皇帝塾/高知遠征一六日目
ここが皇帝塾か、と思いながら門を潜った私たちは、主人であるビゼンニシキの姿を求めてキョロキョロと辺りを見渡した。
(広い......)
その敷地にはおそらく800mは超えるだろうというダートコースが整備されており、さすがに競馬場並という印象こそ無いものの、個人が運営する施設としてはかなり大規模な印象を受けた。ラチの内側から中心に向かっては様々なトレーニング機材が設置してあり、おそらくウマ娘のトレーニングにおいて足りない物は無いようにさえ見える。素晴らしい充実ぶりだ。
「あれがクラブハウスかしら?」
敷地の隅に倉庫、その隣にクラブハウスと思しき建物を見つけた私は、そこを指差した。
「よし、行くか」
「ああ。トレーナー君も行こう」
私の差した指先の延長線。それに視線を揃えたテイオーとルドルフが、私の返事も待たずに歩き出した。
大浴場での再会の後、私たち3人はビゼンニシキの運営する皇帝塾に招かれた。言わずもがな、ビゼンニシキはオリジナルステップと繋がり、前回、そして今回と、高知トレセンに刺客を送り込んだ張本人である。何のケレン味もなく誘われた時には私も驚いたが、二戦目でのギガレンジャーは見事に勝利し、一戦目に相対したゼネラルエムシーにいたっては、本調子への回復までには二週間以上かかると見られ、精神的な回復まで見通すと、3戦目にエントリー出来る見込みはないという。
「今回のレンジャーの件で、私の役割は終わったわ。ウチに来たところでステップがそこにいる訳でもないし、もう気にする事ないわよ。そのかわり、敵上視察にもならないけど」
ドライヤー台の前で、ビゼンニシキはそう言い、微笑んだ。
「伺います」
「必ず行きます!」
その思いがけない申し出があった時の、ルドルフとテイオーの即答ぶりには、申し訳ないが笑うしかなかった。大浴場での偶然の再会は、瞬時に2人を記憶の中の学生時代に引き戻したらしい。どれだけ時間を隔て、立場さえ変えようとも、この3人の先輩後輩という絆が断ち切られることなどないのだろう。特にテイオーなどは湧き上がってくる思い出に拍車がかかっているようで、今朝からずっと『御前が』『御前は』と、うるさい程に喋り続けていた。一方でルドルフはというと、やはり過去のわだかまりが頭を過ぎるのだろう。時折不安げな表情を見せるが、それを悟られまいと振る舞う姿が、少しだけ私の心に刺さった。
(......?)
もう少しでクラブハウス、という所まで差し掛かった時、私の視界に奇妙なものが映り込んだ。
「何だアレ?」
テイオーもまた、同様に捉えたのだろう。顎に指を当て、首を突き出しながらそれを眺めている。
「バーベル......じゃないのか?」
Barbell──バーベル。
首を捻りながらそう言ったルドルフの言葉を、私は頭の中で繰り返してみた。
金属のシャフト。
その両側に取り付けられた、円盤状の大きな錘。
なるほど。
確かにそうかもしれない。
だが、果たして本当にそうなのだろうか。
私たちは各々の顔を見渡した。皆同じような、不思議なものを見るような、どこか不安げな顔をしていたのを覚えている。
それは確かにバーベルの姿形をしてはいるが、その大きさが、受け入れ難い程に大きすぎるのだ。
そもそもシャフトの太さからして尋常ではない。正味ペットボトル程の太さがある。私が握り込んだとしても、指が回り切るとは思えなかった。その両側に取り付けられたプレートにしてもそうだ。まるで見たこともないような大きさで、それが何層にも重ねられている。まるでトラックのタイヤのような見た目を作り出しており、全体の長さも、3m以上あった。
「なあ、何キロあると思う?」
テイオーが、胸の前で両腕を曲げ伸ばし、バーベルを持ち上げる仕草を見せながら言った。
「100か......いや、もっとか」
「あのプレートの大きさよ。一枚だけで100はあるわ」
「まさか?片方だけで5枚は入ってる。誰が上げるんだよそんなの」
首を振る私に、何か思いついたようにポンと掌を打ちながら言ってきたのはルドルフだ。
「そうだ。オブジェなんじゃないのか?そうに違いないよ」
「そうかしら?シャフトにバンテージが巻かれてるわ。あの汚れはどう見ても手汗よ」
「それは......きっと質感演出さ。それも含めてオブジェという事なんだろう。間違いない」
