【書評】週刊文春のメリー喜多川副社長インタビュー ~バック・トゥ・ザ・封建~
ジャニーズ事務所 - Wikipediaより*この質素な外観に、当初は驚きを隠せなかった。
例のSMAPとジャニーズの騒動は、かなり落ち着いたように見受けられ、2月に入ってからは冷温停止状態のようである。
あの騒動は、もともとテレビも見ないし、芸能に疎いぼくでも、ジャニーズにちょっとだけ詳しくなれた、そんな貴重な経験だった。ネットの草の根パワーも感じられたしね。
しかし事態は元の鞘に収まりつつあって、おとがめなしの手打ちも済んでしまってあとはフェードアウトでチョンか。つまんなくなったな。もう遊んでくれないのか。
そこで、ここからは不肖ぼくが、この問題をムシ返してみたい。ぼくは腫れ物に触ったり、不要なちょっかいを出すのが大好きな性分なのである(←性格悪い笑)
騒動の詳細は省いてかまわないだろう。もう誰もが知ってる展開である。
ぼくがこの騒動で気になったのは2つほどあって、取材は1年前になるが、週刊誌におけるメリー喜多川副社長の放言の中でも、「わたしはこう言いますよ」という発言への違和感がまずひとつ(インタビューは電子書籍版で全文読んだ)
そしてもうひとつ印象に残ったのは、初めて見たジャニーズ事務所の建物の、殺風景で地味なたたずまいであった。
今回のエントリーでは、この2つの個人的印象から、ジャニーズ事務所の、あるいは日本的芸能システムへの、ぼくなりの考察を書いてみたい。
多くの人が今回の件で、メリー喜多川副社長とは巨悪であり、その封建的で閉鎖的で排他的な恐怖体制を批判してるが、件のインタビュー全文を読んだ結論から言うとぼくは、これはこれで認めてあげたいのである(やさしいけど偉そう笑)
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まず、メリー喜多川副社長の「わたしはこう言いますよ」発言について。
このまるでメンチを切るような口上に続いて、報道その他によればSMAPと飯島マネージャーに対するご存知の、事実上の絶縁宣告が始まり、騒動の直接的なパワハラ口火が切られたのは、いまではもう伝説である。
ご丁寧に発言の最後も「と言いますよ」で締めくくっており、ちょっと発言に含みを持たせてる(ようにも読める)
このメリー喜多川の口上を初めて読んだとき、「これはまるで昔の合戦の"名乗り"みたいだ」と思った。
名乗り、それはあの「やぁやぁわれこそは、音に聞こえし…」という口上。
双方が姓名や家系を名乗り終わるまでは攻撃しないみたいな、武士道的なあの作法のことです(ホントに戦場でコレやってたのかどうかは疑わしいとも思ってるけど)
または前世紀の前半までは西洋で行われていた「決闘」や、日本にもかつてあった「果たし合い」における、立会人の宣言みたいな感じか。
そう、このメリー発言には微塵もないのである。なにが?民主主義の論理が、である。
あるのは、閉鎖的で陰湿な服従圧力や、不条理で理不尽な強権叱責であって、そこではファンや世間の存在は無視されている。その意味で世の批判者の意見は正しい。
また、自分の娘を後継者として最優先させる意向も同記事内で何度もはっきり述べており、ここも実に明快に、世襲システムの表明であり、民主的な価値観とは軸足を異にした、親族経営、同族尊重へのゆるぎない志向性がうかがえる。
血縁のない従業員とは、ハッキリと一線を引く主従関係の倫理である。
ここらへんまでは多くの識者(?)も指摘している通りだと思う。
ただ、後にも述べるが芸能界は人々の情緒をすくい取るのが本業であるので、その点に秀でていれば、世襲ぜんぜんOKという気がする。いやむしろ、世襲という昔気質のスタイルの方が、その点ではなじみやすい気さえする。歌舞伎とかのようにね。
(ああ!あなた娘さん!いやぁ副社長のお母さんには昔からお世話になってましてね…いやさすが似てらっしゃいますな、お声までウリ二つだ…なんて商談でのスムーズな雑談が、目に浮かぶようではないか。そしてこの導入部分でもう「商談」は、おそらく半ば成功したも同然であり、世襲の多い異業種、例えば政界でも、それは同じような展開が予想できて、しかも筆者は特にはそれ自体を否定しないのであります)
またもうひとつ言えることは、会社とは元々「理不尽なもの」であるということである。なぜならそれは、民主主義や仲良しごっこで運営されているワケではないから。
会社はご存知のとおり利潤追求の組織であり、上位者の気分や、状況への"賭け"でしばしば運営される。そしてブラック企業は世の中からなくならない。
サラリーマンはひところは企業戦士などと呼ばれていて、そう言われた当の本人たちも愛社精神を支えに忠誠を誓い、24時間奉公精神でがんばっていた。
