しくじりや、失敗が有用に転じるとき
<アフィリエイトがついに失敗した。収入の激減にどう対応するか>
ぼくは本業とは別に、アフィリエイトをはじめとしたいわゆるネット副業をやっている。
アフィリエイトの運営方法は、(これは持論になるが)おおまかに分けて2種類あって、ひとつはコバンザメ型(世のはやりにのっかるタイプ)と、提案型(世にないもの、少ないものを創出する方向)がある。
前者は短期に成長できる可能性がある。しかし凋落も早い。コモディティ化、消耗戦になりやすいからだ。
後者はオリジナリティで勝負するので、成果獲得には時間がかかる。が、うまく構築できれば息は長い。
ぼくの目指すのは完全に後者で、いままでも自分でマーケットを創って、というか既存の世の中にいある隠れたニーズを引き出してネットビジネスをやってるつもりだった。そして実際月15万円くらいの副収益になっていた。
ところが、昨年末、その歯車が狂った。運営サイトのシステムが壊れて機能しなくなったのだ。あわてて修復に取り組んだが、回復まで2週間かかった。
そして満を持してサイトリニューアルオープンしてみたら、元からのお客さんが寄り付かなくなっていた(アクセス解析等で、結構分析できてしまう)
ぼくは以前、自分のブログで「自分の居場所のつくりかた」というエントリーも書いてて、そこで説いていたことは要するに自分の場所をつくるには自分を見つめ、自分の内部を細かく分けることなどが必要ということだったのだが、それをもう一度やらねばならないことになった。
この空白の(たった)2週間で、ぼくが自分で創ったと(不遜にも)思っていたマーケットは、実は砂上の楼閣であり、世間の気分や変化に、簡単に流されてしまうものだということがハッキリわかってしまった。また、その2週間の間に、競合サイトが現れたのも、アフィリエイトというスタイルの中では大きな影響があった。クリックの奪い合いになるからだ。
そしてその空気の変化、すなわち今までのように売れなくなっていくであろう雰囲気が、その空白の2週間のうち、実は自分でも肌感覚でわかっていた。ネット空間のことではあっても、「分かる」のだ。そして残念ながらそれから3ヶ月たった現段階でも、売り上げの回復はできていない。
調子にのっていたのかもしれない。市場を見る目が濁ってしまっていたと反省してる。
仕方ない。もう一度オリジナリティのある「自分の居場所」を、再度つくっていくしかない。
幸いアイディアは他にもあるので、当面はそちらのアイディア方面を、ぼちぼちやっていくことにした。
そしてそれは幸運にも早期に芽を出しつつある。
<しくじりや、ダメになることが有用に転じるとき>
さて今回の記事でここから論じていきたいのは、この失敗談そのものについてではない。
これだけなら他山の石として受け取ってもらっていいし、何ならザマーミロと笑いものにしてもらっても構わない。
ここで申し上げたいのはそうではなくて、世の中でよく言われる時代の流れ、変化のスピードなるものの中には、その流れや変化を創った当事者でなければ感じられない部分があるってことなのだ。
特定の場の雰囲気が、(例えそれがヴァーチャルなネット空間であっても)退行していく、変容していくのを感取することは、偉そうに言ってしまうが自分で「達成」したことのない人にはわからないだろう。
ぼくの場合は冒頭で申し上げたように月15万円程度(売上げはその10倍くらいになるのだが)の、まぁ小さなマーケットをつかんだ程度でしかないのだが、そんな小さなレベルであっても、自分の仕事や食い扶持に数年の間昇華できた、その本人(=ぼく)こそが、同じ市場の散逸、希薄化、もしかしたら緩慢な終焉などなどに、敏感でいられるってことなのだ。
こう言うと、そんなの当たり前のことだろう。お前しか関わってないんだからという意見もあるだろうが、ぼくにはお客さんがいて、うまくいってるときにはつながっていたのだ。商売の舞台がネットであっても、その関係性はよくわかっていた。
商売とは、はじめからしまいまで、すべて人対人の行為である。手段も時代も超越しているのだ。
うまくいくコツなんて誰にもはじめは分からない。だから世の中にはマーケティングやら市場予測、コンサルティングやシンクタンクといった専門職があって、数字やアンケート結果やweb解析の内容を、統計学や確率論を駆使して読み取ろうと必死である。そうやって過去の現象の意味を、未来の予測を、とにかくつかみたがっている。
が、やはりそれらにはやはりどうしても限界がある。それは部外者の研究的・間接的な態度だからだ。
ほんとうに「つかんでいる」のは、繰り返しになるがなんといっても創業者であり当事者である。自分でマーケットをつかんで育んできた人だ。
封建的で感覚的だが、ここでは「気」や「勘」、「第六感」や「ワンマン経営」といった、数値化できないもの、根拠もエビデンスもはじめっから示せないものが、めっちゃ重要である。
またその次に、これは負け惜しみで言うのでははなく、何かしら自分なりのものを真に作り得た人に対してだけ、「それに失敗する」というのが「栄誉」として準備される。
なぜそんなものが栄誉と呼べるのか。それは失敗が「下手を打つ」という意味でなく、次への跳躍になるからである。そしてその次の跳躍こそが、一皮も二皮も剥けて磨かれたホンモノなのである。
そして失敗の渦中ではその栄誉にまったく気づかせてもらえないからこそ、その栄誉が後にますます光るのである。ここらへんは、ぼくのちっぽけな体験上でも、断言できる。
キレイごとを述べてるだけのように聞こえるだろうか?
そうだとしたらそれはあなたが、自分独自で始めた何かに、本当に挫折した経験がないからだ。
<自分の内的変化に敏感であることだけが、自分の充実>
いまから40年前、ケイト・ブッシュという、それはそれは天才的な女性歌手がイギリスからデビューした(いまでもいるが)。この人は何しろあふれんばかりの曲想と、誰にもマネのできない変幻自在な歌唱力をもち、しかも超がつく美人でしかも当時19歳とかだった。
明石家さんまの「恋のから騒ぎ」のオープニング曲アーティストといえば分りやすいか。
この天才歌手ケイト・ブッシュが20歳くらいのとき、インタビューでとっても印象的なことを言っていた。
「今日と昨日とでは、私の中にはっきりとした違いがあります。皮膚から何から新しくなっている」と。
自分が自分でありつづけるだけで何かへのチャレンジなんだと感じられるその感覚。
それは、怠慢でも受動でもない。挫折への肯定性を持ってる人だからこその感性なのではないか。
もしくは自分の「剥け」がわかる、尋常ならざる感受性の持ち主か。
いづれにせよ、これが「栄誉」だと思う。
外からでは分からない自前で築いた栄誉ほど、自分の糧になるものはないのである。
だから、ぼくはいくら失敗して人に笑われても構わない。これはチクショウめ!とか、今に見てろよといった反骨、反発心からの真情ではない。逆だ。
きみも、はやく何かやって本当に失敗して凹んでしまって、嘲笑されてしまうのを勧める。
それが明日の活力になるよ。
ただしそうできる条件があって、それはぜんぶ本気で、全力で取り組まねばならないってことだ。
さもなければ失敗も自己満足的に半端になるので無効、いやかえって有害になる。そこらへんに気づくかどうかが次の分かれ道だろう。
いづれにせよ、はじめなければ、はじまらないのだ。
<了>