その後も、ああだこうだと私たちが推測を巡らせていると、背後から声が聞こえてきた。
御前である。
「あなたたち、こんなところでどうしたの?」
そう言って首を傾げている御前は、両手に買い物袋をぶら下げていた。
「少し買い物に行ってきたの。先に着いていたのなら、クラブハウスの中で待っててくれてもよかったのに。書き置きもしたのよ?」
御前はルドルフとテイオーに買い物袋をそれぞれ手渡すと、さっさと先に立ち、クラブハウスへ向かおうとした。
「いや、あのですね。御前、少しよろしいですか?」
躊躇うようなテイオーの呼びかけに、御前は振り向いた。そしてテイオーが指差していたその方向、その先にある巨大なバーベルを一瞥すると、なんだ、とでも言いたげに微笑んだ。
「ああ、それは──私のじゃないわよ」
いや、そうだろうとは思うけど。でも、そうじゃなくて。
御前の答えは、私たちの知りたかった答えにはなっていなかった。しかし、御前の手は既にクラブハウスのドアノブを掴んでいる。だとしたらもう仕方がない。中での会話の中で明らかにしていくしかなさそうだ。
「相変わらずだなぁ、あの人は」
そんなテイオーの独り言を聞きながら、私たちは御前に続き、クラブハウスの中へと入った。
そのクラブハウスは、小さな外見に相まって、事務机が二つと、応接用のローテーブルとソファがあるだけの、とても簡素なものだった。しかし壁には門下生が獲得したと思われる各アマチュアレースの賞状が所狭しと飾られており、棚の上にはトロフィーや楯の姿も複数見られた。察するに、門下生の数は少なくないらしい。
「ここでいいですか」
「ありがとう」
ルドルフは御前の返事を待ってから、そのローテーブルに買い物袋を置いた。テイオーもそれに倣う。私はその袋からペットボトルのドリンクを取り出し、テーブルに並べた。よくよく考えてみれば、七冠王者とマイルの帝王が先輩の荷物持ちをしているというのも、なんとも貴重な風景だった。
(......?)
ペットボトルが一本余った。しかも500mlではなく、1.5L。銘柄は同じである。
(......そんなに美味しいのかな?)
私はそのボトルを、部屋の隅にあった冷蔵庫の中に入れた。各々のボトルの中身が無くなった時には、グラスか何かに注いでくれるのだろう。その為の予備。私はそう思うことにした。
「──ところで」
御前が贔屓にしているのだというパン店が作るバケットサンドは、もはやサラダかと思うほどに野菜がたっぷりで、薄切りのターキーとハラペーニョソースが良いアクセントになっていた。御前はヘルシー志向なのだろうが、私としては、ここにフランクフルトを一本乗せて、チリビーンズソースでいただきたいところだ。
「今日、あの娘はどうしてるの?」
思い出話がひと段落した頃、御前はそう言って私の顔を見た。丁度最後のターキーを口に押し込みつつ、指に付いたソースをこっそり舐めていた私の代わりに、ウララですね、と前置いてからテイオーが返答した。
「今日は友達と会うとかで出かけて行きました。地元のお祭りがあるとかで」
なるほど、とでも言いたげに、御前は頷きながらペットボトルのドリンクを口に運んだ。その後立ち上がり、事務机の上にあったパソコンのモニターの角度を、私たちがいる方向からでも見えるように変えた。モニターの中には、激しいデッドヒートを展開するウララとギガレンジャーの姿があった。
「面白い娘よねぇ、ホント」
走るウララの姿を見ながら、御前は目を細めた。
ようやくターキーを飲み込んだ私は言った。
「御前は、ウララについて、何かご存知ではありませんでしたか?ウララは今年の冬まではこっちにいた訳ですし」
御前はソファに座り直すと、画面のウララを見つめながら、緩やかな動作で足を組んだ。
「ご存知も何も、噂は常に向こうからやってくるものよ。私の耳に入ったのは、ハルウララが高知に入ってすぐだったわ」
「じゃあ、ウララにも興味が?」
「もちろん。あんな面白い娘は他にいないもの。でもね、私が興味を持ったのは、彼女がデビューし
た後の話よ。『あんなに過密なスケジュールでレースに参加して、故障なしってどういう事?』ってね。そこからタフネスを逆算した時、彼女の正体になんとなく気付いたのよ」
「なるほど」
私はそこで一区切り入れ、ドリンクに手を伸ばした。『シャカールと同じ見解だな』というルドルフの声に、天井を見上げたまま頷く。
