2回目の感動は、なぜ初回より薄まるのか?
*太陽が太陽であることに飽きたときを想像してみよう。
ふと巡り逢った表現や存在に、一瞬で心奪われた経験は、誰しもあることだろう。
音楽、文学(ことば)、映画、絵画、ハッとさせられるもの。それらに導かれるように自分の意識が刻々と開かれていくのが自覚できる。そんな鮮烈なトビラ。
表現の肯定性に明るい気持ちになる、そんなすばらしい覚醒は、頻度の差こそあれ、誰でも身に覚えがあるところだ。ありていの言葉で言えば、感動である。
しかし、その覚醒をもう一度味わいたくて、それに再度触れにいくと、なぜか最初の時ほど心に響かない、刺さらない。
なぜだろう?いつまでも甘い酒に酔いたいのに、一度きりで醒めてしまうのは、少し酷なのではないだろうか。
またそれ以外にも、例えば往復経路で往く時より帰り道の方が距離も時間も短く感じられることがあるが、それも同じ現象という気がする。
反復の経験の効力は、かならず、しかも急速に色あせていく。
どうしてなのだろうか。不思議だ。
考えてみたが、そうなる理由は2つほどあって、まず人間の記憶と忘却には周到に織り込まれているメカニズムがある、ということ。
つまり記憶にはバックアップ領域がしっかりあって、2度目以降は記憶と感性の呼び出しが速いこと。そして有機体における「速さ」は、それと引き換えに必ず性質を置き去りにする。だから、2度目以降の感動は浅い。
そしてもうひとつは初回の捉え方の中にある「何か」を越えるため、人はいちど意識が弛緩される、つまり飽きる仕組みになっているのではないか、という予感である。
<「感動」は乗り越えるためにある>
初回の感動の正体を考えてみると、自分の外の対象に関し、感性の回路の「開き」や「角度」が、その対象とピタッと「合う」ときが、初回の感動である。
だが2回目以降は対象側が同じなら、人は毎秒変化するので自分側の回路は前回とは必ず違っている。したがって初回のようには「合わ」ない。簡単に言うと飽きてくる。
対象と意識の相対性理論、感性までも変質させて取り込む記憶の貪欲さ、それが「旧い自分」を照射する。もっというとそれは自分の中の別の自分を浮かび上がらせる、ほんのちょっとした魂の動きなのではないか。
お約束の感動に象徴される、固定化された関係性。そこから脱皮したがっている、別の自分のほんのかすかな示現。
いまのあなたは以前のあなたを越えてる存在であることの示唆、それが感動の薄まりという現象なのではないだろうか。
ここで出てくる「別の自分」とは、すなわち「希望」としか思えないのである。
<倦怠にひそむものはなにか>
ものごとに飽きること、倦むこと、冷めてしまうことは、いっけん単なる退屈と同義であり、ともすればネガティブな感情である。ここにメンドくさいなどを加えてもいいだろう。いづれも効率主義やマジメさと折り合いが悪い。
だが本当はそれらはネガティヴなのではない。そこには可能性がある。人が何かを創出していく土壌になりうる可能性が。
人間はマイナスなもの、負の方向の性能は、本来備わっていない。前進するか変化することしか、できない。
2度目以降の経験は蓄積であり、慣性への参加である。
既視感は宝、反復は解放への助走。マンネリズムは飛躍の可能性をつねに秘めている。
生物の進化はすべて、倦怠が母体だ。気の遠くなるような年月の間、それでありつづけてありつづけてもうエエ加減飽きて飽きて疲れ果てたとき、突然変異という裂け目が生じる。
海がそうだ、水がそうだ。種子がそうだ。
The sea refuses no river. -Pete Townshend
ぼくら全員が持つ倦怠という感情は、人間という種の意志における尖兵である。
どんどん飽きていこうではないか。飽きを、空きを、開きを、見つめて、対峙していこう。
ひるがえればいま社会にあふれているものは99.99%「ヒマをつぶす」作用のものでしかない。それらは目隠しにしかならないものだ。
「感動」に飽きよう。それは、たぶん次への準備だ。
<了>