つまり労働者だって情緒が原動力だった。
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さてメリー副社長の「わたしはこう言いますよ」という表現についてはもうひとつ、別の角度から思うところもあって、それは、この言い方だけみると日本語の口語としてはどうも不自然だ、という違和である。
英語なら「I'd (would) say~」と言ってから主張することはあるが、日本語の話法では、先に自分から宣誓して会話を切り出す様態は、あまりなじみが無く、妙に新鮮である。
メリーさんはアメリカ生まれで、日本語と英語のバイリンガル。
ウィキによれば日本に定住したのは1957年みたいだし(その前にも戦争などでちょくちょく日本に来てたみたいだけど)、件のインタビューを読むとご高齢でありながらカッカしやすい性分でもあるみたいだ。しかし頭はしっかりしてそうなので(ゴメンね!)、当たり前だが日本語力には何の懸念もない。
(激しやすい性格のため、あのインタビューも文字に起こすと文意が破綻してたり、主語がわかりづらかったりする部分がままあるが、これはまぁどんなネイティブにもあることである)
その彼女が「わたしはこう言いますよ」と、やや不自然な話法で切り出すのは、以下のような心理で考えた方が自然ではないか。
それはひとりの人間(マネージャー。それも多大な功績のある人)を、そして国民的グループを切る、それも記者という第三者を前にして宣告する。
どんなに激高型人物であっても、その前にはやはりどうしても「こう言いますよ」とでも前置きして、"気"を充溢させる必要があったのではないか、と。
それなら分る。ぼくらだって何か意を決したことをいうときは、相手との位相を慮りつつ、「はっきり申し上げて」とか「お言葉ですが」とか「ぶっちゃけ」などと発言しながら間を置く。
そのメリー版が、彼女のもうひとつのネイティブランゲージである英語における、宣告の話法「I'd (would) say~」からの拝借ではなかっただろうか。
英語話法ではあっても、そこにはさっき書いたような一種の気合いのような、つまり英語圏の価値観にははなはだ馴染まなさそうな精神が感じられるのであります。
そしてこれもまた、民主主義には見られない、理不尽なまでの「断罪」なのであります。
(この場に居合わせた記者に、そのときの状況を逆インタビューしたいくらいなのは、ぼくだけではないであろう。記者の名前は明記されていないが、このメリー喜多川インタビューについてだけでも「手記」を出してくれないかな。元々は5時間近い内容だったって言うし。そしたらベストセラー間違いナシだよ笑)
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さて話が長くなってきたがガマンしながらでも読んでくれてありがとう。
じゃあここらへで次のテーマにいこうか。
ジャニーズ事務所の建物の問題(笑)である。あの殺風景で地味なたたずまいには実は潔さと、懐かしさを感じたのが正直なところである。
ジャニーズ事務所なんて、この騒動以前のぼくなら"旧悪"のイメージしかなかったので、他の大企業みたいに、高層ビル丸ごと自社物件で、建物からして威圧感のカタマリを想像してたのに、あんな質素な事務所だったとは…
あの路地裏立地の昭和な感じ、車道まで延ばしたランウェイ(とでもいうのか?)にかかった水色のシェード。
3階建てでこじんまりとしてて、まるで地方都市の個人経営ビジネスホテルみたいなファサード。
騒動のピーク時でも警備員が一人いれば対応できそうな規模…
いやあんなのは傀儡(かいらい)であって、ジャニーズは他に不動産とかの含み資産をいろいろ持ってるだろうとは容易に邪推できるし、ジャニーズ以外だと華美で瀟洒(しょうしゃ)な建物の芸能事務所もあるんだろうと思う。
確かに芸能事務所の資産はタレントという「人」なのだから、統括する事務所には、建物としての最低限の機能さえあればいいという、そんな割り切りにもとれる。
そこらへん気になって、他の芸能プロダクションの本社も検索してみたんだけど、
田辺エージェンシー
渡辺プロダクション
バーニングプロダクション
ケイダッシュ
アミューズエンターテインメント
どれも意外に質素といっていいたたずまいである。そしてジャニーズ事務所の外観は、一段とさりげないように見える。
能ある鷹はツメを隠す、という格言があるが、その実態版がコレだという気がする。
歴史上、大邸宅や要塞、万里の長城といった、護衛や防犯などのセキュリティで守りをガチガチに固めるものが長持ちした例はない。本当に偉い人や人徳者は、いつだって質素さと共にある。