御前もまた、ドリンクを一口含み、それを飲み下してから言った。
「そうね......ハルウララの走りは貴女と出会ったことによって、劇的に変化した。ただなんとなくしか走っていなかった彼女のスペックを、貴女は確実に引き出しつつある。それは事実よ。でもね──ハルウララの走りには『再現性』がない」
軽く持ち上げられてから鋭く図星を突かれ、私は体が震える思いがした。
「どういう事ですか?」
固くなった私の表情を見抜いたのだろう。御前の意図を詳しく理解しようとしたルドルフが、ソファから半身乗り出したところで、御前は説明を始めた。
「大逃げという引き出しを開けた今回の走りと、フットワークにこだわった前回の走りは、正直、ウララの本質的な走りではないように思えるの。ウララの走りは、最初の東京で見せた差し脚を活かすあのスタイル。おそらく、アレがオリジナル。それで間違いないかしら?」
その意見に私はすぐさま同意した。
「仰る通りです」
「いずれはあのスタイルに戻すのよね?」
「そうしようと思っています」
御前は、私たちの顔をそれぞれ見渡してから、言った。
「今のあの娘をもう一度ステップバックさせるのは......ちょっと難しいと思うわよ」
私は息を飲んだ。
何という洞察力だろう。ほんの少しの時間、外からウララを眺めていただけで、私が抱えている現状の問題を丸裸にするとは。
「なあ、『再現性』ってのは、一体何の話なんだよ?」
御前の言葉に私が眉を顰め、ルドルフが真顔で深く頷くその間で、いまひとつ理解の追いついていないテイオーが妙な具合に慌て始めたので、私は言葉を慎重に選びながら説明した。
そもそも、ハルウララというウマ娘は、技術や理論に基づいた走りをしていなかった。ここを更に厳密にするならば、技術や理論を知りこそはすれ、それと噛み合った走りをしていなかったと言うべきだろう。結果的に、ウララは自力とセンス、そして勝ちたいという欲求だけを武器に走り、負け続けていた。
エアシャカールからのアドバイスを受ける前、私はウララとのトレーニングを続けていく際に、1番の問題点となり得るのは何なのかを必死になって探っていた。そうしていく内に明らかになったのが、ウララの未成熟な「技術」と、今現在取り組んでいるレースには余りにも乖離し、さらに偏りのある「理論」。そして本来のウララが隠し持っている高いポテンシャルが、その2つの事項によって大きく妨げられているという、非常に難解な3つの現実だった。
そうと気づいてから、私は色々な事を試した。様々なトレーニングや座学を介して、ウララの軌道修正を計ろうとした。ゲートは、スタートは、ストレートは、コーナーはと、各所に散らばる様々なウララの問題点を、少しずつでも矯正しようと試みた。
だが、それは不可能だった。
ウララ自身が、走るに当たって同じスタイルをキープし続ける事を拒んだのだ。
私との出会いをきっかけに、ウララは同じ練習でも、非常に根気よく繰り返す事は出来るようになっていた。しかしいざ走るとなると、同じように走る事、ことさら同じ戦略を繰り返して走る事をウララは酷く嫌がった。ウララは一日の仕上げであるタイム計測の度にペース配分やピッチ、ストライドを変え、呼吸法を変え、走行中のマインドさえも変え続けた。これではいつまで経っても比較条件が成り立たない。如何様にも判断は下せず、いつまでたっても結果は纏まらなかった。当時の記録ノートには、バラバラのタイムが並ぶ日が数日続いた。
やがて私はエアシャカールのアドバイスの下、ウララの筋力トレーニングを細分化し、その都度動作回数やクリアタイムを記録して、効果の有無を査定した。一方、走行タイムの計測回数は極端に減らし、総まとめとしての記録に留めた。
走行トレーニングについてもまた同様で、同じ対策を重ねるにしても、様々なバリエーションを用意し、ウララの気分に備えた。
それでも問題は残った。肝心のレースである。脚質も馬場傾向も明らかだというのに、ウララには同じ走行プランをあてがう事が出来ない。東京での1戦目を終えた後、私は次のレースにはどのように取り組むべきか、常に頭を悩ませていた。そして脳髄を振り絞る思いで捻り出したのが、ウララを変えるのではなく、環境の一切合切を変えてしまう事だった。環境を変えれば、自ずとそのスタイルは変化する。私はウララを矯正するのではなく、変化させ続けるという作戦に出たのだ。私にしてみれば、それが故のフットワーク、それが故の逃げ、それが故の高知遠征だったのだ。
