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外国為替取引バカ

自己紹介させていただきます。私はForexDogというハンドルネームで活動しています。ForexDogとは、直訳するとForex(外国為替取引)のDog(犬)という意味になりますが、Dogには英語のスラングで「〜バカ」という表現があります。つまりForexDogは『外国為替取引バカ』という意味になります。変だと思われるかもしれませんが、この名前には私のFX投資に対する熱意や情熱が込められています。

私がForexDogと名乗る理由は、FX投資の世界にハマり、FX投資に人生をかけて取り組んでいる自分自身の姿を振り返って、本当にFXバカだなと思い、ForexDogと名乗ることにしました。FXトレードのテクニックからはじまり、リスク管理や資金管理、投資に係わる心理学など日々研究し、FX投資を極めることに情熱を注いでいます。

おかげさまで、生き残るのが難しいと言われる投資の世界で、10年以上生き延びることができました。その取引手法やトレードシステムは多くの人々に注目され、メディアにも度々取り上げられるようになりました。その過程で、私はたくさんの投資家やトレーダーと交流し、知識や経験を共有することができました。

今後も、私はForexDogとして、FX投資を極めるための知識や経験を積み重ね、多くの人々に影響を与える存在となることを目指していきます。そして、FX投資を通じて、より多くの人々が経済的な自由や成功を手にすることができるよう、支援していきたいと考えています。

過去取材を受けた雑誌

このようにメディアでも活動させていただいておりますから、皆さんが抱くイメージとして、きっと最初から順風満帆な投資家人生を歩んできたのだろうなと思われるかもしれません。しかし、現実は真逆で、むしろ多くの失敗や苦労の連続でした。初期の投資で失敗を経験し、何度も立ち直ろうと努力しました。それでも諦めずに研究や分析を重ねるうちに、自分なりの方法を見つけ出すことができました。

そんな私が、こうして皆さんに自分の手法を紹介できるようになった背景には、これまでの波瀾万丈の人生の中で学んできたことが大きいと思っています。私の経験は、皆さんがFX投資に取り組む際の参考になるのではないかと考えましたので、本書では私の失敗談や成功の秘訣、そして心構えやマインドセットについても触れていきたいと思います。どうぞお付き合いいただければ幸いです。私のストーリーが、皆さんの投資に対するモチベーションや勇気を与えることができれば、これ以上の喜びはありません。本書があなたのFX投資の助力になれば幸いです。

1980~ パソコン少年時代

1982年12月1日、今は亡きマイケル・ジャクソンの名作『Thriller』が発表されました。特殊メイクを多用したホラー映画風のミュージック・ビデオが社会現象となっていた頃、中学生だった私は14インチのブラウン管テレビでVHS版ミュージック・ビデオの『Thriller』を観て衝撃を受けました。

マイケル・ジャクソンの歌とダンスのインパクトは強烈で、洋楽にハマったりダンスにハマったりする友人が続出し、中学生の私たちに多大な影響を与えていました。私自身も、マイケル・ジャクソンからヴァン・ヘイレン、デュラン・デュラン、ワム!などにハマり、洋楽を好んで聴くようになっていきましたが、私が他の友人たちと少しだけ違っていたのは、洋楽以上にマイコン(現在のパソコン)に興味を持っていたことでした。

最初にマイコンを手に入れたのは、ゲームで遊びたいという中学生らしい動機でした。週末の中日新聞の折り込みチラシに掲載されたNEC PC6001、通称『パピコン』を見て、父親にねだって買ってもらったのでした。『パピコン』と可愛らしい愛称が付けられたマイコンでしたが、価格は89,800円!80年代の大卒初任給が11万円だったことを考えれば、現在の市場価格でいうと16万円相当の価格です。よくそんな高額な玩具を中学生に買い与えてくれたものと思いますが、この『パピコン』がなければ、私は今とは全く違う道を歩んでいたと思いますから、両親には感謝してやみません。

しかし、当時の私は子供でしたから、お金の大切さも知らず、両親への感謝など露にも感じていませんでした。とにかくゲームがしたいと、愛車のブリジストンのロードマンを走らせて、マイコンショップに通い詰めていたのでした。

