美術"館"——美のありかを思う
DIC川村記念美術館休館の報せを聞いた。
日経webの記事によれば、その理由は「資産効率の観点から運営方法の見直しが必要だと判断」されたためだそうだ。要するに、資本家の目で見るとあの建物はただの不採算案件ということなのだろう。それでいいのか、と資本主義というあまりに巨大な敵? が掲げる正義に疑義を投げかけたいのと同時に、その立地的条件から、あまり足を運ぶことができていなかった自分に対しても、やはり同じ言葉を放ちたい、やるせない気分になった。
「休館反対!」と声を上げられればまだいいが、私はそんな立場をとることができるほどこの美術館に行けていなかった。
手帖を遡ると、私がこの美術館を訪れたのは2017年盛夏のことだった。
この時開催していたのは「DIC川村記念美術館×林道郎 静かに狂う眼差し-現代美術覚書」という展覧会だった。美術批評のフィールドで個人的に目にする機会が多くあり、ここでは"案内役"のような立ち位置にあった林道郎氏の名前に惹かれたのと、かねて"きれいな美術館"という触れ込みを耳にしていたこともあって、訪問を思い立ったと記憶している。
本展は、当時の美術的表現の最先端でありながら、今となってはその美術史的な意義あるいは立ち位置が決定づけられてしまっている、ある種「クラシック」であるところのモダンアート(絵画)に新たな観点からスポットライトを当てる刺激的な試みだったと理解している。が、およそ7年の時間経過とともに、作品や解説文の内容、キュレーションの印象はことごとく記憶から抜け落ちてしまったようだ。当時感想や気づいたことをなにかしらの文章、せめてメモにでも残していれば少しは違ったのかもしれないが、残念ながら私の体はそこまで丁寧に暮らせるようにはできていなかった(Twitterでなにか呟いたような覚えもあるが、気恥ずかしさからとっくに削除してしまった。)。
ただ、今になってもまだ、あるいは、年月のフィルター越しに眺めることでむしろ鮮明に、脳裏に浮かび上がるいくつかの光景がある。
【光景1】
会社から日程を指定されて取得した5日間の夏休みが終わり、手元には1日分の青春18きっぷが残った。使用期限内に使い切るために日帰りの小旅行気分で遠くの美術館へ行ってみるか、と意気込んだ私は、思い付きで早朝の電車に乗り込んだ。中央線豊田駅始発の快速電車に1時間ほど揺られ東京駅へ、東京駅から総武本線に乗り換えてさらに1時間ほど、目的の佐倉駅はその電車の終着駅だった。
この時の佐倉は息が詰まるような曇り空だったが、初めて降り立った駅に私は少し興奮を覚えていた。しかし、駅前の光景にぎょっとした。ロータリーには乗降客はおろか周囲の商店にすら人の気配がなく、見渡す限りすべての建物がどんよりした薄グレーで、自分が大声を出さないと気が狂ってしまうほど、一切の物音もしなかった。
パラレルワールド?
奇妙な感覚に陥って身動きの取れない私を見かねたように、美術館行きのバスは到着した。ものの数分の出来事だったと思う。
【光景2】
美術館の周囲の敷地は大きな庭園になっていて、立派な噴水が設えられた湖や良い意味であまり整備されていない遊歩道がある。幸いにも雲が取れて青空がのぞいてきたので、展示を見る前に湖のぐるり外周を散策していると、突然目の前の茂みから蛇が現れた。
身体は小さく、木の枝のように細かったが、絵に描いたように先の割れた舌をピロピロと出しながら、悠然と私の前を進んでゆく。初めて見る蛇の姿は優雅に見えるのと同時に、手足のない胴体だけの体をクネクネさせて動く様が気味悪くもあり、見たくない感情と見ていたい感情が同時に押し寄せてくる感覚を覚えた。
後ろで夢中になっている私のことは気にも留めないように、その蛇はきた方向とは反対側の茂みに再び姿を消していった。
【光景3】
通路を挟んで本館の離れのようになった場所に、「ロスコの部屋」と呼ばれる展示室がある。詳しく調べていないのでわからないが、名前からしておそらく館の収蔵作品のひとつであるロスコの抽象絵画を展示するために作られたスペースなのであろう。ロスコはこれまでにも何度か都内の展示で見る機会があったが、この「ロスコの部屋」ではじめて、作品が突如として「わかる」体験をした。
いわゆるカラーフィールド・ペインティングのスタイルで描かれた3枚の巨大な絵が三幅対の要領で壁一面に飾られている、それだけといえばそれだけの部屋である。中央に備え付けてあるソファに掛けてどこを見るともなく何気なくその作品を眺めていたところで、ふと我に返ると、自分が感動で涙を流していることに気づいた。まるで教会の大壁画を目の前にして啓示を受けた教徒のようだった。
もしかすると眠気や疲れからくる一種のサイケデリックな妄想に過ぎなかったのかもしれないが、私はこの体験によって、芸術が崇高に接近する可能性を確信した。
【光景4】
美術館に隣接する小さなギャラリーで、地元の高校生数名による作品展が行われていた。おそらく学校の美術部で夏休み時期に例年開催している展示で、受付には白シャツにリボンを着けた女学生がたたずんでいる。何の気なしに立ち寄った私にも(おそらく用意した文言を来場者全員に同じように言っているのだと思うが)来場のお礼をしてくれ、細かくお辞儀をするたびにプリーツのかかったチェックのスカートが律儀に揺れていた。
きっと彼女たちは、年に一度ここで作品展ができることを大いに誇りにしているのだろうと思った。それだけでもいいし、それだけでなくてもいいと思った。
ミュージアムという制度の成立過程からして、作品が時に強制的に、本来置かれていた場所から引き剝がされるように、そのありかを追われてしまうのは、宿命と言わざるを得ないのかもしれない。
ただ、私を含む多くの人にとって美術館が「作品を展示する」以上の特別な意味を持つ場所であることは、たぶん事実である。あの場所はたしかに、そこでなければならない、「美」のありかだ。