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<量よりも質よりも目指すべきもの~デキる自分のひっぱり出し方>

世間では正しい仕事への取り組み方として、「量よりも質を目指せ」などとよくいわれる。

量と質、それは例えばブログ更新についてだと、

「SEO的には毎日こつこつ1つでも記事をアップし、年間360エントリーの積み上げが大事」

「いやいや量じゃないよ頻度でもない。記事の質だよ」

よく聞かれる議論、もとい愚論だが、どちらも焦点が違う。

前者のおかしさは言うまでもない。文章が、アップの頻度が、手段でなく目的になってしまってる。これではあっという間にうp主は空しくなるだけだろう。

積み上げ自体は大事なことに異論はないが、その積み上げの前提は、価値あるものに限られる。

よく言われる三日坊主になる条件が、コレである。

いっぽう後者は「質」という内容面に言及してるのでいっけん正しいように聞こえるが、「量」に対置して「質」という表現を繰り出してくる時点で、やっぱり優劣思考にからめとられてしまっている。

実は「質」などといって済ませていられる対象など、量的思考レベルのバリエーションにすぎない。

質は確かに存在する。しかし順列や比較の観点から質を評価することは、試験の点数などといった定量的なもので物事を一義的に判断する思考と、それほどへだたりはないのである。

したがって何のことはない、後者もまた無防備に、前者と同じ水平にいるだけである。このおめでたさを見えなくさせる分だけ、後者の方が悪質、とすら言える。

ここではブログの例を出したが、ここに「受験」「個性」「仕事」「戦略」「アウトプット」などの言葉を入れ替えても、同じことである。

じゃあ量でなく、質にも全幅の信を置けないとなれば、何を基準に考えていけばいいか。

答えはない。そんな安易な「基準」を求めてる限りは。

ただし量や質を超える規範なら、ある。

それは個々の「違い」である、言葉を替えて逆の方向からいうと「固有の存在」である。

さらにいえば、違いや固有の存在性を、徒然に、粛々と受け止める境地のことである。

さぁもうここからは別次元の様相を帯びる。つまりそれは「どんな形態の比較もすっとばしてしまう、あなた固有の存在」という領域である。質量や偏差値や成績、効率やマネージメントといった何かしらの尺度をもって計測することからは、オサラバする水準のことである。

とにもかくにも人間は、過去の結果や経験の蓄積だけで、今を生きてるのではない。

結果ではなく、永遠に過程である。

ヒトは意味性や時間性からかけ離れた、存在そのものである。

そこを掴んでる人を、これからはデキた人と呼ぼう。

デキた人は、そもそもいっさい比較の対象にならない。世間のものさしで計測できない。

彼彼女の瞳は澄んでおり、たたずまいも無垢である。それでいて、現実生活ではしたたかである。

デキた人は決断しない。決断という悲壮な立場にうっかり陥るまえに、自らそっと降りる。

デキた人は選択も自己啓発もしない受身人である。肯定的存在すぎて透明なほど、いい意味で消極的である。世の流れは風にそよぐ柳のようにかわしていくだけだ。

デキた人は謙虚である。当為としての謙虚さでなく、ポーズとしての謙虚さでもない。スッキリ透徹している。

デキた人は、ノーコメンテイターである。流行ことばでいうなら「気付き」も「学び」も「出会いに感謝」もしているが、そのことを、わざわざ人に「アウトプット」や「発信」しない。

デキた人を年収や肩書きなどで解釈できない。デキた人は自分の100万円に火をつけても平然としていられる。

デキた人は、ここぞというときは当事者意識ハンパなくそれに打ち込む。自分のことは全部あと廻しにしてでも。

サッカーで言えばストライカー。自分が入れるべきボールが来るまではブラブラしてて受身だが、ひとたび機会がくれば猛然と集中し、瞬間に生きる存在となる。

こーいうのがデキたヒトである。

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さて先ほど「別次元の様相を帯びる」と書いたが、生命はそもそもが目的がなく、意図もなく、努力もしない。

成長もしくは変化し、流転するだけである。

したがってここで申し上げてることはその意味からしてぜんぜん別次元でない。むしろこの認識が人生の本体だ。

明石家さんまの名言に「生きてるだけでメッケもん」というのがある。まさに、生まれてある程度以上健康に生存している現状だけでもう、りっぱに「勝ち組」である。それも途方もないほどに。

そこにひとたび気付けば、量も(量的思考に支えられた意味における)質も、損得も競争も、ぜんぶ「なんだこんなもの、ひとをおちょくって不安にさせるだけのモンが!」である。

量でもなく、質でもなく、デキたひとになろう、いますぐ。

この領域は目指すものでも到達するものでもない。すでにみんなそうなってる。

常識や数値などに含まれる計測部分、いわば世俗のアカをおとし、自分を剥いたり磨いたりすれば、すぐに出てくる。メッキの下にはリアルな宝石が隠されているのだ。

努力してそうなるんではなく、自然とそうなるんでなきゃ意味はないことも、最後に申し添えておこう。

<了>

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