マイコンショップの店内では、お小遣いの3000円を握りしめ、

「これがいいだろうか?」
「あれがいいだろうか?」

と、ゲームのパッケージを眺めつつ悩みに悩んだ挙句、最終的に決めたゲームを購入するといった感じでした。また、そんな悩んでいる時間すらも楽しい時間でした。

しかし、ある時、事件が起きます。いつもどおりマイコンショップの店内で、並んでいるゲームのパッケージを睨みつけながら、意を決して1つのゲームを購入しました。そのゲームのタイトルこそ忘れてしまいましたが、ゴルフゲームだったのはよく覚えています。ゴルフとは中学生にしては大人びていると感じるかもしれませんが、80年代は、『藤子不二雄(A)』の『プロゴルファー猿(1974~1980年:週刊少年サンデー/1982~1988年:月刊・別冊コロコロコミック)』というゴルフ漫画が人気を博しており、中学生にとっても憧れのスポーツでした。

そんな憧れのゴルフゲームを購入し、意気揚々と愛車ロードマンを駆って自宅に戻り、着替える間も惜しんでローディング(当時はDVDやブルーレイ等なくカセットテープでピーガガガといいながら読み込むので、1つのゲームを遊ぶためには10~30分という時間を待つのが普通でした。)そして、遊び始めたところ、呆れるほど陳腐な作りのゲームに唖然とします。

「なんだこれ・・・」

ものすごく期待させるパッケージデザインだけど、中身はパッケージとは似ても似つかない素人が作ったような安っぽい作り、いわゆる『パッケージ詐欺』と言っても言い過ぎではないようなゲームでした。インターネットがなくゲームレビューや評価を確認するなんてことができませんから、そんな『パッケージ詐欺』的な商品が溢れていた時代でもありました。

1ヶ月分のお小遣いがパーになってしまったのは、中学生にとって大事件でした。もう二度と騙されたくないと頭を捻ります。その結果、マイコン専門雑誌を購入するという妙案が浮かんだのです。

当時は『月間マイコン』『月間マイコンBASICマガジン』『月間アスキー』『月間I/O』等のマイコン専門雑誌が、各出版社から発行されており、雑誌のメインコンテンツとして、プログラムのソースが掲載されていたのです。その中にはゲームプログラムも数多く掲載されていました。市販のゲームが3000円を超えていたのに対し、雑誌は数百円と中学生でも悩まずに購入できる価格に、毎号多くのゲームプログラムが掲載されていたので、中学生の私には宝の本を手に入れたような感覚でした。

しかし、ゲームを安く入手する良い方法を見つけたものの、代わりにプログラムの入力作業が伴いました。プログラムの入力は、慣れてないと大変で、今でこそブラインドタッチで、軽やかにタイプする私も、当時は人差し指一本でポチポチと1文字ずつ入力していたので時間がかかりました。また、入力が終わっても完成ではありません。愛機『パピコン』は

「Syntax Error(ピー:Beep音)」
「Out of Memory Error(ピー:Beep音)

と、意味不明のメッセージを突き付けてきたりします。

「I have a pen.」程度の基礎英語しか習っていない13歳に、専門的なメッセージが理解できるはずもありません。なんとかマニュアルでメッセージの意味を調べて、エラーの原因が分かれば修正もできますが、原因が分からなければ、対象となる部分のプログラムを、雑誌のプログラムリストと見比べたり、それでも分からなければ、もう一度入力し直したりといった力技で修正していきます。そして、エラーが全てなくなると、ようやく遊べるようになるのですが、一つのゲームが正常に動くようになるまでに、1週間もの時間を費やすこともありました。

そんなことを繰り返すうちに、最初はゲームを安く手に入れるのが目的で購入したマイコン雑誌は、いつしかプログラミングの教科書になっていきました。ゲーム以外にもマイコンに関する最先端の情報が載っていたのも、知識を深めるのに役立ちました。そして、知識が増すにつれ、自分でプログラムを作ってみたいという感情が芽生えてきました。私は思い立ったらすぐに行動する性分なので、すぐにゲームのアイデアをまとめ、キャラクターをデザインし、ゲーム内容を決めていきました。

実際にプログラミングしてもバグばかりで、全くもって思い通りに動きませんでしたが、何度も何度も修正しながら、初めてのゲームを完成させました。それはゲームで遊んでいる時よりも何倍も楽しい時間でした。

苦労の末、完成させたゲームです。「誰かに見せたい。」「誰かに遊んで欲しい。」という欲求が芽生えるのも自然の感情かと思います。私は今まで買っていたマイコン雑誌にゲームを投稿しました。大人になった今の私なら素人が初めて作ったゲームなど掲載されないのが当然と思うわけですが、当時の私は掲載されるのをワクワクしていました。そして、なんと本当に掲載されたのでした。その上、投稿した期間がプログラミングコンテスト中で、そのコンテストに応募する形で掲載されることになったのですが、なんと、機種別プログラミング大賞を受賞したのでした。しかし、当時を思い出せば、本当に素人丸出しのプログラムが誌面を飾っていたのですから恥ずかしい限りです。

