いざ、高知へ/高知遠征第一日目
「ウララ、夏休みになったら高知競馬場に乗り込むわよ」
私がウララにそう予告したのは、ウララが受けた期末テストの、その追試が決定したという日の事だった。ウララは勉強があまり得意な方ではなく、特にテストとなると本番に弱くなるのか、常に結果は壊滅的で、返ってきた答案の殆どが赤点という、惨憺たる有様だった。面接だけで入試を通過したという側面が、キッチリとここに出たようで、私は思わず頭を抱えた。
中央トレセンで学生生活を送るウマ娘にとって、追試や補習はかなりのハンデになる。トレーニングの邪魔になるからだ。
学園での授業には一般教養もある。それらについては正直、良いも悪いも関係ないと私自身は思っている。しかしながら、トレセンが学校という体裁を成しているおかげで、そこに所属する生徒にとっては、そうも言ってはいられない。学園は卒業生に対して、一般的な大学受験資格、いわゆる高校卒業の学歴を与えている。それを受け取る為となれば、生徒は勉学に打ち込む時間もしっかりと確保しなくてはならないのだ。
とはいえ、とりわけハードルが高いわけでもない。実際、どれだけ追試や補習を繰り返しても、一般教養の学力不足で落第した生徒はいない。そのはずである。
そうであるのにも関わらず、思わず頭を抱えてしまう程、ウララの点は悪かった。だから私は、ウララに喝を入れる為にも、今期の夏休み全てを使った大計画、高知遠征をその日に告げたのである。何しろ、追試を合格点で通過出来なくては、最悪、夏休み中を補習で追われる事になる。そうなってしまっては、もはや遠征どころか、普通のトレーニングさえままならなくなるだろう。
それだけは避けなくてはならない。何しろ既に向こうの未勝利戦へのエントリーは既に済ませてあり、宿泊所として向こうの寮を使わせてもらう件では、会長とエアグルーヴがずいぶん頭を下げたと聞いている。あの2人の顔に泥は塗れないし、元より猛暑さ続きのこの東京では、ウララのレースもトレーニングも、全てが裏目に出てしまいそうだからだ。
かくして、私はその日からウララの家庭教師となり、同時に鬼となった。飴と鞭と、鞭と金棒を使ってウララの尻を叩きまくった。ルームメイトであるキングヘイローもまた、苦手教科をサポートをしてくれた。そうして数日を過ごし、ウララの瞳から光が消えた頃、私たちは何とかウララに追試を合格点で通過させる事に成功したのである。
この猛勉強には私も寿命を縮める思いをしたし、キングはキングで自身のトレーナーから寝不足についての注意を促され、ウララにいたっては精神的回復までに2日を要した。
「もう赤点はとりません。本当です。だから正解はA」
追試が終わった日の夜、ウララはそう寝言で呟いたという。
2度とこの様な事態にならないように気をつけさせなくてはならないが、それは結局ウララ次第だし、私たちにしてみれば、ウララの寝言がウララの本意であった事を、只々祈るばかりでしかない。
そして出立の当日。
高知のホームに降り立った時に感じたのは、高知の夏が見せる不思議な心地よさだった。
ウララからも聞いていた通り、確かに気温は高いのだが、いざ外に出てみるとこれがそうは感じないのだから不思議なものである。山間部と海側からの風が常にあるおかげで、汗が流れる程に暑いとはいえ、時折快適に感じる瞬間があるのだ。もちろん、東京のようなヒートアイランド現象とは無縁である。
「暑いは暑いけど、暑苦しさはないのね」
改札を抜けた私がそう言うと、ウララはまるで自慢するかのように笑みを浮かべた。
