グランシュヴァリエ、そしてもう1人②/高知遠征18日目
「オペちゃん、ゆっくり息を大きく吸って、ゆっくり静かに吐くんだよ?」
「すーっ.......」
「そうそう!それで、息を吐きながら足を上げて?」
「はぁ〜っ......あ、足を?」
「そうそう!上手上手!」
「足を......上げ......てぇ......!ふんぬぬぬぬぅ〜っ!」
翌朝。
オペラオーは、ルドルフが使用していた個室を入れ替わりで使うことになった。私たちがカンフーの朝稽古の為に起床し、さてオペラオーも誘ってみようかと早朝にドアをノックしてみると、既にジャージに着替えたオペラオーが、ドアの向こう側に待ち構えるようにして立っていた。
「会長から、君たちが毎朝面白いコトをしているから、是非参加しろと教えられてね」
そうとなれば話は早い。
私たちは揃って寮の玄関前へと急いだ。
「胡蝶の拳に──」
「くっ......えいっ!」
「これが──双龍の拳だよ!」
「ええと......やあ!」
太極拳の稽古もまた、次の段階に移っていた。ウララの飲み込みは早く、この遠征中に動きも呼吸も既にかなりのレベルに達していた。私はウララが物足りなさを感じる前にと、数種類の象形拳の型を、この遠征の途中からウララに預けていた。今のところ完成度は甘いが、繰り返す度に動きは良くなっている。
一方、興味津々、やる気満々で朝稽古に合流したオペラオーであったが、いざウララのリードで開始してみると、初めてのカンフーには、意外や意外、ずいぶん苦戦しているようだった。
「リズムが......めちゃくちゃ取りづらいっ......!」
ウララを手本にした、私とテイオーを含めた4人揃っての通しの型稽古。それが終わると、オペラオーは突如ガックリと肩を落とし、両膝に手を置いた。
「あれあれ?大丈夫?」
思わず心配になったと見えるウララが、オペラオーの側までやって来た。
「き、君はすごいな......コレを毎日やっているのかい?」
「そうだよ?オペちゃんはずいぶん疲れちゃったみたいだね?」
「ああ。名前こそ知っていたものの、やるのも見るのも初めてさ」
「え?そうなの?カンフー映画とか、見たことない?あんな感じだよ?」
「いやぁ、恥ずかしながら、その手の映画も京劇も未体験でね。カンフーの登場するオペラがあったら、見てたんだろうけどなぁ」
オペラオーは顎を伝う汗を手の甲で拭うと、恥ずかしそうに笑った。
まあ、そんなこともあるだろう。私は軽く息を吐いた。私自身、カンフーや太極拳はそれほど難しいものではないと思っていたのだが、そのこと自体が、自分を基準とした先入観だったのかもしれない。おまけに、ウララだけではなく、テイオーもまた飲み込みはかなり早かった。全員を同列にして比較するのは良くないし、そもそも未体験の運動なのだから、これが普通なのかもしれない。
「誰だって、最初は苦労するわよ」
ダートのみならずカンフーについても、ウララには一日の長あり、といったところだろう。私はそう思った。
すると、オペラオーの様子ををじっくりと眺めていたテイオーがオペラオーに歩み寄ると、顔を近づけて言った。
「どうする?この後は別の型を通しでやるのが常なんだが、お前もやってみるか?」
「そ、そうなのか......」
テイオーを見上げ、一瞬、迷いを見せたオペラオーだったが、やがて決意を固めたかのように、パン、と膝を叩くと背筋を伸ばした。
「いや、やるよ。思ってたよりもすごく難しいけど、面白い」
「そうか」
テイオーは頷くと、再び離れた。「それなら、今度は動きだけをトレースするといい。どれだけテンポが遅れても構わない。とにかく動きを真似る事に集中するんだ。アタシたちは見ててやるから、ウララを手本にやってみるといい。ウララ、頼んだぞ」
かくして、再び通しの型稽古は始まった。テイオーの言葉の通り、ウララとオペラオーだけが稽古を続け、私たちはそれを見守った。