また、投稿した時は知らなかったのですが、掲載されると原稿料が貰えました。初めての原稿料は10%の税金が引かれて送られてきました。税金など意識していなかったので不満でしたが、納税する中学生もそうそうに居ないと思いますから、今となっては良い経験をしたと思っています。

その一件から、私はゲームの制作と投稿を繰り返すようになりました。私が作ったゲームは毎月のように雑誌に掲載され、2年連続でプログラミング大賞を受賞しました。15歳になる頃には、独学でアセンブラ言語を覚え、プログラムを書いた後、そのソースファイルをハンドアセンブルしてマシン語に変換するといった高度な技術が身についていました。その結果、ゲームは単に遊ぶものではなく、収入を得る手段となっていました。

初めてのゲームが誌面に掲載されプログラミング大賞を受賞し、原稿料も貰えた。その中学生には強烈すぎる成功体験が、私の人生を決定していったような気がします。

1990~ サラリーマン時代

中学を卒業し、高校、専門学校と順調に進学した私でしたが、その頃には、かつて熱中していたゲーム制作に興味を失っていました。しかし、コンピュータ業界とプログラマーという職業は、自分が進むべき道だと考えていたので、より専門的に学べるコンピュータ専門学校に進学し、卒業後には一部上場企業の工業系システムエンジニアに就職しました。

工業系の分野を選んだ理由は、新しいことにチャレンジしてみたいと思ったことと、稼働し始めたら簡単に止められないといった工業系システムならではの厳しい側面が、挑戦する価値があると感じたからでした。

しかし、その考えは少々甘かったことがすぐに分かりました。工業系システムというのはすべてが専用設計のマシンであり、一般的なパソコンとはまったく別物でした。さらに、プログラミング技術だけではなく、電気・化学・機械などの専門的な知識も必要でした。同期入社の同僚たちの中には、電気・化学・機械系出身者がほとんどで、普通高校で習った程度の電気・化学の知識では全く役に立たなかったことがわかりました。私のプログラミングの知識を生かせる場面は少なく、会社の中では異端児のような存在でした。

それでも何とか仕事に必要な専門知識を学びながら一生懸命に働きました。90年代初頭は、まだバブル景気の真っ只中であり、どの会社も積極的に設備投資をしていましたし、コンピューターの2000年問題(2000年になるとコンピューターが誤作動する可能性があるとされた問題です。初期のコンピューターでは、磁気テープなどのリソース、特にメモリの容量が極めて少なく高価な貴重品であるため、できるだけメモリを節約するプログラミングが要求されました。そのため、コンピューター内部で日付を扱う際に西暦の下2桁だけを表示して、上位2桁を省略する方法が一般的で、この日付の桁数により2000年を1900年と誤認識することにより生じる問題です。)があり、慢性的なプログラマー不足でした。そんな時代背景にも助けられ、得意分野ではなかった私でも、なんとか工業系のシステムエンジニアとして働ける場所がありました。

そんな時、インターネットがアメリカからやってきました。インターネットと言えば最先端技術の粋とイメージを持つ方も多いと思いますが、まだ始まったばかりのインターネットはとても高度とは言えないものでした。90年代後半、検索サイトの最大手はYahoo! JAPANでしたが、そのYahoo! JAPANでさえも、現在のようなロボット型検索エンジンではなく、ディレクトリー型検索エンジンで、サイトオーナー自らYahoo! JAPANに登録の申請をする必要があり、その申請されたサイトをYahoo! JAPANのスタッフが目視で確認し、手作業でサイトを登録するという、今からは考えられないほどアナログ的な仕組みでした。そんなアナログな仕組みなので、ディレクトリーに登録されたサイトのみYahoo! JAPANで検索できるというものでした。なので、Yahoo! JAPANのディレクトリーに登録されなければ、どこからもアクセスされないといった具合で、『Yahoo!ディレクトリー登録サービス』といった有料のサービスもあったほどです。その後、Googleの日本でのサービス開始(2000年9月)と共に、検索エンジンの主流はGoogleになっていきます。

話しは戻って、私が携わる工業系の分野でも、インターネットの普及に伴い、それまで専門設計のマシンから汎用のPCが使われはじめ、インターネット技術を積極的に取り入る会社が増えてきました。私の務めていた会社の取引先も、汎用PCを使ったシステムの導入が増えていきました。その中でも特に最重要取引先であったT社も、いち早くインターネット技術を導入した企業で、取引先や関連会社との電子取引から、社内イントラネットの構築、また全工場の情報をUNIXマシンで管理するといった最先端技術を投入していく企業でした。

