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ファンを白熱させたマリーのライバル
こんにちは。
ただのバレエ好きのあゆみです。
今日からまた夏っぽい気候に戻るらしいです。
早速暑さにわたしはやられております💦笑
今週末は、待ちに待った「バレエの饗宴」
そこまでに『パ・ド・カトル』の作品紹介終わらせられるようにっていうのが今週の目標です!
さてさて、
皆さんに、ライバルはいますか??
マーケティングや戦略的にも使われる「ライバル」という存在ですが、
それはロマンティックバレエの時代も例外ではありませんでした。
以前のノートで紹介した、マリー・タリオーニ。
彼女は現代にも名前の残る素晴らしいダンサーですが、
そんな彼女の活躍の裏にはライバルが存在していました。
今日は、
マリーのライバル
を紹介します。
それではスタート!!
マリーのライバルとして売り出された女性ダンサー
ファニー・エルスラーという人物
ファニー・エルスラー Fanny Elssler 1810~1884
オーストリア出身
肉体的、官能的、情熱的な踊りが持ち味。
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ファニーのお父さんは、
有名な作曲家、ハイドンの執事をしていました。
ハイドンがものすごいスピードで描いた楽譜を清書するなどの役目も果たしていたようです。
ハイドンは、ファニーが生まれる前にこの世を去り、それと共にファニーのお父さんも職を失いました。
ファニーのお母さんが頑張って家計を支えていましたが、その暮らしは貧しく苦しいものだったみたいです。
その結果、ファニーと、姉のテレーズはオーストリアでバレエを始めることになりました。
(なぜ貧しい人がバレエをやることにつながるかは↓こちら↓のnoteをご覧ください。)
プロデビューに至るまで
1817年、 7歳の時にオーストリアの舞台にて舞台デビューを飾ります。
その後は、いろんなところで舞台に立ちながら、
表現力
色気
テクニック
などで若いうちから注目されていきます。
そして、
1833年 23歳の時、ロンドンのキングス劇場にてプロダンサーとしてデビュー。
この時には、ヨーロッパ中でファニー・エルスラーという名前は知れているほど有名になっていました。
パリ・オペラ座入団
ファニーの人気や実力は、
当時のパリ・オペラ座の支配者、ルイ=デジレ・ヴェロンの耳にも届き、
ファニーのデビューの翌年(1834年)にも、イギリスに自身の足を運びました。
ファニーが出演する公演を見た後、
ヴェロンはファニーを呼び出し、
パリ・オペラ座に来るように誘いをかけます。
「姉のテレーズと一緒なら」という条件でファニーはパリ・オペラ座入団の誘いを受けます。
(姉のテレーズは、世界初の男装女性ダンサーとしても有名。またそのうち触れます。)
ヴェロンがファニーをパリに呼んだワケ
そのころのパリは、
マリー・タリオーニが絶大なる人気を誇っていました。
人気度が増していくとともに、マリーのわがまま度も増していきました。
そこで、ヴェロンはマリーの人気に負けずとも劣らない対抗馬を作ろうと考えたのです。
その理由は2つ
マリーを牽制するための対抗馬が必要だったから。
マリーと踊りが正反対の性質を持つファニーと、彼女らについてくるファンを競わせることで、バレエ熱をさらに高めようと考えていたから。
そして、ヴェロンの思惑は見事にはまり
華奢で、背が高くて、精神的な踊りをするマリー、
情熱的で、肉体的で、官能的な踊りをするファニー、
という2人のダンサーがライバル関係になるとともに、
2人のファンを中心にバレエ熱は加速していきました。
ファニーの代名詞の誕生
1834年9月『あらし』という作品でファニーはパリ・オペラ座デビューを飾ります。
瞬く間にファニーの女性らしい踊りはパリ中で大人気になっていきます。
(客席に見にきていたマリーは、ファニーを認めつつも貶していたらしい。笑)
ファニーの人気がさらに高まったのは、その2年後、
1836年、『悪魔の松葉杖』という作品に出演した時でした。
『悪魔の松葉杖』
台本;アドルフ・ヌリ(ラ・シルフィードの脚本書いた人)、ブダ・ド・クルギ
振付:ジャン・コラリ
【超ざっくりストーリー】
瓶に閉じ込められていた悪魔が、「瓶から出してほしい」と学生に頼み、
そのお礼に3人の女性を紹介してあげるというもの。
学生が最終的に選んだのは、パキータという貧しい女性だった。
ファニーはこの時に、美しい踊り子のフロリンダという役を踊ります。(主役ではない)
そして、この役が彼女の当たり役になるのです。
役が当たったというか、カチュチャという踊りが彼女の踊りの性質にどハマりし、
パリ市民を熱狂させました。
カチュチャって何??