「姿を変える蟒蛇!」
「えっと......こうか!?」
「次は、河を渡る蛇だよ!」
「えっ?......おっとっと!?」
ウララの動きを、ワンテンポ遅れてオペラオーがなぞる。その様子を見つめるテイオーの視線は、とても硬い。オペラオーが合流してからというもの、テイオーが彼女たちを見つめる時の視線は常に硬く、隙がなかった。少しウララから離れると、笑うことさえ殆どなくなっていた。特にオペラオーの様子には寮の室内でさえ注意を怠っておらず、些細な動き一つ、言葉の端々にまで意識を向けているようだった。おそらく、明らかにされていないルドルフの意図を何とか見て取ろうとしているのだろう。その熱量に私は驚き、感心した。
「ずいぶんと熱心ね」
「黙って見てろ」
「ウララの動きもずいぶんと変わってきたわ。オペラオーも、帰る頃には見違えるようになっているわよ」
「いいから、見てろって」
終始この調子なのだから、私の方まで窮屈になってきそうだった。
2回目の通し稽古が終わった。先程は肩で息をしていたオペラオーだったが、今回はさほど疲れた様子を見せていない。
しかし、どうも様子が妙だった。
「今度はどう?」
私はオペラオーに聞いてみた。
「うーん、これは非常に......解釈に苦しむところだね」
顎に手を置いて考える素ぶりを見せながら、オペラオーは続けた。
「ボクは今回、確かにウララの動きをトレースできたよ。それこそ、ウララの動きを目で確認できるくらいの余裕はあった。でも──」
「でも、何だ?」
腕組みをしたテイオーが、その先を急かすかのように言った。
オペラオーは一瞬唾を呑んでから、言った。
「本当に不思議なんだ。前回は皆の流れやスピードを意識しながらだったから難しかったのだろうと、ボクは思っていた。でも、どういう訳だろう?今回の方がそれより難しく感じたよ。動きは追えるけど、バランスが全然取れなかった。伸びも悪いし。変だなぁ」
そう呟きながら、しきりに首を捻るオペラオーだったが、テイオーは、そんなオペラオーの頭に手を置くと、グイグイと強い力で撫でた。
「それが、呼吸なんだ」
「えっ?それは......どういう?」
思わず首を竦めながら、オペラオーが返した。
「いいか、1回目の稽古の時にお前を疲れさせていたのは、カンフー独特の呼吸のリズムに体が慣れていなかったからだ。実は理由はそれだけで、後は慣れさえすればよかったんだ。質問するが、お前は2回目の通しの時、呼吸の回数をかなり増やしたんじゃないのか?」
「ええと、それは──確かにそうかもしれない」
テイオーは頷くと、今度は右手をオペラオーの肩に置いた。
「1回目は、お前は下手くそながらも呼吸が出来ていた。だから、お前は強い疲労を味わうことにはなったものの、体のバランスを整えることに難は無かったんだ。まあ、成功していたとも言い難いがな。呼吸が負担を減らしていた、と言ってもいいだろう」
「な、なるほど」
「しかし2回目、お前は無闇に呼吸の回数を増やし、カンフーの根源とも言える呼吸のリズムを大きく崩した。結果として体幹は乱れ、難易度が増したんだ」
テイオーはその強い愛撫からオペラオーを解放すると、オペラオーの顔の前に人差し指を立てた。
「筋肉や運動センスが一切介在しない、呼吸そのものが生み出す動きがこの世には厳然と存在する。よく覚えておくんだな」
テイオーはそう締め括ると、オペラオーに背を向けた。
テイオーの言っている事は極めて正しい。その全てが私からの受け売りではあるが、それをその通りに言ってくれていたので、私は安心して聞いていられた。と同時に、すっかり喋ることがなくなってしまった私は、何とは無しにオペラオーを見ていた。
頭を下げ、肩を落とし、うなだれてしまったオペラオーだったが、やがて両方の手に拳を作ると、肩を小さく震わせ始めた。
(まさか泣き出すんじゃ──?)