「でしょ?でしょ?東京なんかより、高知の夏の方が気持ちいいんだよ!美味しいものもたくさんあるし!」
ウララの放った一言に、私の耳が思わずピクリと反応する。何しろ、勝つまで府中に帰らないと決めた遠征である。長丁場なのだ。そういう楽しみは今のうちに覚えておいて損はない。
「へぇ、高知の夏にはどんな美味しいものがあるの?」
「お魚!高知の魚はカツオが有名だと思うけど、夏はウナギも美味しいよ!」
「ウナギかぁ。確かにウナギは知らなかったな」
「野菜も果物も美味しいよ!スイカもあるし!あと、東京じゃ見られないような、みかんの種類が沢山あるの!」
へぇ、そうなのか。
それはいい事を聞いた。
是非とも食べてみないと。
「──なあ?トレーナー?」
私は、ウララの話を受けて私にそう振ってくる、アキツテイオーの顔をまじまじと見つめた。
おそらく私たちの事を、ルドルフあたりから伝え聞いたのだろう。追試の勉強に追われていた私たちのところに彼女がやって来て、私も行くぞと言われた時は、忙しくしていた所為もあり、全く本気にはしていなかったのだが、まさか本当に付いてくるとは夢にも思わなかった。しかも私たちとは別行動の、岡山まで前乗りという気合いの入れようなのだ。岡山の新幹線ホームで、両手をブンブン振り回しているデカくて奇妙なウマ娘を見た時には、呆れ果てて──いや、恐れ入って私は声も出せなかったくらいだ。
「何で本当にここにいるのよ、貴女は」
既に何度か口にしてはいるのだが、やはりその言葉が出てしまう。
「諦めな。アンタがウララのトレーナーなら、アタシはウララの後見人なのさ」
そう言って笑うテイオーは、両手には何の荷物も持っていない。背中に小さなバックパックを一つと、肩から大きな布の塊のようなものをぶら下げている。身軽ではないものの、旅支度としては少々奇妙だ。
「それが貴女の荷物?それで全部?」
私がそう言うと、テイオーはニカっと笑った。
「私物はスマホ関係と化粧品と財布しかない。コイツはシェラフだよ。着替えはその都度買って、使って溜まったら府中に送るさ」
「シェラフ?」
思いがけないその答えに、私は思わず眉を寄せた。
「ああ、エアグルーヴに聞いたらアンタたちの部屋にはベッドが2つしかないって言うからな。全く、融通の効かない、ケチな生徒会だよ」
私はますます呆れた。その口ぶりでは、後から3人部屋を用意しろとルドルフに迫ったに違いない。ただでさえこちらが無理を通して叶った遠征なのである。気まぐれで無理強いを重ね、これ以上の迷惑はかけられない。
私がため息を吐いた隣で、ウララが何故かはしゃいでいる。
「シェラフ!?わたし初めて見たよ!キャンプみたい!テイオーさん、頭いいね!」
ウララが物珍しそうにテイオーのシェラフを触りながら言った。
「まあ、暑ければ使わないかもな。マットの代わりに寝っ転がってもいいだろうし」
「私も寝てみたい!」
「お?いいぞ?一緒に寝るか?」
「やった!寝るー!」
──おのれら、遠足気分か?
喉から湧き出してくる言葉を奥歯で押さえ込み、私は2人をせき立てるようにしてタクシー乗り場へと向かった。
「──あれ、もしかしてハルウララ?」
「まさか?だって今中央でしょ?」
「絶対そうだって。顔そっくりじゃん」
改札を出るとタクシー乗り場はすぐに見つかった。夏休みということもあるのか、今日が平日というのにタクシー待ちの列は長い。仕方ないなと思いながら3人で並んでいると、私たちを遠巻きに捉えて何やら囁いている集団がいる。
(地元のウララファンかな?)
