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病院薬剤師が語る歴史人物数珠つなぎ    「道長と藤原摂関家」編❼藤原内麻呂

もし薬学の道を選ばなかったら日本史の先生になりたかった私、病院薬剤師だまさんによる、ちょっとマイナーな歴史上の人物を紹介するブログです。

本シリーズでは、摂関政治で頂点を極めた藤原道長を起点に、その祖先から子孫に至る流れをたどっていきます。

今回は、北家傍流からの下剋上を果たした立役者・藤原内麻呂です。


長男は大成しない!?

藤原内麻呂は藤原真楯の三男です(756-812年)。

傍流ゆえに大臣になれなかった父より一階級上の右大臣に至り、没後、従一位・左大臣の官位を贈られました。

また、多くの子孫にも恵まれ、後の藤原北家繁栄の礎を築きました。

皆さんはもうお気づきでしょうか?

道長も含め、ここまで紹介してきた人物に長男は誰一人いないのです。

道長(兼家の五男)
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兼家(師輔の三男)
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師輔(忠平の次男)
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忠平(基経の四男)
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基経(長良の三男;良房の養嗣子)
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良房(冬嗣の次男)
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冬嗣(内麻呂の次男)
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❼内麻呂(真楯の三男)
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❽真楯(房前の三男)
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❾房前(不比等の次男)
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❿不比等(鎌足の次男;天智天皇の落胤?)
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中臣(藤原)鎌足

それぞれ長男に継がせられない事情はあったにせよ、11代も連続するとなると単なる偶然ではないようにも感じます。

ところが、道長はこのタブー(?)を破り、長男の頼通に後を継がせます。

その結果、頼通は天皇の外戚になることができず、摂関家の栄華に終止符を打つこととなるのです(その後は院政、そして武士政権の時代に突入)。

何がしかの因縁を感じずにはいられません。


「布石」の達人

内麻呂は人望が厚く温和な性格だったとされています(冬嗣も同様)。

仕えた代々の天皇(桓武・平城・嵯峨)からの信頼も篤く、かと言ってへつらうことも、いさめることもなかったそうです。

十有余年にわたって重要な政務に携わりましたが、過失を犯すことも少なく、したたかな「布石の達人」だったと見ることもできます。

「あげまん」の妻
内麻呂の妻・百済永継は長男・真夏と次男・冬嗣を産みますが、その後宮中に出仕して桓武天皇の寵愛を受け安世王(良岑安世)を出産します。このことで内麻呂は出世街道を歩み始めます。

先見の明
桓武天皇が崩御すると、内麻呂・真夏親子は平城天皇の側近として権勢を振るい始めます。ここで内麻呂は、桓武天皇から寵愛を受けていた伊予親王ではなく、神野親王(後の嵯峨天皇)に次男・冬嗣を送り込みます。

坂上田村麻呂との絆
嵯峨天皇に譲位した平城上皇が平城京に移動する際、内麻呂は真夏だけを随行させ、自らは冬嗣とともに朝廷に残りました。嵯峨天皇と平城上皇の関係が悪化する中、平城上皇の復位を目論む薬子の変が勃発しますが、坂上田村麻呂らの迅速な軍事行動により嵯峨天皇方の圧勝に終わります。田村麻呂は内麻呂と義兄弟であり、勝利はその連携の賜物だったと考えられています。

糖尿病の家系!?
内麻呂は、812年9月に激しい喉の渇き・視力の衰え・足の痛みによる歩行困難のため辞職を願い出て、翌10月に没します。大河ドラマ「光る君へ」でも道長の兄・道隆(井浦新)が「飲水の病(重度の糖尿病)」を患う描写がありましたが、そんな家系だったのかもしれません。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。

さて次回は兄弟二人三脚で奈良時代の激動期を乗り切った藤原真楯です。

お楽しみに。

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