カチュチャとは、スペインのアンダルシア地方の踊りが元になっていて、
ファニーが踊る際には、バレエに寄せて振付されました。
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また、カチュチャに用いられている足の動き、背中の反り、頭飾り、カスタネットを用いた踊りなどは、
後世の作品の『ドン・キ・ホーテ』のスペイン舞踊の元になったとも言われています。
↑英国ロイヤル・バレエ団がファニーについて取り上げてる動画です。
ちなみに、ファニーが踊るカチュチャに
テオフル・ゴーティエ(『ジゼル』の台本書いた人)
はものすごく魅了されたみたいです。
そして、ライバル関係にあるマリー・タリオーニはカチュチャを見て、
「私だって女が出せる!!!」
といい、女性らしい役を演じたり、
ファニーも、
「私も妖精のような踊りができる」
とシルフィード役を演じたりしたみたいです。
火がばちばちですねぇ
その後のマリーとファニー
2人の人気度合い
2人の人気度合いは、現代からは想像できないぐらいに加速していきます。
例えば、
2人が公演後に劇場から帰るときの馬車は、
馬ではなく、ファン自らが引いていたみたいですし、
さらに、
彼女らが公演で履いた後のトゥシューズにシャンパンを入れて飲むのが、
ファンの間では至福のひと時だったみたいです。
気持ち悪いほどの熱狂ですね…笑
パリ・オペラ座に残ったファニーと解雇されたマリー
1837年、決断の時が訪れます。
パリ・オペラ座の支配人はデュポンシェルという人物に変わっていましたが、
デュポンシェルは、ファニーとの契約続行を決めます。
つまり、マリー・タリオーニを解雇しました。
(マリーはその後ロシアで活動を続けます。)
その後、
ファニーは一度病気に服しますが、
復帰の後は『ラ・フィーユ・マル・ガルデ(=リーズの結婚)』などを中心にパリで大活躍をします。
ファニーの引退まで
興行師の誘いでアメリカへ
1840年、興行師の誘いで、ロマンティックバレエのダンサーとしては初めて、
アメリカに公演をしにいきます。
ニューヨーク、ボストン、フィラデルフィアなど各地を回り大成功を収め、莫大な富を得ます。
この渡米の話は、当初半年間行われる予定でパリ・オペラ座側と話がつけられましたが、
ファニーは2年間アメリカに居続けました。
その結果、ファニーはパリ・オペラ座を解雇され、
その後は、イギリス、イタリア、ロシアなどで公演を続けました。
大人気ダンサーの引退
ファニーはアメリカからパリに帰ってきた後、
9年間ヨーロッパ各地を回り、公演を続けました。
そして、
1851年 41歳のとき、
ウィーンのケルントネルター劇場で引退公演を行い、
ダンサーとしての生涯に幕を閉じます。
この劇場は、フェニーが7歳の時に、
ダンサーとして生まれた初めて舞台に立った劇場でした。
まとめ
ロマンティックバレエの時代は、マリー・タリオーニなしには語れませんが、
マリー・タリオーニを語るにはファニー・エルスラーなしには語れません。
逆もまた然りとも言えるでしょう。
ファニー・エルスラーが主演をやり人気を博した『ラ・フィーユ・マル・ガルデ』の作品紹介もそのうちやりますので楽しみに待ってていただければ幸いです!
今日も最後まで読んでくださってありがとうございました!
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それではまた〜
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