メリー喜多川副社長のインタビューを通読すると、彼女には所属タレントに対して、包括的に、かたよりなく接して育てる方針があるみたいだ。それは「お年玉は全員に」とか、「わたしはうちのタレントは全部「うちの子」と呼ぶ」といった発言に現れている。
これは平等というよりは均等なのだが、メリーさんなりの"平等"行為ではあるだろう。
タレントに対しては、同族の意識で接するのが基調のようである。スタッフや経営陣、社員に対するのとは違う慈悲を持っているようだ。単なる印象だがジャニー社長は男性であるけれど女性っぽいソフトさがあって、姉(メリーさん)の方に男性っぽい気骨が感じられる。
この辺の按配が、采配のカナメなのかな。
そしてメリーさんもジャニーさんも、事務所の建物的付加価値や飾り立ては、たぶん信じていない。
信じてるのは人だろう。
だからこそ彼女は派閥や分裂といった言葉に敏感であり、建物など、どうでもいいに違いない。また温情には人一倍反応するがその反面、礼儀を欠く行動に対しては怒りの態度を隠さない。
ということでこれまで見てきたように、封建主義的価値観というか、儒教のプリンシプルを、ジャニーズという特区を設置して復権させ、かつ、そこで長年貫いているのがメリー喜多川さんである。
さすが89歳にして、まだまだ胆力旺盛な女傑だ。
件の女性マネージャーも業界では恐れられてる存在らしいけど、メリーさんとは貫禄が違うようである。
あのインタビューから、その迫力の落差は読み取れた。取材記者の創作でなければ、の話だが。
メリーさんは儒教に関係ないアメリカに生誕していながら、高野山真言宗米国別院の僧侶の娘だけあって、そのマインドはサムライのようである(想像だけれども笑)
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さて考えてみれば、民主主義の自由、博愛、平等、権利といった価値観は、どうもひ弱で後付け的で、画餅的である。とってつけた感が否めない。
なぜか?それらはフランスで生まれた舶来概念であるという理由もあるがそれだけではない。
自由、博愛、平等、権利は近代以降、特に日本では敗戦以降、自分の外にある外様概念だとされているからである。つまり生来的に誰もが有しているあるいは与えられているという説明になってはいるが、実際には縄文時代あたりからの歴史を想像すると、ちょっと違うとぼくは思っている。
自由や平等、博愛精神は確かに尊いだろう(権利はちょっと被害妄想的な感じがしてここでは外す)。そしてそれらは自分の外部にはじめからあって、そこからもぎ取って獲得する意味合いが強いが、ホントはそうやって得るものではなく、ましてや制度から自動的に付与されるものでもないはずである。
じゃあどうやって獲得してくるのか?実はそれらは獲得するのではなく、生み出していくものだ。
自分を新しい自分が乗り越えていったり、失敗したりしながら前進して、育んで、そうして自らが自力で、自分の中から引っ張り出して確立する境地に違いない。周囲の社会制度がどうであれ。
要するに自由、博愛、平等は、自身の態度の改善、他者との関係の前進、自我の目覚めの中に具現していく、そんな到達概念である。
よそから取ってくるものではないのであるし、選挙権のようにある年齢に達したら自動的に与えられるものでもない。
牢獄の中に閉じ込められていても"自由"な人は自由であるし、ほとんど制限を受けない社会生活を営んでいる人でも、囚われし人のような生活者はいくらでもいる。
むしろこんにちでは、この後者の占める割合が9割であろう。自由だけでなく博愛、平等に関しても同様である。
それにたいして血縁地縁、情緒、お涙頂戴、浪花節、恩義、奉公、義理、礼節、分際、といった、従来の観点からは非民主的に捉えられてきた、いわゆる儒学的価値観の中には、全部とは確かに言えないが謙虚な部分もあって、その謙虚な部分の公理実践は、本当に血肉の通った、実感としての自由、博愛、平等への到達に有益であるように思えるのだ。
なぜかというと、礼節などを通して自分を律することによって自己を磨き上げるのは、自分を開く思考に資するからである。
それは例えば子供が、正しい箸の持ち方や美しい食事の作法を親に叩き込まれることによって、ある種の秩序を食事の場で形成し、同席する相手にも不快感を与えず、その中で相互監視することで自分が徐々に形成されていく、といったことである。そこでは「どんな箸の持ち方をしても個人の自由だろうが」という意見の方が実は横暴であり、"自由"を謳いながら結果としてその人を自意識過剰な「不自由」に、みにくく貶める。
芸能の話に戻るけれども、この後半部に掲げた儒学的なるものこそが、アイドル産業や芸能全般の仕事内容に通底している価値観である。
ぼくらは喜怒快楽といった感情で、バラエティーを、映画を、ドラマを観ているはずである。
