再生医療と社会のこれから|日本再生医療学会理事 八代嘉美 後編
再生医療の基本的なお話から、最前線まで、色々な切り口で八代先生にお聞きしてきた連載も今回が最終回となりました。
今回は再生医療と我々の社会とのかかわりについてお聞きしたいと思います。
八代嘉美(やしろ・よしみ)
日本再生医療学会理事。神奈川県立保健福祉大学教授。専門は幹細胞生物学、科学技術社会論。造血幹細胞研究で学位を取得後、科学技術社会論的研究を開始し、幹細胞研究および再生医療に関する社会受容の形成やコスト面などの社会実装に関する研究を行う。2009年東京大学大学院医学系研究科博士課程修了。2009年、慶應義塾大学医学部生理学教室特任助教、2011年東京女子医科大学先端生命医科学研究所特任講師、2012年慶應義塾大学医学部総合医科学研究センター特任准教授、2013年京都大学iPS細胞研究所特定准教授を経て2018年より現職。
再生医療と社会との接点で起きていること
――ところで先生は、再生医療について幅広い知識をお持ちです。ラボに閉じこもっているようには見えません。再生医療のどんな分野に関わっているのですか?
八代:
「患者と医師との間のコミュニケーションについての活動にたずさわっています」
――具体的にはどういう活動なのでしょうか?
八代:
「再生医療は期待が高い反面、まだ有効性や安全性が担保されていません。
それもかかわらず、治療を患者さんに提供してしまっているクリニックがあります。これは大きな問題になりかねません。
これを未然に防ぐためには、法律の整備はもちろん、医師と患者の間でコミュニケーションがとれるしくみや世論づくり、知識の浸透が欠かせません。そうした活動にたずさわっています」
――たいへん重要なお仕事です。
八代:
「もうひとつは、再生医療を取り巻く環境についての研究です。
日本は皆保険制度が整備された、恵まれた国です。
先ほど紹介した心筋シートは定価1500万円くらいですが、保険制度のおかげで、実際は40万円程度の支払で済みます。
多くの人が技術の恩恵を享受できるでしょう。
しかし一方で、国民皆保険という制度上、どうしても薬価を低く抑えようとする傾向があります。
それは悪いことではありませんが、『皆保険制度の事業継続性』の観点から考えると、ある程度収益性を確保できるような、あるいは治療効果が高いものに関してきちんとした対価が支払われるような、制度にしないと、今度は、作り手側のモチベーションが下がってしまうおそれがあります。
こうした点も研究課題のひとつです」
――どんな解決策があるのでしょう?
八代:
「薬価の付け方を変えることが考えられるでしょう。
あるいは『すでに行われている再生医療の安全性確認が科学的に妥当で合理性があるのか』という点も洗いなおさなければいけません。
つまり『やらなくてもいい試験をして、コストを無駄に使っていませんか』ということです。
ただし、コストは高いけれども、再生医療の製品によって患者さんたちが社会復帰でき、さらに看護や介護をしていた人たちも経済活動に戻ることができたら、その経済効果は計り知れません。
そうしたことも考えに含めれば、高額な医療費も割に合うかもしれない」
――たしかにそうです。再生医療を考える際には、現状より広く、長い目で見なければならないということですね?
八代:
「そうです。また、再生医療は高額になるかもしれないけど『お金持ちのための医療』にならないようにしなければいけない、という課題もあります。
さらには、既成の科学研究や『レギュラトリーサイエンス』(我々の身の回りの物質や現象について、その成因や機構、量的と質的な実態、および有効性や有害性の影響をより的確に知るための方法を編み出し、その成果を用いてそれぞれの有効性と安全性を予測・評価し、行政を通じて国民の健康に資する科学。※日本薬学会HPより)など――つまり安全性の条項や品質の確保――とセットにして、制度全体を海外へ輸出をする、という展開も考えられます。
このようなこころみを通じて、世界の中で優位性を確保し、それによって新たな研究開発や保険制度を充実させるための原資を確保するといった、大きなスキームを、みんなで考えていこう。これが私の研究の中心テーマです。
元々は実験をする基礎研究者だったのですが」
基礎研究を支援するしくみづくりを
――日本では先端研究にたずさわる機関の共通の課題として、他の国に比べて、研究開発への投資が不足しているという声をよく聞きます。再生医療ではどうでしょうか?
八代:
「再生医療は恵まれているほうだとは思います。しかし他の国に比べれば十全とはいえません。
では、そうした状況の中で『戦略性』がちゃんと維持されていたのか――たとえば、『選択と集中』はなされているのかという議論もあります。有望な研究にターゲットを絞って、そこへ資源を集中させるということですね。
こうした戦略は一見、有効に思えます。しかし、生命科学の基礎的な問いに答えるには、『選択と集中』という戦略ではむずかしいと考えます」
――それは興味深いお話です。
八代:
「いかに目利きであろうと、どの研究が成功するかなんてわからないんです。ベテランの競馬評論家が毎回当てられるかといったら、そんなことないじゃないですか。科学の世界も同じです」
――たしかに。
八代:
「それに加えて、実は、国の予算配分は流行り廃りに左右されやすいんです。
たとえば、2000年代冒頭には、遺伝子治療研究にたいへんな予算がつぎ込まれていました。
ところが米ペンシルベニア大学で『ゲルシンガー事件』が起きたんです。18歳の難病患者ゲルシンガーさんが遺伝子治療の治験中に死亡した事件です。
この事件で一番問題にされたのは、死亡に至った点はもちろんですが、技術の開発者と治験担当者、そしてそれを売り出そうとしていた会社のCEOが同一人物だったという『利益相反』でした。
この事件を境に、世界中で遺伝子治療の開発費がドンと落ち込みました。
他の国は直後から回復したんですが、日本は10年ほど元に戻りませんでした。その遅れは今後、何らかのかたちで影響してくるでしょう」
――基礎研究は成果を出すまでに長い年月が必要だと聞きます。
八代:
「再生医療は人間の体についての話なので、他の分野に比べれば理解を得るハードルは低いです。それでも『基礎なんて』という声はよく聞きます。
しかし、根源にアプローチする研究を切り捨ててしまうと、科学の厚みみたいなものができません。
私が『再生医療と社会との境界』を研究対象に選んだのは、再生医療研究のサスティナビリティ(Sustainability:将来も良い状態を保つこと。持続可能性)を作りたいと考えたからです。
お金を稼ぐ必要性も認めたうえで、『研究者が安心して基礎研究に打ち込める環境を自力ででも整えたい』のです」
――ではどうすればよいのでしょう?