私は直感的にそう思ったが、ウララは気づいている様子が無い。スマホにイヤホンを繋いで、鼻歌混じりに首でリズムを取っているからだろうか。
教えようかどうしようかと、私が迷っているその隙に、テイオーがウララの肩を叩いた。
「おい、アレ見ろよ。お前のファンクラブの奴らじゃないのか?」
そこでようやく気づいたウララが、集団の方へと視線を向けた。すると、ただそれだけで集団の中から小さな嬌声が上がる。あの様子では間違いないだろう。
「んー?えっとねー......はい!」
ウララは一瞬何かを考え込み、そんな風に言った後、その集団に向かって大きく手を振った。すると、その一同が一糸乱れぬ動きで右拳を空に突き上げ、その場で高く飛び上がった。そして何事かと思う間もなく、着地と同時に全員がこちらに向かって駆け出したのである。
「おお!?何か来たぞ!?」
驚く私とテイオーに、ウララは満面の笑みでこう言った。
「今のはね、ファンクラブの人たちへの挨拶なの!私が皆んなに手を振ったら、お話出来るよっていう合図!でね、皆んなが今見せてくれたのは、自分が入ってるファンクラブ毎の、決めポーズなの!」
「え?ファンクラブ毎の?」
「うん!皆んな、ファンクラブが違うから!」
私はウララの言っている意味が分からず、テイオーと顔を見合わせた。しかし先に理解したのは、テイオーの方だった。
「わかった。私設だよ。私設ファンクラブってことだ」
ああなるほど、と手を打ちながら私は納得したが、よく考えてみると並の話ではない。公式以外に分派ファンクラブが多数存在するレーサーは、中央にもいないわけではない。ファン層が広ければ広いほどそれらは多く見受けられるが、ウララの場合は別格だ。後で聞いた話だが、上は老人ホーム、下は幼稚園にまでそれらが存在するというのだから驚きである。
「あなた、本当に人気者なのね?」
「え?そうかなぁ?でもね、皆んな私が走ると応援してくれるの!皆んな、優しいの!」
そう言いながら、ウララは更に手を振った。
集まってきたファンたちが、波になってウララと私たちを取り囲む。
何だか嫌な予感がしたが、それはすぐに的中した。
「ウララちゃんおかえりなさい!」
「おかえりウララちゃん!」
「中央のトレーナーさんですか?握手して下さい!」
「あなたはえっと......まあいいや!ハイタッチいぇーい!」
連発されるファンたちの声、声、声──久しぶりにウララに会えた事が、余程嬉しいと見える。ウララも同じ気持ち なのだろう。私たちの方を見ようともせず、握手、笑顔、カメラと、恐ろしいスピードで対応している。対応しているが──ダメだ、数が多すぎて埒が開かない。
「おい!タクシーが来たぞ!乗っちまおう!」
私には見えない方向からテイオーの声がした。
「ウララ!来なさい!」
私はウララの首根っこを文字通りふん捕まえると、その体をタクシーの後部座席へと放り込んだ。既にテイオーが中にいる事を確認してから、私は素早く助手席に体を滑り込ませる。
「高知トレセン!急いで!」
私がドアを閉めるのも待たずに、タクシーは走り出した。ファンたちからは徐々に距離が離れていくが、何人かが今にも走り出してきそうな気配がして、私は目が離せなかった。
「全く、ウララちゃんは相変わらずだね!トレセン行くなら俺に任せろ、だ!」
(......?)
いかにも運転手らしからぬその返答に振り向くと、背広姿の運転手が、ハンドルを握りながら器用に後部座席を振り返り、ウララとグータッチを繰り返していた。その右手がこれ見よがしにサムズアップを作っていて、私はギョッとする。
「おっさん、まさか」
震えるテイオーの声を先取りするように、運転手は答えた。
「ハルウララファンクラブ高知観光協会支部会長!会員No.0037!古川文貴とは俺の事よ!」
「おじさんも、相変わらずだね!」
ウララと運転手の笑い声が車内に響いた。
「せめて前向いてよね!」
私はシートに身を預け、ヘッドレストに後頭部を投げ出した。
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古川と名乗った運転手は、トレセンの校門前で私たちを降ろした。彼はタクシーの料金を受け取らなかった。ウララを乗せただけで自慢になる、それだけでいいと言い残し、サムズアップを繰り返しながらその場を去ってしまった。
「領収書だけくれればよかったのにな」
テイオーが放った悪魔のような囁きに、私は肘鉄で制裁を加えた。
「ハルウララ!久しぶりね」
