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「考える」ってことは「自分の中でのQ&A」を繰り返すこと。

<まずはヒントの投入から>

生きる手段としてのヒントだったらいつだってそこらじゅうに転がってるものだ。

たとえば身近な例で言うと、辛味調味料としてもはや辛さの代名詞ともいえるタバスコ…これは世界独占である。

アメリカのマキレニーという会社が、その唯一の商標を有している。

ファミレスに行ってもタバスコは、各テーブルに1つづつというふうに、塩コショウのように贅沢には置いてない。なぜか?独占だから高いのだ。

卓上タイプの、赤い色の辛味調味料は他社にもあるが、タバスコの味はタバスコだけである。

こうした独占にはかならずほころびがある。

既定となったもの、オーソリティ化したものは、磐石なようで必ず付け入るスキがある。

そのおこぼれにあずかる方向に行くのか、対立的方向に行くのか、

それともそのいづれでもない方策に打って出るのか、あるいは何もしないのか。

あなたがどういうスタンスでキメるにせよ、ここまでは傍流である。

本流は、ファミレスの食卓に座ったときのあなたの態度にこそ潜んでいる。

タバスコだけ卓上に「ない」ことに気づき、店員さんに持ってきてもらう、そのときに「ひらめく」か、だ。

大げさでもなんでもなくその瞬間にしか、あなたと世界とのかかわりはない。

…ヒント終わり…

<意識の焦点が「ハマる」その瞬間を突け>

さていつだってぼくらの大問題は、自身の生き方だ。

生き方を切り開く武器は思考と行動だけだってのは分かっている。

だから、そのきっかけとなるヒラメキが出るまで頭を絞って考える。

そしてひらめきが沸き出でても、次にそれでどう行動するかを考えたりして、ひらめきを単発で途切れさせない。

考えなさいとはよく言われる処世訓だが、具体的にどうやって考えていくかはあまり言われない。

ぼくなりに「考える」ってことを具体的にいえば、それは「自分の中でQ&A」を繰り返すことだ。

その時、答えにこだわらない。解答は思考の一応の終着点ではあるが、どちらかというと副次的なものだ。

むしろ問いかけの方が、問題意識のありかたの方がよほど大事だ。

問 いかけの発生にまでさかのぼり、どうしてそこが不思議だと自分は思ったのか、どこの部分に違和を感じたのか、そしてそれは本当にそうなのか?別の見方があ るんじゃないか、そうやってその初源や動機を出来る限り多角的に検証する。そうこうしてるうちにシャッとピントがクリアーになり、焦点がハマる瞬間がある。そこを突く、獲得する。

商売のヒントや、ビジネスチャンスの萌芽に気づける人、商才のある人はみんなそうやってるはずだ。

しかし・・・しかし、だ。商売とは、そうそう上手くいかぬもの。

あなたが気づいたその萌芽は、不発に終わるかもしれない。

ちよっとブレイクしたとしても単発で終わるかもしれない。

またそんなニッチなブレイクをつかんでも、大した稼ぎにはならないかもしれない。

世の中はそんなネガティヴな可能性の方が大きいという因果になってる。

じゃあ今度はそういう状況に陥ったとき、どうするのか。


<アップ・アンド・ダウンの肯定性>

ここからはビジネスだけの話ではない。いやむしろ商売など問題ではないとすらいえる別段階に、話は進む。

誰でも何回かは、そうやってダメになんなきゃいけないのかもしれないのだ。そしてダメな状態を毎回引き受け、肯定する。

これは、何を隠そう今のぼくがその状態である。仕事も生き方もここのところ裏目が連続して出て、いまとても困ってる、迷ってる。今まで好調とまではいかないにせよ、堅調だった分野が、いまダメになりつつある。

しかし!大人ならどんな環境にいようとダメなままくすぶらない、腐らないで、そこから少しでも超えるための過程に賭けるのだ。一回は肯定して、落ち着いて対処し、あきらめないで、しぶとく、でもそんな自分を笑い飛ばせるような、他者視線的な軽さも持ちつつ。

その際は、自身の健康だけが最後の砦になるだろう。いまぼくは病気も抱えていないから、それだけでめっけもんである。

そう、例えばこんなふうに考えるのが、ぼくの言う「他者視線の軽さ」だ。

コンサルティング業じゃないぼくは抽象的な書き方しか許されないが、そうした「底」を超え、平野に出て再び大きく呼吸が出来たときだけが、成長の名に値する変化といえる。人は必ず成長できる。優秀な人・平凡な人・ニート、器の大きい人小さい人などの違いはない。全員がそれぞれの存在のままでコロッと、常にそれぞれの最前線にいるだけだ。

親にとっての子供、祖父母にとっての孫は、何人いようと優劣がないのと同じである。

<自己は、飛躍しかできないことになっているから心配するな>

底を抜けて地表に出る。ぼくの知る限りのその成功例としては、「ナニワ金融道」というマンガで有名な青木雄二という人(故人)がいる。

青木雄二さんは、経営していたデザイン会社を30代で倒産させてしまい、失意のどん底でドストエフスキーやマルクスの資本論を読み漁り、そこから深い感銘を受けた。

そしてその読書体験と、以前から培ってきた漫画のスキルと、アイディアと、執念でナニワ金融道という、切実にして人生の悲哀を込めた名作漫画を描いた。結果、この作品は週刊モーニングに掲載され、連載を勝ち取り、このデビュー作で億単位の大ブレイクを見事に果たした。

そのとき、青木雄二さんは44歳になっていた。

そしてこのブレイク後、莫大な経済的成功には酔わず、淡々と自分の仕事を続けて生をまっとうしたのだった。これが、ひとかどの人物というものである。

この人生に学ぶことがあるとすれば、いまあなたが、ぼくがやってることは、未来の自分が乗り越えるためだけにあるっていう希望だ。自己とは、飛躍の意識なのである。

「記録は、破られるためにある」ってのは、何もスポーツ界だけの標語じゃない。

へこんだときの対処は、外部に責任を転嫁することではない。娯楽に身をまかせて気分を紛らわすことでもない。「自分の中でQ&A」「ひらめきの獲得と持続」この繰り返しこそが、へこんだ自己を突破する唯一の方法だ。

その方法に一所懸命になることだけが、いまを十分に生きる、その様相になるはずなんだ。

そう考えて、今日を乗り切り、明日も生きて往く。

<了>

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