テイオーめ、やり過ぎたな。
私がそう思ったその時だった。
「す──素晴らしいじゃないか!」
突然、大空に向かって勢いよく両手を広げたオペラオーが、感極まった様子で声を上げた。そして恍惚とした表情で私とウララを交互に見回すと、まるでタックルするかのようにウララに飛びつき、抱きしめた。
「ありがとうウララ!たった今、ボクの前に、未来へと伸びる新しい道が出来たのさ!本当にありがとう!」
ウララの体を激しく揺さぶりながら、さらにありがとうを繰り返すオペラオー。泣かれるよりはマシかもしれないが、ウララがかなり可哀想なことになっている。オペラオーが体をスイングさせる度にウララの首は大きく揺れ、その目を白黒させていた。
「あわわわわー」
「君とは素晴らしいウマ娘人生が歩めそうだ!この修行は、これからも毎日続けるとしよう!ボクが王座を手に入れるその日まで!いや、たとえそうなろうとも、ボクはカンフーを追いかけて見せるよ!」
「うわわわわー」
そして、ウララが完全に白目を剥いたタイミングで、オペラオーの目が、今度は私に標準を合わせてきた。
「そしてカンフーという、ボクの知り得ない扉を開いてくれた、クインナルビートレーナー!君もだよ!」
身構えるよりも速く、私の体はオペラオーの腕の中にあった。何という瞬発力だろう。私の体を激しく振動させるその体幹にしてみてもそうだ。実に目を見張るものがある。虚構じみた言動からは全く想像できないが、その裏では基礎的な練習を人一倍繰り返しているに違い。
「そして......!」
そして、私をウララと同じ目に合わせたオペラオーは、その場で一回転のターンを決めると、今度はテイオーに手を掲げた。先程同様、強烈なハグと謝辞をテイオーに贈ろうと構えたのだ。
しかしどうしたことか、そこで彼女は動きを止めた。
「ええと──その、何とお呼びしたら良いでしょう?」
やはり、幾分かの恐れがあるのだろうか。まるで伺いを立てるかのように揉み手を繰り返しながら、オペラオーがそう言う。それを一瞥こそしたものの、テイオーはオペラオーとは視線を合わせないまま、言葉を返した。
「アタシのことは──『帝王』と呼べ。貴様に限り、それ以外の呼称は許さん」
「は、はい!わかりました!でしたら、テイオー先輩でよろしいですか!」
それを許可と受け止めたのだろう。すっかり気を取り直したオペラオーは、それでは早速、と次の行動に移ろうとした。しかしテイオーはそれを許さなかった。牽制するかのようにオペラオーに向かって拳を突き出すと、そのまま親指を下に向けた。
「テイオー、ではない。『帝王』だ。帝(ミカド)の王(おう)だ。以後気をつけるがいい。それと、『先輩』もいらん」
いつの間にか、テイオーの口調が変化している。大きく、重く、区切るように喋っていた。何だ何だと思っていると、ようやく息を吹き返し、同様に変化を感じたらしいウララが、不思議そうな顔で私の顔を覗き込んできた。
(ねえ、トレーナー?何かヘンだよ?テイオーさんはどうしちゃったのかな?)
ウララの瞳がそのように語っていたが、返す答えが見つからない。テイオーの変化は止まらなかった。今やテイオーが纏う空気だけが違って見える程、威圧感が増していた。かつての私を畏怖させた、ウララと再会する前のテイオーがそこにいるようだった。
「しからば......帝王」
些かの沈黙と緊張の後、オペラオーはテイオーに向かってそのように呼びかけると、何と地面に片膝を立て、頭を下げた。
(おおお?)
「此度のその御言葉と御心遣い。このオペラオー、誠に歓喜の極み、身に余る光栄と存じます」
まるで、時代劇の劇画から切り取ったかのような台詞だが、オペラオーらしいといえばその通りではある。
その様を見下ろしていたテイオーであったが、やおら懐に手を入れると、何かを取り出した。
扇子である。
そしてそれを、まるでオペラオーに見せつけるかのように広げると、そこには『日本一』の文字があった。
(え?)
(ん?)