その校門の前で出迎えてくれたのは、高知トレセンの生徒会長、オリジナルステップであった。鹿毛のショートヘアー、前髪の奥でその目がこちらに気づくと、彼女は私たちに手を振った。
「おやあ、ずいぶん鍛えたね」
素早く視線を上下させ、ウララの姿を見た彼女は、にっこりと微笑んで、言った。
「体つきも立派になって、見違えたわ」
「はい!会長さんもお変わりなく!」
そんなウララの返答ぶりに、オリジナルステップはひとしきり笑うと、ウララの肩に手を置いた。そして、私の顔を見て言った
「あなたがウララのトレーナー?」
「はい。ハルウララのトレーナー、クイン・ナルビーです」
「クイン......ナルビー」
私の自己紹介に、オリジナルステップの目つきが変わった。
「かつての女王が?ハルウララのトレーナー?中央はずいぶんとウララに高待遇なのね。特別奨学生の副賞みたいなものかしら」
その奇妙な物言いに、私は少し戸惑った。
「あ、いいえ、私は特に、ウララをきっかけにトレーナーになった訳ではないですし──」
まるで弁解するような台詞だったと、今の私ならそう思うだろう。だが、私はそう答えた。彼女の本意が何であれ、私たちを受け入れてくれた立場の責任者なのだ。迂闊に反論してしまっては、彼女に対して、また中央の生徒会に対しても角が立つように思われた。それに少なくとも、この時点で私は彼女に敵意を抱いてはいなかったからだ。
「あははは......冗談よ。でも、あなたがこのウララ以上に、気持ちを注いだウマ娘がいたかしら?いないんじゃない?それが分かるくらいの仕上がり。そういう意味よ」
これも今考えると、まるっきり後付けのような答えだったが、私は愛想笑いでその場をやり過ごした。
「ウララはこれからが成長期。この高知の施設ではフォローしきれなかった事も多いから、じっくりと育てていくといいわ。たとえ勝てなくても、ね」
いつの間にか、オリジナルステップが右手を差し出していた。握手、ということなのだろう。私もそれに応えて、その手を取った。その刹那、強く握り込まれた。
えっ、と驚く程のその力に、私は反応も出来ず、ただ戸惑った。
オリジナルステップは『それでは』と言い残すと、その場に私たちを置いて背を向けた。
態度は柔和だが、棘のある目つきと言葉が気になった。それにあの握手。私の手を握り潰さんとするかのような力の込め方が気に入らない。
「どうした?」
私の表情に違和感を見つけたのだろう。テイオーが私の顔を覗き込んできた。
「さっきの握手に、ちょっとね」
私はそれだけしか言わなかったのだが、テイオーにはそれだけで十分だったのだろう。全てを察したように鼻を鳴らし、唇を歪めた。
「フン、そんな事しか出来なさそうな顔してるぜ、あの女。アタシには目も合わせようとしなかった」
「気にしないことね。私もそうするわ」
私は未だ憤るテイオーから、ウララに視線を移した。当の本人は気づいているいないの以前に、もはや私たちが何をしにここにやって来たかさえ、覚えているのか怪しいところだ。
「あ、そうだ」
ステップが何かを思い出したかのように振り向いて言った。
「宿泊所の寮のことだけど、既に寮長には話をしてあるわ。今の寮長はインターシャークよ。彼女に案内してもらってね」
そして今度こそ、彼女は姿を消した。
私はウララに聞いた。
「寮の場所、分かる?」
「うん!」
私たちは荷物を抱え直すと、3人で寮へと急いだ。
「おかえりウララちゃん!よく来たね!」
インターシャークは寮のドアを開けるなりそう言って、ウララと私を出迎えてくれた。ウララよりも頭一つ背の高い、鹿毛のウマ娘だった。
「シャークちゃん、元気だった?」
「もちろん!」
久しぶりの再会をハグで喜び合うと、ウララは私たちに彼女を紹介してくれた。
「シャークちゃんはね、速いんだよ!私も、何回も負かされちゃったくらい!すごいでしょ!」
インターシャークは私に向かってぺこりと頭を下げ、言った。
「はじめまして、ウララのトレーナーさん。私はインターシャーク。ウララの同期です」
ウララと同級生というわりには、落ち着いた、いや、極めて普通の対応に、私は少し安堵した。高知に降りてからというもの、やたらと個性の強い連中しか目にしていなかったからかもしれない。聞いてはいないが、テイオーもきっとそう感じていたに違いない。
「ウララはどうですか、頑張れてますか?」
「ええ、こないだ中央の未勝利戦を走ったけど、みんなの大注目だったわ」
「私もアーカイブで見たよ!すごかったね、ウララちゃんの競り合い!
