誰にも言わない / 宇多田ヒカル
人が落ちるのは這い上がるためだとはよく言ったものだが、私は変われているのだろうか?
…
君はとても奇抜だった。
時代にそぐわない服装、つややかで真っ黒な髪、型破りな言葉遣い、大胆な身のこなし。
あんなにも衝撃を受けた出会いがあっただろうか。
出会った日の夜、初めて連絡を取りあった日、初めて君の家に行った日そして翌朝を共にした日、近所の池のほとりを港を駅までの道を歩いた日将来を語り合った日ぼろぼろに泣きながら終わりを覚悟した日一緒に住む決意をした日これで最後だと約束した日もう限界だと言われた時の景色全部終わった後の爽やかさ全ての記憶が今でも鮮明だ。
そんな過去を思い返す度、別れを無駄にしたくないという気持ちと、この際どうにでもなってしまえという思いが同時に私を襲う。
私はいつ自分の過去と折り合いをつけるつもりなのだろうか?
…
もう何度目になるかわからない相手の部屋で目が覚めた。
隣でまだ眠る相手の顔を見て昨夜のことを思い出す。
私にとって誰かと一夜を過ごすことは鎮痛剤だ。
二人だけの世界にいる間は痛みから目を逸らすことができる。
だが目が覚めた頃には効果が切れて、再び痛みに襲われるのだ。
一瞬だけでも心の隙間を埋めようとした結果、翌朝にはむしろこうしてすり減っている。
満たされるのはその時だけで結局は心が空っぽになってしまう。
なんとバカな行為をしているのだろう。
こうなるとわかっていてなぜ繰り返すのだろう。
そうして自己嫌悪に陥っていると、いつのまにか目を覚ましていた相手の手が私の服の中へと伸びていた。
もうどうでもいいという気持ちで私は相手を受け入れた。
惰性で求め合った後は頭が冴えたような、力が入らないような、冷静だけど自分が自分じゃないような、そんな感覚に陥る。
この状況が嫌なのは相手も同じだと思う。
相手が無口なのは、昨夜の疑似恋愛を思い出して虚しくなっているからだろうか。
沈黙の居心地悪さに私は一方的に話しかける。
昨日何時に寝ましたっけ。はしゃぎすぎましたね。洗面台お借りします。マスク貰ってもいいですか。じゃ帰ります。
相手はいつも決まって玄関まで見送る。
また後でね、と私の頭を撫でてくる相手に背中を向けたまま私は靴を履いた。
また後で。職場で。下らない。
お邪魔しましたと挨拶をして部屋を出ると、すぐに内側から鍵のかかる音が廊下に響く。
その音で私はいつも現実に引き戻される。
もう見慣れてしまった住宅街の冷たい空気を感じながら一人で駅へ向かい、ぼんやりとしたまま電車に乗り帰宅し、お酒が残った体をなんとかしようとシャワーを浴びて、酔い覚ましに水をがぶがぶ飲んで、また家を出て仕事へ向かう。
駅のホームで私の体を風が吹き抜けると、心と体がバラバラになったような感覚に陥った。
電車の窓から見えるいつもの景色が、今日はどこか遠い街の知らない景色のように見える。東京は希望と絶望に溢れた場所だ、と思った。
このままでいてはいつか自分を見失ってしまいそうだ。
早く目を覚まさなければいけないのに。
こんなに虚しい思いをしてまで誰かと出会うことが人生なのか。
見せかけの愛情ほどばかばかしいものがあるだろうか。
今満たされることに必死すぎて、未来を台無しにしてしまうのはいつも私だ。
私は本当に幸せな未来を望んでいるのだろうか。
勢いで誰かと体を重ねた翌朝は、そんな考えが頭の中をゆっくりと巡る。
そう考えているうちに巨大な孤独感が襲ってきて、一人に耐え切れない私は誰かの優しさに寄りかかりたくなって、そしてまた誰かを求めてしまうのであった。