私とウララが何事かと思うよりも早く、扇子を大きく振り翳したテイオーは、高らかに言い放った。
「よきにはからえ!」
[newpage]
「──とまあ、大体はこうなんですよ」
昼頃。
皇帝塾のクラブハウスに赴き、ウララとオペラオーの2人を先にグランドに出したところで、今朝の話になった。
「くっくっくっ......!」
「こっちは笑い事じゃないんですよ、御前」
「......あーっはっはっは!」
「だから、笑い事じゃないんですってば」
むくれ顔のテイオーを他所に、身を捩っては膝を叩き、手を叩き、塾長であるビゼンニシキ──御前は笑っていた。
「いや、その......ごめんなさい。でも何なのよそれ......?本当、ごめんなさい。もう、笑い過ぎてお腹が痛いわ」
肩を何度も上下させ、御前は息を整えると、ようやく落ち着いたのか、一つ大きく息を吐いた。それを見たテイオーが、待ちかねていたかのように弁解した。
「だって、しょうがないじゃないですか。24時間芝居をしている様なヘンな奴なんですよ、オペラオーは。自分っていう役に完全になり切って、しかも酔っていやがる。こちらから普通に何か言ったとしても何だかはぐらかされているみたいで、反応がわからないんです」
「それで、その反応を分かりやすくする為に、貴女も貴女なりの芝居をしてみた、って事なの?」
テイオーが何度か頷く。
私はようやく今朝のテイオーの様子に納得した。私には考えもしなかった方法で、彼女はオペラオーとの距離を縮めようとしたのだ。
テイオーは言った。
「ええ、そうです。同じ目線に立って見れば、ちょっとは分かるかと思いまして──まあ、あまりそういうのは見ないので、偏ったものにはなりましたが」
「──ぷぷぷっ」
「いやだから!御前ってば!」
私は別に誇張して説明した覚えはないのだが、今朝の出来事は御前のツボをかなり刺激したらしい。私にしてみても実はそうで、御前に内容を伝えるのには、笑いを堪えられるかどうか、かなりの不安と苦労を要した程だ。
私は窓の外からグランドを見た。
今日の皇帝塾は一般の生徒の姿が多い。高知トレセンの生徒でもない地元のウマ娘たちの中に混ざって、ちらほらと人の子の姿もある。しかし、私たちの今日の目当てである青鹿毛の少女の姿は、皇帝塾のグランドの、何処を探しても見つからなかった。
「居ませんね」
「シュヴァリエね?今はロードワークかしら」
ようやく笑いの発作が治ったらしい御前が、涙を指で拭いながらそう言った。
「彼女、どんな娘ですか?」
「いい娘よ。明朗快活で、夢も目標もある」
「しかし何故、彼女は中央トレセンから此処へ?休学届を出したとも聞きましたが」
私がそう言うと、御前は少し間を空けてから、テイオーに言った。
「テイオー、お茶を用意してくれない?冷蔵庫にペットボトルがあるわ。グラスは適当にね」
テイオーが席を立つ。
私は再び御前に尋ねた。
「デビュー戦を勝利し、その後尻上りに成績は上昇。クラシックを見据えた育成計画を持つトレーナー達が居たとすれば、彼女を見逃そうとはしないはずです。その実績であれば、伸び悩みは正直、問題にはなりません。学園を休校しているのは、別の理由があるのでしょうか」
「別の理由というか、彼女自身の問題ね」
「と、言いますと?」
御前は僅かに唇を舐め、思案するかのように言った。
「学園に馴染めない──いえ、彼女の言葉をそのまま伝えた方がいいわね。彼女、学園の雰囲気が好きになれなかったと言っているわ」
「そうなんですか」
「ええ」
私は頷いた。それは後で尋ねてみる必要があるかもしれない。指導者の端くれとしては、気になる意見である。
「よくある話さ。まあ、よくある話の中でも一番多いのは、『こんなはずじゃなかった症候群』だろう」
盆の上に3つのグラスを乗せて帰ってきたテイオーが、私と御前の顔を交互に見ながらそう言いうと、テーブルにグラスを置いてから私の隣に腰を下ろした。
「何しろ全国から集まったレベルの高いウマ娘が、鎬を削って争い合う場所なんだ。自慢の脚もプライドも、度重なる模擬レースやクラス選別なんかを繰り返すうちに、たちまちまる裸にされる。焦りが焦りを呼び、他人の余裕が目障りになり始めた頃に『こんなはずじゃなかった』って思っちまったら、そりゃあ一休みもしたくなるだろうさ。高い競争率を潜り抜けて学園に入っても、それだけじゃ、生き残れるヤツとしての証明にはならないんだよ」
テイオーの言わんとするものは理解できる。だが、私はそうは思わなかった。
「彼女の場合は、ちょっと違うと思うわ」
「へぇ、そうか?」
「彼女の場合、それなりに時間が経過しているもの。そういう段階はとっくに通り過ぎているはずよ」
「ああ......確かに」
私はそれを一区切りとし、再び御前を見た。しかし御前は、私の方を見ず、窓の外を見ていた。