「確かに難しい問題だな。先輩後輩にかかわらず、変わり種は様々見てきたが、ウララはその中でも斜め上に抜きん出ている」
「"大ふへん者"ここに仕り候......という訳か。こいつぁなかなかの難物だ」
この事を2人に口にしたのは今回が初めての事だったが、テイオーは口をへの字に曲げて髪を掻き乱し、ルドルフはこめかみに拳をあてがうと、考え込むように目を閉じた。
「それで、今のところ打開策はあるの?」
「あります」
私の即答ぶりに驚いたのか、テイオーが組んでいた足を正すと、私の方へと体を寄せた。
「あるのか?」
私は頷き、言った。
「ウララを一周させるんです」
私は人差し指を宙に立て、言葉の通り、それをクルリと一周させた。
「つまり?」
御前に促されたが、私は質問を返してから、続けた。
「御前は、釣りはやりますか?」
「子供の頃に。ちょっとした思い出にはなるくらいにはね。今はやらないけど、釣り好きの友達なら何人かいるわ」
「なら、こういう言葉をご存知ではないですか──『釣りは鮒に始まり、鮒に終わる』という格言です」
すると御前は頷いた。
「聞いたことはあるわね......子供の頃に近所の河川などでフナ釣りを覚え、その後その他の様々な魚に触れていく。その中で、竿、糸、浮き、錘などの道具や、魚を取り巻く環境、仕掛けの知識などを蓄え、それらを組み合わせて活用し、やがて磯釣りや渓流、あらゆるジャンルの釣りに踏み出していく」
期待していた以上の答えが帰ってきたところで、私は言った。
「その後、自分が一番得意なスタイルを知る。釣りの醍醐味を知り、奥深さを知る。年月が過ぎ、老いて尚釣竿を握っていたその時、釣りの最高峰とされるヘラブナに辿り着く──という、アレです」
長い前置きの後、私は続けた。
「ウララにはそれを体験させます。今はダートの1400がメインですが、それはいずれ1600以上のマイルや、1000mクラスのスプリントにシフトした場合の既視感を植え付けさせる為なんです」
「そして、芝に転向するつもりなのね」
「はい。スタミナを使い切る技術と、高度なペースコントロールを身につけることは非常に困難ではあると思いますが、ウララにはそれが出来ると思っています。
芝は1400〜1800を中心に取り組み、その先からはスプリントを捨て、中距離以上を狙います。今以上のスタミナが要求される事になりますが、この地点で、一度ダートに戻します」
「それは何故?」
「原点回帰という意味もありますが、自己適正を再度理解し、ここから先の展開に備え、目標を再確認する為です。中距離ダートに要求される強い心肺能力とパワーは、芝での同距離を走る上で欠かせない要素になります。おそらく、この時期を迎えることが出来れば、ウララのダートは無敵のものとなるでしょう。ウララのダートは、芝での技術を吸収してこそ完成するんです」
「貴女の目標は?」
「有馬記念連覇です」
私は躊躇わず、言った。
御前の表情は変わらず、ただ私を見ていた。両隣の2人もまた、同様に私を見ていた。
3人の強い視線を受け止めながら、私は少し考えた。流石に無敵は言い過ぎたか──と思う一方で、私が当時、このプランに絶対の自信を持っていたことは事実である。ただ違う環境を走らせるだけではなく、全てのレースで勝ちを狙うのだ。
逆を言えば、勝ちを無くしてはウララはレベルアップ出来ないだろう。今でこそ隠されていたポテンシャルを引き出すだけでタイムは伸びているが、いずれは行き詰まる。向上全ての引き出しを開けきった後で途方に暮れていたのでは話にならない。
だからこそ、ウララには白星が必要なのだ。レベルアップの為には、常に新しいステージを用意しなくてはならない。自分の意思に固執するウララを変えていくには、環境を変えていくより他はないのだ。
ウララは勝つということに対して、信じられない程の闘争本能を発揮している。一般に言う『負けず嫌い』なのではない。非常に異質な『勝ちたがり』なのだ。ウララは生まれながら勝ちに飢え、悶え苦しみながら生きてきた、虎とも龍とも呼べる存在だ。それをターフの上で開放したなら......
