太陽と月
*女優ロミー・シュナイダーの凛とした横顔。画像引用:http://mamdarin.blog87.fc2.com/blog-entry-174.html
おまえはきれいでかわいい、一般的な範囲で。
たとえれば夜空に浮かぶ満月だ。
だがそれではぜんぜんだめなのだ。そこにとどまっていては。太陽になるのが本筋だ。
そうお前は月から太陽にかわることになっている。
人間はそのように既定されている。はじめっから。
社会は世間は、たいていしょうもないもの、ぺらっぺらのものが渦巻いてる。その既定をにごらせてるものばっかりなのだ。そんなものの影響を受けてはいけない。
確かに月はまるっとしてて、コリッとしてて、剥き出しのかわいさがある。周囲も暗い分、浮かび上がっててわかりやすい。
だが月の「輝き」は、自前で用意したものではない。
それは太陽に「照らされている」だけだ。
輝いてるようにみえてるだけのものなんだ。
おまえでいえば容姿、化粧、ヘアースタイル、トレンディーなファッションに相当する。
また学歴、偏差値、正社員地位、年収にも、相当しよう。つまり、世間である。
触発され、ぶちあたり、関係の中で磨かれる。自己否定の連続という煉獄の先に、かろうじて掴むか細い可能性こそが、自己肯定の本体だ。それ以外の肯定はまやかしである。
世によく言われる「自分らしさ」など追求するな。
自我の内側にあるとされている「自分らしさ」など、まぼろしだ。自意識の中には自分はいない。
それはしょせん自分の外側の概念、ワナビー小主観にすぎない。
むしろ自分の重さを知って支えよ。重さに耐えられなくなって一歩踏み出すとき、その一歩が新たな獲得である。
こうやって自分の内面に最初から備わっている、発光体の部分をどんどん大きくしろ。
お前の手だ指だ。体のすみずみに永遠が宿っている。
無限のかたまりである自分、昨日までの自分は古典だ。
自分の中にある客体を意識することこそが、発光体のコアだ。
月が太陽にかわる。すると歩くだけでまわりをとろかすような、自前100%の美しさに到達する。
月の付加的後天的な「輝き」は、ここにきて駆逐される。
地上に太陽が出現した。あまりにまぶしく、あまりに熱く、一切の鑑賞も干渉も許さない孤高の、それでいてよそよそしさも他者攻撃性もゼロの慈愛体。
太陽はいっさい比較の対象にならない。他に類似がない。
だから一般の概念などハナから問題にならない。
いままでの容姿の悩みなど、性質の違いに過ぎないと一蹴できる。
そしてなにより、隣の「月」を照らすことが出来る。
そのうち彼彼女を太陽に変貌させられるかもしれない。
まいにちが祝祭で慶事。会う人会う人みんな太陽。たった一晩で、輝くような美しさに変貌することだって、可能なのだ。
ぜんぶ、お前の中にあらかじめ準備されてるコア。芽吹くのを待ってる結晶体。そこにしかお前の本体は無い。
<了>