いつの間にか、彼女の視線の先にある塾の入り口には、中央のジャージ姿の少女が現れていた。
「言ってるうちに、帰って来たわね」
入り口の門を潜った少女は、ランニングのペースを保ったまま、クラブハウスを目指しているようだ。弾むショートボブの髪色は、紛れもない青鹿毛。彼女がグランシュヴァリエであると見て間違いないだろう。
「行きましょう」
私たちの反応さえ待たずに、御前は席を立つと外へと向かった。私たちも慌てて後へと続く。
シュヴァリエの体躯は、一目見て良い仕上がりだとわかった。広い肩幅に、引き締まった首元。上半身のトレーニングに重点を置いているようだ。戦歴は1600m以上が中心だと聞いていた筈だったが、ちょっとしたスプリンターのような体つきである。おそらく腕の振りを最大限に利用した、ストライド走法の完成を目指しているのだろう。
「おつかれ様。さあこれを飲んで」
御前が、いつの間にかその手に握られていた給水ボトルをシュヴァリエに手渡すと、彼女は無言でこくりと頷いた後、喉を鳴らしながら天を仰いだ。
「──ぷはっ!」
ボトルから口を離すと、シュヴァリエは首に下げたスポーツタオルで口元を拭った。その両頬にえくぼが浮かび、その表情に収まりきらないあどけなさを演出した。
「いやぁ、参りましたよ。商店街を走ってたら、肉屋のおじさんに捕まっちゃって」
「あら、またなの?」
「またコロッケを頂いたんですけど、それが5個もありまして」
「あらあら」
「断ってもキリがないから、全部食べちゃったんですよ」
「その仕方なさは、私にはわからないわよ」
「ですよねぇ」
そんな会話を繰り返しながら、シュヴァリエは屈託なく笑った。
声は明るく、どこかマイペースで、ユーモアもある。私は初見の彼女をそう評価した。多分だが、テイオーもそう考えていたに違いない。
「じゃあ、自己紹介といきましょうか」
御前はシュヴァリエをそう促すと、私たちの前へと促した。シュヴァリエはその通りに私たちの前まで来ると頭を下げ、右手を差し出してきた。
「はじめまして。グランシュヴァリエです。アキツテイオーさんと、クインナルビーさんですね。お話は先生から聞きました。今日はお越しいただきまして、ありがとうございます」
挨拶も礼儀正しく、そつがない。しかし紋切り型かというと、決してそうではない。彼女の親しみの湧くいい笑顔がそう感じさせるのだろう。
「よろしく。今日はウララが世話になる。中央では駆け出しのウマ娘だが、そもそもは高知で走っていた娘だ。仲良くしてやってくれ」
テイオーはそう言って、私に先んじてシュヴァリエの手を取った。
次は私の番だ。
「はじめまして......って言っても本当はそうじゃないんだけど。未勝利戦で勝った貴女に、不躾にも引き抜きを仕掛けたトレーナーがいたのを覚えている?あの時のトレーナーが私よ」
シュヴァリエが私の手を取った。
(ん......?)
掌の暖かさと共に、強烈な闘志が伝わってくる。
その時だった。
(──何だ!?)
──風。
シュヴァリエの背後から一陣の風が吹いた。強烈な芝の匂いを含んだ、熱い風。それが私の前髪を巻き上げると、突如、何千何万という大歓声が私の耳を引き裂いた。
「よろしくお願いします。その時の事は覚えていないけれど、今日はまたスカウトを考えて貰えるような走りをしたいですね」
変わらない笑顔でシュヴァリエはそう言い、私の手を離した。シュヴァリエの前髪は、不思議なことに揺れてもいない。
「え、ええ......よろしくね。ウララは、グランドにいるわ。それともう1人もよ」
シュヴァリエがウララとオペラオーを探してグランドの方へ振り返る。それを見逃さず、思わず逆側の手でおさえながら、私は握手の手を引いた。
何だったんだろう、今のは。
そう考えた時、私の脳裏にある記憶が蘇った。かつてエアグルーヴとルドルフがウララと学園で出会った時に体験したという、あの現象である。
(あの娘もウララと同じ......?)
既にシュヴァリエはグランドの中央へと歩き出していた。その背中を目で追いながら、私は静かに息を呑んだ。
「もうわかっていると思うけど──」
御前が髪をかき揚げながら言った。
「彼女、強いわよ」
御前は静かに笑っていた。挑発的なものではない。むしろ『びっくり箱を仕掛けたものの、言いたくて言いたくてたまらない』とでもいうような、その悪戯っぽい笑いに、私はその時救われた。
「負けませんよ」
私も笑って返した。
私の体からは自然に力みが抜け、笑みが溢れた。
これが、鍵だった。
御前がここで笑ってくれなければ、私もウララも、この日一日の成果を上げる為に数十倍の時間を要しただろう。
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