そんな急激なPCとインターネット技術の普及で、異端児だった私にも活躍できる機会が増えてきました。電気・化学・機械などの工業系の知識は敵わないものの、ことPCに関する知識は誰にも負けなかったので、T社でのネット絡みの案件は私が担当する事が多くなりました。そんな環境に恵まれた私は、T社のシステムを担当する中で、急速にインターネットに関する知識が身についていく事になります。

2000~ 独立創業時代

2000年代前半、ブログやSNSなどのサービスはまだ存在せず、手軽に情報発信できる時代ではありませんでした。情報発信にはホームページが必要で、専門知識を持った技術者がHTML(HyperText Markup Language)を駆使して制作するしかありませんでした。

T社を担当していた私は、インターネットに関する専門的な知識を身に付けていたので、人からの紹介でホームページ制作の仕事をサイドビジネスとして受けるようになっていました。今では考えられないかもしれませんが、当時はホームページを作るだけで数十万円という費用を請求できた時代でした。

同時期に、A8ネットやバリューコマースといったアフィリエイト・サービス・プロバイダ(ASP)がサービスを提供し始め、個人でもホームページさえ作れば広告収入を得られる環境が整いつつありました。

そんな時、当時同じ事務所で仲の良かった後輩のH君から「一緒に事業をやらないか?」と誘いを受けました。H君は営業職で会社でも営業成績は全国でトップ争いをしているほどの優秀な営業マンでしたが、実はサイドビジネスでアフィリエイトでお小遣いを稼いでいたと僕に打ち明けたのです。彼はホームページ制作は素人だったので、インターネットに詳しい私と一緒にやってほしいという話でした。私はすぐにその話に乗ることにしました。

それから、その後輩と時間を見つけては、自分たちの事業の打ち合わせをしました。時には客先訪問と称して二人で外出し、マクドナルドに行って打ち合わせをしたことも一度や二度ではありませんでした。

そうして、サラリーマンをしながらサイドビジネスとしての広告事業がスタートしました。H君が作ったアフィリエイト・サイトをベースにして、複数のアフィリエイト・サイトを立ち上げました。そのホームページには、私が当時持っていたノウハウを惜しみなく投じました。すると、公開後の初月には8万円という広告収入を得ることに成功したのです。それが日に日に売上がアップし、事業をスタートしてから半年後には月商で100万円を達成しました。そして、これを期に退職することを決意し、本格的に事業に打ち込める環境を整えました。その後、ITバブルの波に乗った幸運もあり、みるみるうちに売上はアップし、創業3年目で年商10億という規模まで成長させることに成功しました。後輩と二人で6畳のアパート1室から始めた事業は、2フロア300㎡の事務所を借り、社員数が30名を超す企業になっていました。

当時の私は、初めて立ち上げた事業で程度の成功を収めたので、有頂天になっていました。しかし、永遠に続くかのように錯覚していたITバブルは、実は2000年をピークに下落していくことになります。後になって、これがITバブル崩壊と言われるようになるのですが、この世の春を謳歌していた私たちには、ITバブル崩壊による未来に暗雲が立ち込めていることに気づいていませんでした。

急成長した会社が故に、会社としても経営者の私たちにしても蓄積した経験がなく、数々の問題が発生していきました。成長の柱だった広告事業は売り上げが減少し、打開策として地元密着型のポータルサイトや、そのポータルサイトとの相乗効果を狙ったフリーペーパーを発行しました。それらの新規事業は、ある程度の結果は出せたものの、メインの広告事業の売上減を補えるほどにはなりませんでした。売り上げを増やそうともがいても業績は改善せず、徐々に売り上げが減少していくといった状況に陥ってしまいました。

そんな悪循環の中、仲の良かったH君とも意見がぶつかるようになっていきました。それでも一向に業績が上向かず、とうとう二人の溝は如何ともし難くなった時、私は会長職を退き会社を去る決意をしました。大きな挫折と徒労感・・・今思えば、お互い若く未熟だったのだろうと思います。

2010~ 投資の世界へ

失意のもと会社を去った私は、しばらく何をすることもなくぶらぶらと過ごしていました。そんな時に知り合ったS社長から、

「FXって知ってる?」
「FXって面白いよ!」

と声を掛けられます。私は、FXはおろか投資に関して全くの無知だったのですが、S社長に勧められるままに、FX投資を始めてみることにします。当時は事業としてやるつもりは全くありませんでしたが、何もやっていなかったので興味半分で始めたのでした。