じゃあ、食堂にでも行きましょう。冷たい麦茶でも召し上がってくださいな」
そのありがたい申し出に、私たちは一も二もなく賛成した。
湯呑みに注いだ人数分の麦茶を盆からテーブルに置き、シャークは私たちを学食のテーブルへと案内してくれた。昼時を外し、夏季休暇中という事もあってか、学食には私たち以外の人影は見られない。合宿にでも行ったのかと訊ねると、そうではないとシャークは答えた。
「ここは元々生徒が少ないから。ウララちゃんがいなくなってから少ししか経ってないけど、ますます灯りが消えたみたい」
「そうなの?」
「ええ。年に何回かある重賞も、それに出られるレーサーが揃わなくて......他のトレセンから応援に来てもらっているような、そんな状態なんです。私が走るくらいだもん」
すると、ウララが麦茶を吹き出しながら目を丸くした。
「シャークちゃん、重賞走ったの!?すごいね!?」
だが、シャークはウララに小さな苦笑いを返しただけだった。
「すごくないよ。10位だもん。数合わせだよ......ウマ娘が2人いたら、それで競争はできるでしょう?でも2人じゃ重賞は始まらないから、12人揃える為に私が出たってこと。それだけ」
シャークは今、地方の選手層の薄さを語っているのだろう。酷く自虐的な言い方だったが、これが地方の現実で、中央との決定的な差でもある。彼女がそれを理解しつつ、ここにいるのだと察すると、私の胸はチクリと傷んだ。
皐月賞やダービー、そして菊花賞といった重賞のビッグタイトルを統括するのは中央だ。明確な目標と確かな実力を持つレーサーは、全国から中央に集中する。地方は興行としても小さく、重賞もあるにはあるが、注目度は低い。そもそも人口の分母となる数字が小さく、会場に訪れるファンも少ないから、レースを開催するだけで青息吐息というトレセンも少なくない。もちろん、それらの賞金にも雲泥の差がある。
だが稀に、中央に並ぶ実力を見せつつも、地方で活躍するウマ娘も存在する。しかし、そういったレーサーを、地方が盛り上げて成長させる事は組織的にも興行的にも難しい。必然、そのウマ娘に勝ち星は集中するのだが、そうなると今度はレースが白けるのだ。その上、そういったレーサーには、常に中央からのスカウトが付きまとう。地方は常に、レーサーを獲得する事も、成長させる事も、維持する事も出来ないという、ジレンマに陥っているのだ。
そんな中にあって、ハルウララというウマ娘が高知競馬場にもたらしたものは、とてつもなく大きかったのだろう。レースに勝つ事はなくても、ウララは逆にそれで知名度を作り上げた。ウララが懸命に走る姿は、ファンの心を鷲掴みにした。グッズは飛ぶように売れ、高知競馬場にはウララが走る度、多くの観客が押し寄せたという。
『経済生命体』
ウマ娘のレーサーをそのように位置付ける生物学者がいる。私はその言葉遣いに眉を顰めてしまうが、確かに言い得て妙だとも思う。その範疇において、ハルウララという存在は、まさしくその進化系、いや、それまでの系譜を覆すかのような『異端』とも呼ぶべき新しい形だったのだろうと、私は今でも思っている。
[newpage]
「ウララ、どうした?肩でも凝ったのか?」
そんな声がしたのでテイオーを見ると、テイオーはそう言いながらウララを見ていた。私もそれに倣った。なるほど、ウララはまるで肩が凝ったかのように、首周りに手を当てていた。スポーツバックが重かったのだろうか。
「え?何でもないよ?」
ウララは笑顔でそう答えた。しかし、その笑顔に僅かなぎこちなさを見た私は、胸騒ぎを覚えながらウララの手を払い、自分の手をウララの肩に置いた。
「痛ッ──」
ウララが小さく上げたその声を、私は聞き逃さなかった。咄嗟にウララの襟元を広げて、首元を顕にすると、そこには赤い痣があった。
「──何コレ」
「なんだぁ?」
私とテイオーの目がその痣に釘付けになり、シャークがヒッと小さな悲鳴を上げた。
痣は、手形になっていた。
いつの間に誰が、と思うと同時に、私の脳裏にオリジナルステップの顔が浮かんだ。私たちを出迎え、ウララの肩に手を置いたその時、彼女がウララにこの痣を付けたのだ。
「何のつもりだ、あの女!」
思わず食堂の入り口に目を走らせ、私はそう罵った。
「トレーナー大丈夫だよ、わたし。大丈夫だから。だから気にしないで。ね?」
両方の掌を私に向け、ウララがその手を激しく振った。笑顔だった。まるで、私の感情を制止するかのような、そんな仕草だった。
