RYUTistだったみんなに幸あれ

恋人でも家族でも友人でもないのに、赤の他人を赤の他人であると明確に理解しながら、それでも、その人(たち)の暮らしと人生に心から「幸あれ」と願うこと。推しを推す絶望の中に、わずかながら希望のようなものが残っているのだとすれば、きっとこういうことなんじゃないかと私は信じている。
RYUTistのメンバー3名全員がグループを卒業し、グループとしての最後のライブが行われた2024年12月1日、私は超満員となったクラブクアトロの客席後方の片隅で、ステージ上を躍る彼女たちの身振りやファンの間で湧き上がるコールに合わせることなく、ただ音に身を委ねてひとり体を揺らしていた。振りコピやコールといったものはどうも苦手で、気恥ずかしさから彼女たちに手を振ったり声を掛けることもできない、私なりの彼女たちへのはなむけとして、誰よりも体を揺らしていた。

2023年4月1日、東京八重洲のバスターミナルで私は新潟行の深夜バスを待っていた。翌日開催されるRYUTist4人体制ラストライブをどうしても見に行かなければと思い立って、会場へ向かう方法を探したのだ。
新潟駅に到着したのは翌朝6時前だった。ほとんど眠れなかったから体は重たかったが、朝早くから入れるような便利な店も見当たらず、新潟の町をとにかく歩いた。開店前の伊勢丹の前をなんとなく通ってみたりしたが、ほとんど人には出くわさなかった。万代橋を渡ってさらに北上すると、RYUTistのホームがあった。アーケード街のいたるところに貼られたポスターや企業広告に、なぜか少し恥ずかしくなった。古町を横切ると、昔ながらの港町に見られる異国情緒ある建物が増えてきた。土地の名前なのか何なのかよく分からないが、その一帯の建物につけられていた「異人池」という名になぜか惹かれる響きがあった。なんとなく「これは横浜とか神戸じゃなくて函館の感じだな。」と思った。
陽のあたたかみを感じられるようになってきたころ、海に行きついた。初めて見る日本海の光景だった。砂浜ではあるもののどこかごつごつした青黒い印象の波と海岸線に沿って松の木が点々と植わっているのが、実家から歩いてすぐにある藍ヶ江という港の景色を思い出させた。
入船の方に着く頃にはすっかり人々が行きかうようになっていた。砂浜にほど近い公園でキャッチボールをしている親子、動き始めた造船所の巨大な施設、万代島から佐渡に向けて出航しようとするフェリー、それをベンチに座って眺めている老人、いろいろ見ることができて満足した私は、駅の方に戻りバスセンターのカレーを食べた。あり得ないほど長い行列に並んでようやくありついた一杯、せっかくだからと大盛にすると、見たこともない大きさの平皿に載った巨大なカレーを一般家庭ではまず目にすることのない巨大なスプーンで食べるはめになった。
それからも、目的地への移動をすべて徒歩で済ませた私は、東京に戻る深夜バスの車内で、眠いのに眠れない苛立ちと本当に本当に素晴らしかったライブの余韻を嚙み締めることになった。

2018年4月、Twitterのある投稿に目が留まった。音楽家の沖井礼二氏が制作した楽曲を新潟のご当地アイドルが歌っているというものだった。土岐麻子、矢野博康、沖井礼二の3名からなるバンド・Cymbalsは、私がその作品を知った高校生の頃(たしか2009年辺り)にはすでに解散していたが、これまでに聴いていた音楽とはまるで違う作りをした音楽、特に沖井礼二が作り上げるベースラインには強烈に惹かれるものがあり、以降氏の作品を後追いで漁り続けていた。
リンクが貼られた「青空シグナル」というタイトルの曲をYoutubeで再生すると、出だしの1音でそれとわかる沖井礼二の音が鳴った。来た、と思い嬉しくなったところで歌が始まる。

音楽に本気で向き合っていたからこそ、彼女たちのレパートリーには数々の音楽家が本気で手掛けた楽曲が揃っていた。それだけに(今後発売が決定している作品を除けば)これから新たな音楽が彼女たちのもとから生まれることはもうないのだと思うと、寂しさが全然ないとは言えない。が、彼女たちが決めたことをとやかく言う筋合いなど、あるはずもない。彼女たちがいろいろなことを思って決めたことを受け入れて、その選択が彼女たちにとっての最善の道であると信じることだけが、私のすべきことだ。
一生モノの音楽たちが、私の暮らしをこれからも明るく鮮やかに彩り続けてくれることへの、ささやかな感謝として。

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