アクティブ半生紀#02 新社会人〜リース会社への出向
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【連載「アクティブ半生紀」について】
FOSC理事の岡田さんに、今までのキャリアについて語っていただきます。
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新社会人スタート!
『日本興業銀行』から社会人生活をスタート!
私は、倉敷市で生まれ、父親の仕事の関係で和歌山、川崎に移住し相模原市で社会人となって今年で42年目となりました。
1979年に、立教大学 経済学部経営学科を卒業し「日本興業銀行(現みずほ銀行)」に入社(入行)しました。当時の興銀入行者は、東京大学、京都大学ほか旧帝大、そして早稲田大学や慶應義塾大学卒業の出身者が9割以上を占めており、立教卒は私一人!直系の先輩は5年上に1人いるのみで、全体でも10名 ほどしかいない状態でした。
日本興銀銀行は、自由闊達な行風があり「ディスカッション興銀」と言われ、産業金融の雄として日本経済を支える存在でもありました。私の仕事人生のスタートが幸運にも「興銀」という組織であった事は、その後の人生に於いても多くの支えとなったように思います。
1979年4月1日に丸の内の日本興業銀行本店ビル(カナダ産の御影石で覆われた威容さを誇るビルで通称「軍艦ビル」と言われていました。現在のみずほ銀行前本店ビル) で入行式があり、渡された辞令が「広島支店勤務を命ず」との辞令!
この辞令が私の仕事人生のスタートになると共にプライベート人生の岐路ともなりました。私の生涯のパートナーは、興銀広島支店に勤めていました。縁の大切さと「ここぞ」と思う決断を信じ、私の波瀾万丈人生のスタートを切りました。
キャリアを大きく変えたリース会社への出向
広島支店で銀行実務の基本を学びながら、外回り、融資担当を経験し4年弱で初転勤!「本店に行ける」と思いきや辞令は「興銀リースへの出向を命ず」。1983年3月のことでした。
本音を言えば『あれっ、何故出向なの!』と思いましたが、振り返えってみると、ここでの経験が私の仕事人生を大きく変える事になります。
興銀リースは以前「パシフィックリース」と言われていた時期があります。興銀からの出向はベテランの方が多く出向されていました。当時、興銀リースに若手担当者が出向する初めてのケースでした。私と、前みずほファイナンシャルグループ社長の佐藤康博さんの2人でした。佐藤さんは、私より3年先輩で花形の国際リース部門に配属され、私は事務機器のリース営業部門に配属されました。
佐藤氏は国際リース、私は国内営業に配属になり、銀行になりまだ草創期の「オフィスコンピュータ」等の事務機器のリースを勉強する事となりました。当時(1983年)は、まだ小型パソコンやインターネットサービスは無く、専らオフコンやコピー機(複合機ではありません)がリースの対象となっていた時代。また、興銀リースの強みである建設土木機械の取引先は、興銀本体ではお付き合いの無い企業もの多く、広義の金融ビジネスの世界を学ぶことができました。
続く
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