「前にも言ったでしょ、わたし、いつもこんななの。だから、気にしなくてもいいんだよ」
ウララは片手で襟を直しながら、麦茶を口に運び、「美味しい!おかわり!」と言いながら、私たち3人を見わたした。
「おい、ウララが今言った『いつも』ってのは、一体何の話だ」
「......後で話すわ」
この赤い痣が、ウララのかつての日常なのだと聞かされたら、テイオーはどんな顔をするのだろう。そして私は、既にそんな顔になっているに違いない。
ウララに二杯目の麦茶を差し出し、私たちには椅子に座るよう促しながら、シャークは言った。
「あのね、ウララちゃん。トレーナーさんも、テイオーさんも聞いてください。今回の高知、気をつけた方がいいです」
シャークは何度か左右に視線を走らせながら、そう言った。
「どういうこと?」
「あの会長さん、ウララのことを噛ませ犬にしようとしています」
「もう少し詳くお願い」
「夏休みの直前に、編入生が2人受け入れられたんです。こんな時期にですよ?変だと思いませんか。名前を調べたら、2人とも未勝利なんです。必ず、ウララちゃんが参加する未勝利戦に参加してくるはずです」
なるほど。
私が感じた居心地の悪さ。
そしてこの赤い痣。
その原因はソレか。
私は頷いた。
「インターシャークさん」
私は言った。平静を努めた。
「はい」
「ここに、未勝利戦に出られて、ウララの練習相手になるような生徒はいるかしら?」
「それは......ええ、何人かいますけど」
「後ででいいんだけど、その娘を紹介してもらえない?」
シャークは、しばらくの間顎に手を当てて考えていたが、パッと顔を上げると、ウララに言った。
「ええと──そうだ、ウララちゃん。イブキちゃんなんかどうかな?」
「え!?イブキちゃん!?会いたい!?トレーナー、私からも頼んでみていい!?」
私が頷くと、ウララはシャークの手を引いて、走り出して行ってしまった。
「ちょっと、貴女は何処に行くつもり?」
シャークとウララの姿が見えなくなるとすぐに、テイオーが椅子を弾くように立ち上がったので、私は反射的にそれを止めた。
「何が生徒会長だあの女!今から乗り込んでぷっとばしてやる!」
テーブルを叩き、拳を振り上げて憤るテイオーを、私は座ったまま見上げ、言った。
「少し落ち着いて考えてみて?ここはウララの古巣なのよ?しかもこっちが頭を下げて敷地を跨がせてもらってるんだし、中央の上層部の事まで考えると、いくら相手のやり方が気に入らないからって、喧嘩みたいな真似は出来ないのよ?」
「みたいな、じゃねえ!コレはもう喧嘩なんだよ!しかも向こうが仕掛けてきた喧嘩じゃないか!言っておくけど、このアキツテイオー様はなぁ、喧嘩を売られたとあった日にゃあ、買わなかった試しがないんだよ!」
テイオーは言葉を区切ると同時に、テーブルに掌を叩きつけた。
私は、今までに起きた複数の出来事を時系列に並び替え、オリジナルステップの腹の中を探る作業に集中していた。
高知トレセンと高知競馬場にとって、ドル箱的存在であったウララは中央に移籍した。それをきっかけに、オリジナルステップはウララ無しでの運営、つまりはウララに代わる新しいヒロインを模索し始めた。人材乏しい地方を方々探し周り、ようやく目に留まるウマ娘を2人獲得した。運営方針の青写真が刷り上がった頃、突然、中央サイドから未勝利戦でウララを走らせろという申し出があった。
何を今さら身勝手な、と思う反面、中央デビューを済ませて更に話題を膨らませたウララは、正に『ネギを背負ってやって来たカモ』であったに違いない。ウララにとって代わる次世代の新人の初戦の相手としては申し分ない。何しろ勝ち星ゼロなのだ。ボーナスステージにさえ見えただろう。
そこまで考え、私は思考を止めた。
──貴様の目論見は全てぶっ壊してやる。
「テイオー、私はね」
私は、テーブルの上で組んだ指を見つめながら言った。
「売られた喧嘩では負けた事がないのよ」
私のそんな答えに、テイオーの動きが止まった。
「って言うことは、策があるって事か?相手の面子を潰さず、相手に勝つ、そんな方法が?」
私は頷いた。
テイオーがニヤリと笑った。
「相手の面子は守る。ウララも相手も、誰にも迷惑も恥もかかせない。その上で、あの鼻っ柱を叩き折ってやるわ!」
私もまた、立ち上がった。
「貴女にも協力してもらうわよ」
「アタシはその為に来たんだ」
私たちは胸の前で拳を固め、互いの意識を確認し合うと、言葉も交わさずグランドを目指した。
走り出さずにはいられなかった。