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愛することは、伝えること

私の娘は、最近、私に似てやや屈折してきた。
少し前までは「ママ大好き!」と、素直に飛びついてきたし、家で一番の甘えん坊だった。
毎日、あきれるほど抱っこをしたし、私のところにやってきては抱っこをせがんだ。

子供が黙ってやってきて、バンザイをする。
これ、私は「抱っこの構え」と呼んでいる。
これをされたら、抱っこする。
否、しなければならない。

しなければならないのだ。

ところが、最近抱っこの構えをする子供はいなくなった。
成長したのだ。

愛情をストレートに表現せず、遠回しにするようになってきた。
娘も小学生になり、大人になってきたということだろう。

娘が見せる最近の愛情表現といえば、大好きなぬいぐるみを私に可愛がらせることだ。

①娘が、どハマリ中のカワウソのぬいぐるみを手に現れる
②カワウソがジェスチャーで「なでて」「ぎゅーして」「ちゅーして」などと指示する
※カワウソが指示する
③そのとおりに、ひたすらぬいぐるみをかわいがる
④それを見て、満足する娘
⑤仕上げに、娘もなでなでする

という、一連の行為。
これ、はじめは「なんでこんなことをしなければ…」と、ものすごく自分に疑問をいだきながらカワウソに接していたのだが、最近はわかるようになってきた。
娘はカワウソが可愛がられることによって、私からの愛情を間接的に受け取っているのだと。

私が無心でカワウソを可愛がるその様を見ながら、娘は母性に包まれ、愛情を享受し、満足感を得て去っていく。
ただし、仕上げの「なでなで」もちゃっかりもらっていく。

子供の考えることは、とてもユニークだ。
かわいいし、裏表がない。

私は、愛するということの多くを、我が子から学んだ気がする。

私はあまのじゃくだ。
感情をオープンにさらけ出すのが何よりも苦手。
一時期、感情を出す文章そのものが全くもって書けず、心情を綴ることがこんなにも難しいものかと苦しんだ。
それほど、苦手だった。

でも、書かなきゃ伝わらない思いがある。
それを教えてくれたのは、とあるライターの友人だった。
エモーショナルを体現するということは、彼女から学んだ。

一方、エモーショナルを私に与えてくれるのは、リアルな私生活にほかならない。
喜び、悲しみ、苦しみ、怒り、感動…。

心躍る「なにか」は、リアルの中に潜んでいる。
そして、それらはたいていとても身近なところにある。

私は主婦兼在宅ワーカーなので、とにかく家にいることが多い。
毎日家に居て、そうそう感動的な出来事も起こらないし、魂を揺さぶる興奮を味わうこともない…と思っていた。

ところが、違った。
遡ること10年前、我が家に長男が産声を挙げた瞬間から、我が家の日常はエモーショナルでドラマチックになったのだ。

つまり
「見てみて、笑ったぁ!!かわいいね〜」
だとか
「あ、吐いちゃった!!どうしよう、どうしよう」
だとか
子供がいる日常というものは、ドタバタ喜劇のようにシーンが次々と変わっていく。

さっき泣いていた子が笑い、笑っていた子が怒り出す。
そんなのは当たり前なのだ。
子供は無邪気だ。
純粋だ。
そして、ど直球だ。

イヤ!!
好き!!

そのどちらも、全力で表現してくれる。
それが子供というものだ。
子供は未熟で、上手な表現方法を知らない。
だからこそ、全身で表現するしかないのだ。

子供たちがストレートに発する想いに、一瞬で、私の心はまるごと奪われた。
つまり、子供の愛情が私に正しく伝わったのだ。

我が子が泣いている、我が子が私を求めている…そう思うと、私はなにを置いても「子どもたちのためになにかしてあげなければ!!」と思うのだ。

私の愛は屈折している。
憎まれ口を叩くのは得意だが、素直に「ありがとう」を言うのは苦手。

その性格で、かなり損もしたと思う。
素直さは武器だ。
私には無いもの。

そして、想いは正しく伝えないと、人には決して伝わらない。

私は子供との対話を通して、そのことを学んだ。
子供に対して、特に幼い頃は言葉でのコミュニケーションが難しいため、伝え方に注意しなければならない。

伝え方のセオリーは、とにかくストレートに伝えること!!
まだ言葉もわからない我が子に向かって、何度笑顔を向けたことか。
抱きしめたことか。
「大好き」「愛している」と、ささやいたことか。

愛は思っているだけじゃ伝わらない。
言葉に変えて、態度に変えて、伝えなければ意味がない。

心の中にそっと秘める思い…それは美しいものだろう。
しかし、心の中に秘めた思いは、誰のものにもならない。
自己満足にしかならないのだ。

想いは伝えるほうが良い。
愛情は、繰り返し伝えるに限る。
好意的な思いは、どんどん口に出すべきだ。

我が家では、子供たちが布団に入ると、あることをする。
子供たちが正しく布団に入り、それを私が見届け、照明を消す。
そうすると、子どもたちはおしゃべりをやめる。
眠りにつく前の、ひととき。

ほんのりおぼろげなあかりの中で、私は子供たちに「おやすみ」とささやく。
必ず頭をなでながら。
頬をさすりながら。
ときには、強く抱きしめながら。

間違って同じベッドに入ってしまうこともしばしば。
長男も、長女も、ふにゃっととろけるような笑みを浮かべて目を閉じる。
毎夜繰り返す、私からのおきまり。

それは、眠りに就く前のひとときが、愛情で一杯になるように。
どんな一日でも、その瞬間だけは幸福で満たされるように。

また、朝起きてきての日課は「おはよう」とほぼ同時に繰り出されるハグ。
子供が嫌がっても、逃げ出しても、執拗に追いかけて抱きしめる。
朝晩、毎日繰り返す愛情の儀式。

いつまで受け入れてくれるだろう。
いつまで届けられるだろう。
そう思いながらも、私は彼らに愛を贈ることをやめない。

愛情は伝えなければ届かない。
だから、子供にも愛をささやくし、全力で愛を表現する。
私が子供を愛することで、愛とはなんたるかを子どもたちも感じてくれると信じている。

子供は親を真似ていく。
私が笑う、怒る、悲しむ…。
その感情を、子どもたちも学んでいる。

喜怒哀楽を正しく感じ取ることが、子供の心を育むことでもある。
だから、子供には全力で怒るし、全力で愛を注ぐのだ。

愛が正しく伝わるように。
毎日、毎日、何度でも。
伝えることで、愛は届く。

子供たちが全力で私に伝えてくれたように、私もまた愛情で応える。

何度でも、何度でも。
いくら届けてもまだ伝えたい。
愛することは、伝えること。

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