八代:
「たとえば、証券会社が基礎研究を支援するファンドを立ち上げるというのはどうでしょう? 複数の基礎研究に投資して、1つでも当たったら投資家に還元できます。
またクラウドファンディングでもいいですね。そしてこうした基礎研究に対するファンドに投資するとその分は税の免除や軽減が行われるといった制度ができればいい。
国で予算が組めないのであれば、仕組みによって民間の資金を使うことも考えてほしいと思います」
ヒトはみな、ミュータント(突然変異体)である
――最後に、最近、医療の世界では、治療から予防に重心が移されています。再生医療と予防の関係を教えてください。
八代:
「予防的なアプローチはすでに行われています。
たとえば、iPS細胞は病気の患者さんからも作ることもできます。
病気の患者さんの細胞を初期化する――つまり、受精卵の段階まで戻すわけです。受精卵の段階で発症している病気は少ない。アルツハイマーにしてもパーキンソン病にしても高齢になった時に発症します。
ということは、病気の患者さんの細胞とそれを初期化したiPS細胞を比較すれば、どういう過程でその細胞が病気になっていくのか、を見ることができるんです。
遺伝的要因がわかるのはもちろんですが、環境要因も追跡できる。
目の前の患者さんを治すことはできないけれど、『こういう遺伝的な背景を持つ人は、ふだんの生活において、こんなことに気を付けるとリスクが下がりますよ』ということ、つまり重症化を防ぐ方法が細胞レベルで実証できます」
――たくさんの人が救われそうです。
八代:
「こうしたアプローチがさらに進めば、『出生前診断』(狭義。胎児の出生前遺伝子検査)で重篤な遺伝的疾患が見つかった場合でも、現在とはちがう新しい選択肢を提供できるはずです。
これが実現すれば、遺伝的疾患が社会生活に不利であるという現在の価値観をひっくり返すことができるはずです」
――再生医療が価値観を変えるんですか。
八代:
「人間は誰でも、数えきれないほどの遺伝的な変異を持っているんです。
何も病気の人だけではありません。
つまり、『人間はみんなミュータント』(突然変異体)なんです。このことは、生命科学の研究者がもっと発信しなければならない大切な考え方です」
――なるほど。今、価値観がひっくり返りました。
八代:
「予防と再生医療のことを考えると、作家ジョージ・オーウェルが『1984年』で表現したような、全体主義的なディストピアを想起させるからと嫌う人もいます。
しかし逆に、人類の行き先は自分たちが主体的に考えなければいけないと思うのです。誰のせいにもできない。
その意味で、私は、再生医療の技術が、疾患の治療や予防につながったり、それが差別などの価値観を変えていく可能性のほうを追求したいと考えます」
――よくわかります。
八代:
「iPS細胞というと、どうしても細胞の初期化とか細胞を作り直すといった側面ばかり目が行きがちですが、いま述べた病気や薬のメカニズムの解明において、たいへんパワフルな技術なんです。
すでに創薬のターゲットがスクリーニング作業で見つかっています。一番わかりやすいのは、FOP(進行性骨化性線維異形成症)という筋肉の細胞が骨化してしまう病気です。
この発症を抑える治療薬ラパマイシンが、iPS細胞の研究から見つかっています」
――どんどん進めていってほしいですね。
八代:
「しかしこれにもひとつ問題があります。
『ドラッグリポジショニング』というんですが、保険適用されている薬が、iPS細胞の研究によって希少疾患にも効くとわかった場合です。
この時、特許が切れているともうけになりませんから、製薬会社は販売したがらないんです。
こうした場合、保険の点数を加算してあげようという制度もありますが、それでもむずかしい。ここでは倫理性の問題に加えて、医療資源の配分といった問題も絡んでくるんです。
つまり、iPS細胞の研究によって、医療が進歩し、新しい価値観を形成しつつあるところまで来ましたが、その分、新たな悩みも生まれるということなんですね」
――研究が進めば進むほど課題は増える。しかしそこで立ち止まってしまってはいけないんですね。本日はありがとうございました。
・再生医療って何だろう?|日本再生医療学会理事 八代嘉美 前編
・再生医療をより深く知る|日本再生医療学会理事 八代嘉美 中編
・再生医療と社会のこれから|日本再生医療学会理事 八代嘉美 後編
取材・文/鈴木俊之、取材・編集/設楽幸生(FOUND編集部)
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