが渋谷の引力であり、競争力をもった魅力的な地域続けるのかもしれない。
そして僕自身、その混沌が生み出すエネルギーに引き寄せられているのだと感じた。
「下北ナイズドされてんなぁ」
一方、同じ「イケてる」まちでも対象的なのが下北沢だ。
ファッションと音楽と不健康な限界バンドマンの溜まり場というイメージがあったが、小田急等の不動産が旗を振って、沿線開発をしている。
それはもうWell-Organizedというか、洗練されている。
きちんとディレクターがいて、きちんとメッセージ性を持って統率を取っているので、混沌度合いは低いのだがエネルギーを感じる。
着目すべきは「再編集」を感じる点だ。
オリジナリティを目指してやっていくというよりは文化としてのオリジンをより「トーキョーナイズド」「シモキタナイズド」させ、顕現させている。
渋谷のストリームでみたようなひな壇、東南アジア屋台風味の装いの軽食屋、近頃若者受けの良いネオンの看板など。
自然発生的サブカルチャーではなく、借り物のカルチャーをアレンジしてよりサブカルチャーっぽくしている。
僕にはちょっと寒く感じる。(「サブサブカルチャー」なんて寒いギャクは胸の奥にしまっておけよ)
ただ一方で、メインストリームカルチャーと資本力の土俵で戦う渋谷とは別の生態系の在り方が許容されているという観点で、これはこれであるのだろう。
地域の競争力は混沌にあるのか?
前提、東京だって地域=ローカルの集合体。
それぞれの地域には、魅力がある。
高ければ高いほどヒトモノカネ情報仕事など色々な資源が集積され、結果としてエネルギー量が高まり、競争力になる。
鶏が先か?卵が先か?ということはさておこう。
住む場所、遊ぶ場所、仕事する場所、活動する場所、旅する場所、飯食う場所と絶えず人々の選択の俎上に上がり続ける。
そして、選ばれる地域であるために常に研鑽と新陳代謝が必要なのだと思った。
環境に絶えず適応し、生まれ、死に、アップデートし続ける。
それは適者生存の法則に等しい。
混沌の持つエネルギー指向性をディレクションするローカルエディター
先日、ローカルメディアが着目をされ始めているという講義を聞いた。
それもなるほどと渋谷のホテル”All Day Place”に留まって、腑に落ちた。
ホテルは余計なアメニティを削ぎ、家具も組成材。
水はペットボトルではなく、ピッチャーがあるのでウォーターサーバーで組みに行くスタイル。
歯ブラシは脱プラの観点からMiyo Organic。
エシカル&ミニマルだ。
しかしながら殺風景さを感じさせない端々へのしつらえを感じた。
渋谷のど真ん中に位置しながらも、ここではリラックスしてねというメッセージ性を感じる。
アドレナリンを沈めて、ゆっくりと眠りにつけた。
2Fにあるチーズ料理屋さんはこだわりの素材でチーズづくりをし、それを料理として昇華させている。
渋谷では店の内装に関しては世界観がはっきり、むしろ強烈にあって、その「点」が超大量に集積し、超高密度ゆえに「渋谷」というコードのもと人が引き寄せられる。
無秩序というか、エントロピーが高いというか。
一方で下北沢は「面」で文脈を生み出している。
「点」の数それ自体は小粒、かつ渋谷に比べて少数かもしれないが、エリア単位での編集作業をすることで、高濃度のエネルギーと強いメッセージ性をきちっと発している。
まごうことなき「編集」の概念であり、エディターが練り、ディレクターが旗を振って実行していくまちづくりだ。
地方のエディターは誰が担うべき?
とはいえ上記2点は東京という資源の集積地、ゆえにひとかどの担い手がいるだろう。はて、地方はどうか。
大手のデベロッパーなのか、まちづくり会社なのか、行政なのか、商店街などの組合なのか、編集プロダクション的な人なのか、はたまた個人がやるのか。
一般に東京は多様性の中にもなんだかんだカルチャーコードがあるゆえか、エリアごとに見れば同質性がある。
同質なもの、少数のものを「一筆書きで囲う」ことはそう難しくはない。
他方遠くのもの、異質なもの同士では難易度が高まる。
たくさんのインク=資金力、構想力=クリエイティビティ、説得力=説明責任やら社会的意義を鼎立させねばならない。
合意形成を作る調整力、工程管理、人をまとめ上げるリーダーシップ、事業や活動を成す推進力、少ない資金等リソースでやるための企画力。他の地域でもありきたりなものだねと言われないための取り組みの魅力、競争力。
はっきり言ってレアキャラだ。
今回は下北の動きを生み出しているomusubi不動産を拝見したが、彼らのようにハードからアプローチができつつも、ソフトデザインも両立させられるフットワークと人情のわかる人たちの存在は、不可欠だろうと、漠然と感じた。
そんなやついるわけ…と思ったらいた。
一つ事例を紹介しよう。
僕の知人が沖縄の名護でハードで場づくり、ソフトでイベントやマルシェ、創業支援をやっている。
Coconovaという場所があり、そこでは常に混沌が巻き起こっている。
地方でも丁寧に文脈を受け継ぎ、時に大胆に、「乱し」ながら渦を産んでいる。
先日僕もお邪魔したが、数時間いただけでその間口の広さとグルービーなバイブスを肌で感じた。
沖縄紀行録が綴られた一連のツイート、よければご覧あれ。
ソフトだけではなく、アーキテクトもいるので、その世界観を実際に形にできる。
彼らはあくまで民間の立場から携わり続けている。
いい意味で尖り続け、フットワーク軽くコトを起こす。
行政とはまた違ったスタイルでの街の興し方として、彼らのスタイルは一つ見習えるかもしれない。
色々と書いたが、全ては繋がっている
創業支援、不動産、編集、ジャンルは少しずつ違って、少しずつ重なっている。
街には街のスタイルがありつつ、もう僕には全ての地域が持続可能性を維持するなんてことは不可能だと思った。
「じゃぁみんな都市に集積すればいいじゃん」とは喉元まで出かけるけど、いや待って欲しい。
適度な集積をしつつ、それでも文化的、機能的にオルタナティブがあり続けることは、絶対不可欠。
土地が破壊と自己修復に伴う創造をし、生き残り続けるには集積よりも分散なんだ。
それらを織りなす要素を地域地域で担うと、その地域は魅力と競争力とひいては持続可能性への歩を進めている、少なくともその気があるのだろう。
書いていて最後ピシッとまとまりきらなかったけど、東京に来て異邦人としてまちを観察しての雑記でございました。
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