「──紅茶を淹れましょう」
御前が席を立った。自分の思いに耽ってしまっていた私はハッとなり、慌てて御前の方を見た。
「すみません、喋り過ぎました」
すると御前の代わりに、ルドルフが答えた。
「御前は、初めて会った人全てに目標を尋ねるんだ。それは直近の一時的なものでも、現役生活をかけた最終目標とするものでも構わない。君はそれを口にしたわけだからね。これは自然な流れさ。気にすることはないよ」
「ああ。アタシたちもよく聞かれたよ。アタシの場合は、安田記念だったな」
テイオーは当時を瞼の裏に思い描くように目を閉じて言った。
2人の言葉を十分に理解した私は、ようやく安心した心持ちになった。
「そんな有馬記念なら、私も走りたいわ」
ティーセットは棚の中にあるのだろう。御前はそう言いながら、棚の中から幾つかのカップを探り、盆へ並べた。
「そいつは面白い!現役復帰ですか?」
色めき立つテイオーに、御前は苦笑を向けた。
「私は登録抹消の身よ?でも、そんな私でもその気にさせてくれるわ。本当に面白い娘。そしてそれは、貴女も同じよ?クイン・ナルビーさん」
御前は私たちの前にティーカップを並べた。そして幾つかの茶葉を吟味し終えると、備えつけの小さなコンロに火を付けた。
「ところでルドルフ」
「はい」
「あの人は、元気でいるの?」
ふいに、御前は言った。その視線は、小さな炎を見つめたままだ。御前はまるでルドルフの返事を待っているかのように、そこにいた。
あの人──
それはルドルフのトレーナーのことなのだろう。ルドルフに七冠という王道を突き進ませた、稀代のトレーナー。ルドルフとの二人鷹は多くの伝説を残し、たった二度の敗北さえ、語り草にした程だ。
「彼とは──七冠を最後に、契約を解消しました」
暫くの間があった後、先に並んだティーカップを見つめたまま、ルドルフは小さく、呟くように言った。
私はテイオーを見た。その横顔は、先程迄の雰囲気とはまるで違い、硬く、強張っていた。私も同じ顔をしているに違いない。何しろルドルフのトレーナーは、元々は御前と契約していた男性なのだから。
「そう──」
湯を移したティーポットを手にして、御前は再び、私たちの前に座った。やがて葉は蒸れていき、ほのかな紅茶の香りが部屋に広がった。
その香りがより強くなった時、御前はポットの口をルドルフに向け、言った。
「心配しないでいいわ──思い出なんて、常にいいものしか残らないんだから」
優しく諭すようなその声音に、私とテイオーは、今日という一日の意味をここでようやく知った。
御前は、このことをルドルフに伝える為に、私たちをここに呼び出したのだろう。しかもその言葉は、トレーナーを奪われたことに対する恨み言ではなかった。そのトレーナーがルドルフ元からもいずれ離れることを予見し、ルドルフの心境を察しての言葉であるに違いない。
ルドルフの背中が震えていた。
それを見守るべきか、目を逸らすべきか、私は迷っていた。
「御前──ビゼンニシキ先輩。私は......あなたに......!」
震えながら尚、何かを言おうとするルドルフを、御前は制した。
「いいのよルドルフ。もういいの。だから泣くのも、もうやめなさい。ね?」
しかし、積年の想いが募ったのだろう。ルドルフは突然わっと叫ぶと、ソファの中で、身を捩るように泣きじゃくりながら御前に訴えた。この時初めて見たルドルフの泣き顔に、私とテイオーは、今度こそ見守ることしか出来なかった。
「いえ──そんな!いい訳が無いじゃないですか御前!私は!」
「ルドルフ!」
「御前!私は!」
「顔を上げなさい!シンボリルドルフ!」
御前は右手を伸ばした。素早くルドルフの肩を掴むと顔を上げさせ、その前に左の掌をかざした。
「御前......?」
「もういいのよ。ルドルフ」
「これ......指輪?」
左の掌。
薬指。
そこに、銀の指輪があった。
「こういう事だから──ね?だから全部、もういいのよ」
御前がまた、優しく微笑んだ。
その思いがけない結末に私たちは今度こそ言葉を失った。
そしてようやく紅茶が入ると、私は再びテーブルを囲んだ。
「御前の旦那さんってどんな人なんですか?」
「あなたたちの知らない人よ、とだけ言っておくわ」
「どちらで出逢われたんです?」
「帯広ね」
「北海道ですか!?そんな事なら言ってくれたら良かったのに!」
「何言ってるの。聞かされたらどうするつもりだったのよ?」
「そりゃ、披露宴くらいアタシが仕切りましたよ!」
「バカねぇ。出逢った瞬間に結婚したわけじゃないわよ」
再び始まった思い出話と、そこにささやかな御前の惚気が混ざると、場はさらに賑やかになり、私たちは許される限りの時間をクラブハウスで過ごした。
例のバーベルについては、結局は分からずじまいだったが、私たちはそのこともさえも忘れて、その日一日、女子トークを楽しんだのだった。
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