ある石材屋跡地の終わり
おばんです。
昨日、とても素敵かつ驚きなことがあったので筆を取る。
この場所は、楢葉町にあるとある石材屋さんの跡地。
今年のうちに解体が決まったそうだ。
そこで、「場の終わり」をテーマに何かしようと数名が立ち上がった。
この場所の文脈を丁寧に紡ぎながら、古本屋、BBQ、ドリンク屋さん、etcが集い、夜市となって顕現した。
催しもあり。
場のオーナーさんと、企画者の対話。
最初はオーナーさんから丁寧にこの場の背景を拾い上げる。
やがて場にいる人々もそれぞれに言葉を投げかけ、結果即興的なセッションが織りなされた。
「家族だけじゃこうは決められなかった、だからこそ閉じることを決められた」という言葉は印象的。
この場をテーマにした詩を編んだ方の朗読もあった。
石の持つ半恒久性と、時代や私たちの身体の刹那性、時間や空間に奥行きを感じる言葉の端切。
読み手が移動をしたり、その場にある石工の道具を打ったり。
この地域にて奏でられる生活の音を背景にした表現は、なんとも言えない情緒を掻き立ててきた。
普遍的なこと。始まりと終わり。
今回の主催者武内くんの口から語られたのは、この石材屋の「終わり」について。
対話の中でも、詩の中でも語られた始まり、起こり、生まれと表裏一体にある終わり、すなわち死について。
食べ物を食らう。壊れたから捨てる。国道を走れば、小動物の死骸をみる。
当たり前にそこにはあるものだ。
ただ、この地に生きる僕らには生まれと起こりの側面に光が当てられ、物事の終わりと死の匂いは殊更にマスキングされがでもある。
この石材屋さんの工場跡も、移転以来使われなくなって久しい。
人の流れも営みもなく、いわば心臓移植をされてしまい、血が流れなくなり、仮死状態のようなものだ。
そして、ついに本当の終わりが来た。
ただシンプルに解体される世界線もあった中で、終わりに対してのはなむけが執り行われた。
お掃除や電飾はいわば死化粧。
美しき散り際を作り上げるべく、さまざまな関わりが生まれた。
思いやできることをを持ち寄り、たくさんの火花が散っていた。
詩の朗読の中で、「一瞬」という言葉の解釈の新たな可能性を感じたのだが、止まっていた時が動き出したという意味で、石材屋の歴史としてはほんの短い、しかし自分たちの人生においてはそう短くない物語として、刻まれたのだ。
空間的カオスとコスモス、原初的コミューンとアナキズム
もう一つ。
いかにもワクワクする空間的なハナシと、人々の動きについて書きたい。
今回の会場となった石材屋。
この地の方々に爆誕するクソデカハードの対比的存在として、今回の会場は象徴的だった。
それらの存在は一定の”きれいさ”がある。
きれいな空間とハードは人の行動を定義する。椅子を使え、受付に行け、ジムで運動しろ、ここに集え、ここの導線が云々。
極めてアーティフィシャルだ。
では石材屋はどうか。
もう、普通に考えれば”汚い”。ほこ りやらゴミがたくさんあるしすんごいカオスなのだが、引きで見るとどうだろう。
どういうわけか、そこに何かの美しさとしての”コスモス”を感じてくるのだ。
まず、入り口の階段は墓石の端くれを積み上げたもの。
トタンの壁と、有り合わせの材料で組まれた屋台。
テーブルはビールケースを土台に、どでかいカッターを上に乗せる。角材を寄せ集めた上に畳が置かれ、憩いの場となる。
櫓のようなものはなんだかよくわからないが、そこから伸びるワイヤーに電飾を巻き付ける。
穴が空いた廃一斗缶の焚き火台、もちろん薪は廃材だ。
そんな空間においてドリンクを飲む人、本を売ってる人、火を整える人、パフォーマンスをする人、出迎える人、談笑してる人、まるで石材場という惑星の中にある生態系のようだ。
廃墟という性質上、ハードによる人の行動様式の定義は存在しない。がゆえに、各々が必要だと思う行為を始め、それがゆえに人と空間、人と道具、人と人の間に不思議な調和が生み出される。
それはこうしなさい、と定義され他の解釈の余地の薄い「デザイン」とは対になるものとしてある。
手元にあるものをブリコラージュして機能を取得していく。
各々が本来眠らせているデザインの力を呼び起こし、民主化する過程を見出せる。
支配者が存在しないアナーキーな空間であり、各々がロールプレイを自主的にし出す、舞台装置的なものを見出した。
浜通りには「豊かなコミュニティがある」と言われて久しいが、昨今言われるサードプレイス的なものより、もっと暮らしに根付いた「自治」とでもいえようか。
皆で豊かな暮らしを作る矜持のもと、場、然り空間然り所有物然り、”コモンズ”を育てていく。
必要なものを皆で持ち寄り、役割も可変的で、即興的。
高度なシステムとしての税収の手前、人の諸活動の起こり、社会の起こりとしての超ゲマインシャフト的、原初の地縁的な共同体が脈として流れていることをここで実感した。
astonishing moment in a stone shop
いつかは僕らの生も生きた証も朽ち果てる。
形あるものは皆全て。
耳目を持たぬ、石だけが少し長く、その地にあり続ける。
この3日間、石材屋は一瞬というにはあまりに長く、しかし悠久の時の中では本当に本当に刹那的に地域に生きる人と切り出された素敵な催しだった。
この地で暮らしていることの魅力の最たるケースとして、さらに「始まり」ではなく「終わり」を提唱してくれた驚きと感謝を込めて筆をおく。
ありがとう、ある石材屋。ありがとう企画者のみんな。