とすれば、ビジネスとしての芸能業界では、初歩のマネージメントとして、先輩楽屋の挨拶廻りや、頭を下げることや、よろしくお願いしますと連呼するなど、謙虚に顔を売っていく方法論を徹底していくことが基本になるのは、当然のなりゆきのように思える。
そしてその方法論を実践するための、いっけん封建的で体育会系的な、規律と統制を旨とする鬼軍曹スタイルのスパルタ式教育は、実は何よりも本人のためになる基礎訓練である。
先輩の顔を立て、かわいがられ、重宝され、やがて自身も面倒見のよい性分として、業界の中に居場所をつくってゆくのが、あの世界では立身出世の通例ではないのか。
そして仕事に関して言えば、ぼくの持論だとモノ属性ではなく、ヒト属性を志向するそれが正しい。
モノ属性のビジネスは必然的に大量生産と大量廃棄の消耗戦を導くが、一方ヒト属性はそうした消耗のサイクルとは別次元の、永続性を秘めたものだと思う。
つまり他者に個別に、時には心情的に寄り添いながら、自分の問題として引き受けながら推進していくのがホンモノの仕事に結実すると思ってるから、ゆえに芸能界というのもまた、真の仕事をはぐくめる環境であろうと思う。
先に書いたように芸能は、まさにそのヒト属性をうまくすくい取ることに本質があるような気がする。
(というよりもまぁ、芸能界のみならずどういう環境にいようが、誰でも本物の仕事を確立できるはずである、という言い方が正しいのだが)
アイドルを応援したいとか会いたい、同じ空気を吸いたいとか、何かしら共感を呼び起こす幻想をファンに芽生えさせるのが、イマドキの芸能のキモである。
「世界にひとつだけの花」という、いかにも説教くさいが共感だけはあおる曲をたくさん歌ってたくさん売って、それをメシの種にする。それが芸能の世界である。それはそれでいい。
芸能界とはけっして世間で喧伝されてるような伏魔殿や、有象無象の跋扈する、闇の巣窟ではないだろうと推測する。あの業界にだっておそらくは醜悪な部分はたくさんあるだろうが、それはぼくらの世界も同じであるし、ひところ話題となった大塚家具のお家騒動とか、世襲の政治家、議員たちも、ダークさという点では芸能界と同じ質の暗さを有している。
結局は同じニンゲンで構成された小分けの社会である。誰も最初から醜い世界を目指してるわけではないのである。
こんな混乱した、すっきりしない世界で、唯一原理にできるものそれが儒学的価値観、たとえば礼節など、ではないだろうか。
今回のジャニーズ問題に関して、例えばアメリカの開かれたエンタメ界と比較して、その管理体制のおぞましさを非難しつつ、このいわゆる儒学的な価値観を見下すことはたやすい。
また、その前近代的な体質、恫喝や服従、理不尽さ、けじめ、しめし、スジ道といった世界から、ジャニーズをヤクザの系列になぞらえ、唾棄する論調もあった。それも分からないでもない。
が、礼節は、儒学的規律は、繰り返しになるがこの清濁併せ呑んだ世界でひとりひとりが活路を見出していく、殊勝であり賢明な、ひとつの方法論でもあると考える。それはおそらく、地域も、時代も、民族も超越するだろう。
それは米国人の合理一辺倒とも違う態度であり、またヤクザといっても、それは古きよき時代のそれ、すなわち着流し姿の侠客(きょうかく)、博徒、渡世人、無頼漢の方であり、そこには信義、仁義、禊(みそぎ)、契りといった土着の倫理を濃く是認させるものなのである。メリー喜多川は、その象徴である。
彼女を脅威に、権威に感じるのは、つまり彼女が野太い封建矜持そのものであるからだ。ちょうど自由とか平等、博愛を、その獲得の困難さをよそに声高に語る風潮が、時として痛々しく感じられるのとは反対に。
そしてぼくたちはメリー的なるものを全否定できるほど強くないし、否定する必要もない。
むしろ、ぼくなどはそこに学びたい。
やや飛躍するがこれからの世界は、民主主義の平明であるが後天的な価値観と、儒学の持つややウェットで、前時代的ではあるが先天的ともいえる道徳の世界との、実践的止揚が求められているような気がする。
そしてそれは日本的なるものの土壌において芽生えやすい、日本にしかできない日本式人民主義の誕生になりうる予感がするのである。
故事に「水清ければ魚棲まず」とある。
例えばFacebookのような、ほぼ一点の曇りもない、西洋式に合理的でドライなガラス張りのSNSよりも、LINEやmixi、匿名OKのTwitterのように、"適度にクローズド"なSNSの方が支持されやすい日本の風土には、ホンネと建前の二層構造を孕みつつ、えっちらおっちら何とかやっていく、そんな思想が底流している。
そう考えるとメリー喜多川は、アメリカ生まれのあらたな孔子なのかもしれない。いやそれはいいすぎだな笑。
<了>