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NEXUS/ユヴァル・ノア・ハラリ~④第4章「誤り」
「虚構の物語が現実を構成」(1,2章)し、「官僚制が人工的な秩序」を押し付ける(3章)、とありました。つまり、官僚機構*は自らの都合あるいは大義のために時には虚構の物語を押し付け、秩序を形成しようとしてしまうリスクがある、という流れだったと思います。
*必ずしも今の行政のような官僚に留まらず官僚的システム全般を指すと私は理解しています。官僚が絶対悪ではないことに注意(彼ら彼女らも大きなシステムの一部に過ぎないはずです※後述するかも)
■ 第4章ダイジェスト
人間の可謬性
人間は誰でも誤りを犯す存在であり、その誤りは時に大きな影響を与える可能性があること自己修正メカニズムの緊張性
誤りを修正するための自己修正メカニズムは、社会の秩序維持との間で緊張関係にあること自己修正メカニズムの機能不全性
自己修正メカニズムがうまく機能しない場合、誤りが放置され、不平等や格差が生じる可能性があること
■ そもそも人間は可謬な存在
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誤るのは人間、誤り続けるのは悪魔
聖アウグスティヌスは次のような有名な言葉を残している。「誤るのは人間、誤り続けるのは悪魔」。誤りを免れられないという人間の可謬性と、人間の誤りを正す必要性は、どの神話でも主要な役割を 果たしてきた。
誤らない人間はいない、確かにそうですね。古今東西問わず、人間は間違ってしまう存在、とする逸話は数多くありますね。そもそも、西洋的価値観のベースには原罪があり、そのために贖罪という概念があります。
キリスト教の神話によれば、歴史全体が、アダムとイヴ(エバ)の原罪を正す試みとなる
さらに、宗教のみならず、イデオロギーとして
マルクス・レーニン主義の考え方に従えば、労働者階級でさえ、圧制者たちに騙されて自らの利害を取り違える可能性が高いことになる。だから、党の賢い指導者によるリーダーシップが必要とされる。
前提として人間は誤るとしても、官僚はそれを防ごうとする規律がある。
官僚制も、文書が行方不明になることから、非効率的な手順が採用されていることまで、さまざまな誤りに目を光らせている。複雑な官僚制のシステムは、たいてい自己規律組織を内部に持っていて、軍事的敗北や金融危機といった大惨事が起こったときには、調査委員会が設置され、何が悪かったかを突き止め、同じ間違いが繰り返されないようにする。
人間は誤るが文書に誤りがあってはいけないという自己矛盾(文書は人間が創るもの)を抱えながらも、仮に誤りがあれば何故それが生じたのかを突き詰めるのが官僚というシステム機構である、としています。
(あるいは、人間は誤るがゆえに、誤りを最少化、再発防止することに力点を置いたのが官僚制なのかもしれません)
■ なぜ魔女や悪魔を信じてしまうのか?
魔女狩りの本当の悪党は?
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もっとも、彼らが本当に極悪非道な悪魔を見つけたければ、鏡を覗くだけでよかったのだが。
彼らとは「宗教裁判官」のことで、”誤り”の一つの事例に中世ヨーロッパの魔女狩りについて記載があります。魔女狩り(witch hunts)は、中世ヨーロッパから近代にかけて行われた、魔女や魔法使いを迫害・処刑する運動。特に16世紀から17世紀にかけて、ヨーロッパだけでなく北アメリカでも多くの魔女狩りが行われていました。背景には、宗教的・社会的な不安や恐怖があり、当時の人々は、自然現象や疫病、災害などの原因を魔法や悪魔の仕業と考え、魔女や魔法使いを糾弾していました。また、魔女狩りは権力闘争や個人的な恨みを晴らす手段としても利用されたという側面もあります。
※魚豊さんの『チ。地球の運動について』も同様の世界観や価値観のもと、地動説の研究について描かれていますね
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なぜ誤った情報に飛びついてしまうのか?
情報が制限や制約がない状態(市場)においては、誤った情報が拡散しやすいとしています。
魔女をめぐる近世ヨーロッパの狂乱の歴史は、情報の流れの障害物を取り除いても、真実の発見と普及につながるとはかぎらないことを証明している。嘘や空想の拡散や有害な情報空間の創出につながることも十分ありうる。
より具体的に言えば、考えや意見の完全な自由市場は、真実を犠牲にし、 極悪非道のコンテンツや煽情主義の拡散を促しかねない。
つまり、フェイクニュースのほうが人を惹きつける、もっと言うと、面白いからなのです。魔女狩りの例でも『魔女への鉄槌』という根拠不明、論理破綻した書籍がベストセラーになったのも、その身の毛がよだつようなストーリーや描写に世間が惹きつけられたと言えます。
これは現代のSNSでも同様の事象が生じているでしょう。推測の域を超えた真偽不明の情報が氾濫し、それらを浴び続けているとあたかもそれが”真実”に感じてしまう、これが”人間の誤り”なのでしょう(ハラリは可謬性=謝りうる性質、としています)。
こんな間違ってばかりいる人間ではありますが、ちゃんと誤りを直そう、修正しようという存在でもあります。つまり、「自己修正メカニズム」がある、としています。
■ 自己修正メカニズムはどこまで機能するのか?
自己修正メカニズムとは?
自己修正メカニズムは、自然界では至る所に存在している。子供たちは、このメカニズムのおかげで歩くことを学ぶ。間違った動きをすれば転び、その間違いから学び、少しだけ違うやり方を試みる。
確かに間違いがある人間(可謬性)がゆえに、それを自然と軌道修正する仕組みがあれば、事なきを得る場合もあるでしょう。
ただし、ハラリは魔女狩りも布石にしながら、特にキリスト教会は自己修正メカニズムが弱い、としています。なぜならば、その教義や聖典は不可謬性=間違いはない存在・性質だからです。唯一絶対の一神教であり、その絶対普遍であり、その信託を受けている教会にも間違いがあってはならない。
間違いを認めることは自分たちの存在自体を否定してしまう、そんな強迫観念が心理的根底にはあったのかもしれません。
もちろん、全く自己修正メカニズムがないというわけではなく、先の魔女狩りや地動説しかり、のちに修正しているものも多いです。
自己修正メカニズムは、恣意的な秩序維持には不向き
しかしながら、長期的にはその誤りを質(正)すことへの抵抗感はある、とこの章の終わりに文を締めています。
カトリック教会やソ連の共産党のような機関が強力な自己修正メカニズムを避けたのには理由がある。
そうしたメカニズムは真理の追求には重要極まりないが、秩序の維持の点では高くつく。強力な自己修正メカニズムは、疑いや意見の相違、対立、不和を生み出したり、社会の秩序を保っている神話を損なったりしがちだからだ。
伝統的な文化や風習もこれに該当するかもしれません。どんなに形骸化していても長年それによって特定の集団は維持されてきたために、自己修正メカニズムを働かせることで、妄信してきた秩序が崩壊してしまう。
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では、間違いは修正されずにそのまま権力や特定秩序のために利活用されてしまい、特定の人々に不利益になってしまうのではないか…(不平等や格差の問題が一生なくならない)という疑問が出てきます。
一方、別の視点でいうと、修正しないほうがいいという考えもある。真実が隠されている以上はその不合理な現実に気付きようがない。その時点の状況を受け入れ、その枠組みの中で自由を謳歌すれば、それはそれで幸せなのではないか?修正ということに何の意味があるのか、という視点もあり得ます。
※イメージは、自給自足で外部と接触しないで自己成長しうる村落や地域などstand aloneな状況であること。
この2つの視点も持ちつつ、次の章も観ていきたいと思います。