時間に対する態度とは?
<時間は人を縛るだけのものか>
いきなり唐突だが、とにもかくにも、ぼくらは時間の奴隷になっている。
この問題について考えたい。
10年ひと昔、なんて常套句も、もはや陳腐であり、体感では15年でもあっという間に過ぎるもの。
ぼくにとって2001年など、ついこの前のできごとである。
(本当はもっと言うと自分の幼稚園時代だって、45年前なのについ昨日のような気がする)
いま、20代の若い人と話すと、47のぼくなどは雲上人のように扱われるが、20年くらいはあっという間に経つよというと、そうでしょうねと答える
そこまでは分かってるらしい、彼らも。
しかし、人の意識は普遍をかこっている。普遍だから時間の観点からすると永遠なのだ本当は。
時間や年齢などは、移ろい、めぐり、経過してゆくだけに決まってるではないか。あなたの若さは日々失われ、一方新人は次から次へと、引きもきらず登場する。年を食ってよくなるものなんか何もネェ。そんなのは当然だ。
だからその意識を逆手にとって、態度として「時間はシカトしてしまう」のを提案する。知らんという様子でいるのだ。
生活に必要な時間の扱いを除いては。
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そういう態度を確定するための第一歩がある。それは「昔」という言葉を意識的に遣わないことである。
昔という言葉を遣った瞬間、そこに詠嘆と感傷が含まれてしまう。
日本語は豊かな意味世界を内包している言語だが、時としてこのような自縄自縛のトラップが潜んでる(「趣味」なんかもそう)
「昔」という単語は人の意識を懐かしさの中に逆行させるワナであり、自分で自分に退行の呪文をかけてしまうことになるのだ。
それでは過去のことを話すならどうするのがよいか?言葉としては「以前」や「前」がいいが、もっといいのは何年前、西暦何年などと具体的に示すにとどめることだ。
そうすれば余計な私情がさしはさまれず、時性が、本来そうであるべき「時の刻み、刻印」以上でも以下でもないドライな地位に、とどめ置かれることとなる。
こうして「昔」ということばから自動的に導き出される私的なるもの(自慢とか想い出話、郷愁)や、聞き手へのベターッとした依存、解釈の誘導を、「昔」を遣わないことで抑制し排除し、脱ぎ捨てることができる。
こうやって過去の出来事を相対化の餌食にしてしまえ。
そしてさっき言ったように時間などほっておけ。時間に付き合ってるとロクなことにはならない。
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さて昔という言葉が出たので、同じような意味の過去という言葉について、今度は別の角度から考えてみる。
過去も縛りだ。過去をみつめるだけに費やされた自分がいるとする。
そうするとひっきょう「過去の結果」としてだけの今の自我に目が向く。
そんな人が昔も(あっ!遣ってしまった笑)今も、いかにも多い。
こうなると「過去の結果=自分の今」が固定観念となって心の中に沈殿する、過去の結果として自分がある、とだけ考えるようになる。
しかもこの認識がポジティブな様相すら帯びるときだって、往々にしてある(今の自分があるのは、あのとき苦労したおかげ、とか)
この態度はしかし反面では、現在における自分の可能性を否定し、過去のせいにすることで自分を釈放してるように見えてその実、今の自分を留保というナワで縛っている。
そしてそれだけならまだしもだが、実はそれだけに終わらない。そういう人は状況が思い通りにならないと、すぐに被害者意識におちいることが多いのだ。
いま、世の中はそうした被害者意識でパンクしそうだ。保育園落ちた日本死ね。
確かに他律的な過去、つまり一般歴史や伝統、先祖には一定の重要度はある。
だが自分の確立ができてないと、それらの大事さの受容も評価もできないではないか。
あなたは自分の過去の隷属者ではない。人と時間とのかかわりは、刹那という点・ポイントと、単純で退屈な持続運動の中にしか存在しない。現在・過去・未来は、等しく永遠の中にある。
キャリアプランやクリエイティヴ・ワーク、生きがい探しや自分を見つめる旅などは、ないものねだりの寝言である。
「今」を次々と射止めていく。
目前にある関係、その獲得と育成と充実に的を絞った活動にいそしむ。
そしてそれらを粛々と繰り返す。
具体的にいえばしっかり相手と向き合う。幼児でも、猫でも。
食事はしっかりしたものをよく噛んで味わう。
相手のニーズにしっかり応えた、充実した仕事を行う。
掃除や洗濯をしっかりこなす。夜は入浴してしっかり休む。
昔も過去も、ふだん省みるヒマがないし、実際考えたこともない。
こうした態度が「今をしとめること」になるのである。
この態度を繰り返せば、あなたの中の「普遍」はおのずと静かに埋まってゆく。
過去でない、未来とも違う。
生きる現場とは、今の淡々とした連綿さを吟味すること。そこにしかない。
<了>