最初は証券会社のデモ口座を用意してスタート。資金は100万円。デモだからリスクはありません。何も考えずに適当に注文を入れてみると、なんと数日後に何万円もの含み益となっていました。レバレッジなんて言葉も知らずに、適当に取引ロットを設定して入れたので大きな含み益となっていたのです。もちろん逆に動いていれば、大きな含み損を抱えていたでしょう。でも、最初に利益が生まれたことが、FXに興味が湧いたのは間違いありません。

デモ口座での取引で気を良くした私は、さっそくリアル口座を開設しトレードを始めました。全くの素人丸出しのトレードでしたが、これがまた運が良く、お試しとして1万円入金してスタートしたものが3週間で80万にも残高が増えたのです。(当時はレバレッジ規制もなく日本の証券会社でもレバレッジ100倍とか普通で、少額でもトレードできました。)

これで、ますます気をよくした私は、ますますFX投資にのめり込んでいきます。しかし突然うまくいかなくなっていきます。

含み損は損切りせずナンピンを繰り返した末に強制ロスカット
損切りが大事だとストップロスを入れれば頻繁に損切り
ブレイクしたとポジションを取れば、典型的な天井買いと底値売り

最初にうまくいっていたのが嘘のように負け続けました。しかし、このままでは終われないとFXを真剣に学ぼうと決意します。

まず手始めに投資関連の書籍を読み漁ります。FX、株など、手当たり次第読みました。しかし、すべて購入していてはお金が幾らあっても足りません。蓄えは多少ありましたが、収入がないので目減りするばかりです。無駄なお金は使わないように、書店に入り浸って読み漁りました。(本屋さん、ごめんなさい!)

近くに大型書店があり、試し読みができる椅子も用意されていたので、そういった環境も幸運でした。本を数冊持ってきて、さっと目を通して少しでも参考になると思えば熟読し、全く役に立たないと思えば本棚に戻します。そんなことを繰り返し、最終的に残った数冊だけ買って自宅で読み返していました。こうして1ヶ月程で読んだ(目を通した)本は100冊はくだらないと思います。

こうして本で得た知識を使ってトレードに再チャレンジしました。「今度こそうまくやってみせる!」と意気込んでみたものの、全くうまくいかないのです。勝てない。何故か勝てない。もう二度とFXでは勝てないのではないかと思ったほどの絶望感を味わいました。

ここで、ちょっと話を中断して、今この本を読んでいるあなたにお聞きします。

あなたは勝てていますか?
私と同じような悪循環に陥っていませんか?

本書を手に取られた多くの方が私と同じような悩みを抱えていることが、今の私なら想像できます。なぜなら、今成功しているプロトレーダーも私と同じような経験をしてきたことを知っているからです。そして、それを乗り越えた先に成功があるともわかっているからです。なので、本書で、その理由と解決策を、あなたにお伝えしますが、もう少し私のお話にお付き合いください。

本を読んでも勝てないと分かった私は次にどうしたかというと、ブログを立ち上げました。

「なんで突然ブログ?」

と思われるでしょうが、まあ、続きをお読みください。あらゆる分野に言えることですが、あくまで本で書かれていることは基礎に過ぎません。例えば、メジャーリーグで大活躍した後、惜しまれながら引退したイチロー元プロ野球選手(本名:鈴木一朗〈すずき いちろう〉 1973年10月22日生まれ)は、誰でも知っている大スターです。そして野球も多くの人が知っているスポーツです。当然ながら関連書籍は山のようにあります。FXの比ではありません。でも、その野球の書籍を読んだだけで、イチローのようなプロ野球選手になれるでしょうか?なれませんよね?

では、どうすればプロになれるのか?

野球でプロになるには、経験のある指導者から適切な指導を受ける必要があります。実際、誰の指導も受けずに我流でプロ野球選手になった人を私は知りません。本が無駄であるとは言いませんが、本はあくまで基本的な知識を得るためのものに過ぎません。プロになるためには、経験のある指導者から適切な指導を受けることが確実です。

しかし、FX投資はどうでしょうか?

実際に安定して利益を出しているプロ投資家の適切な指導を受けている方は、どれだけいるでしょうか?そもそもFX投資のプロと呼ばれる人は表に出てきませんし、人に教えもしません。しかし、FX投資で稼ごうとする多くの人が、本で読んだだけの知識で市場に入っていく。これでは勝てるはずもありません。そう悟った私は、こう考えたのです。

FXのプロに教えてもらえばいい。

しかし、プロ野球選手と違って、プロトレーダーは表立って活動しませんから、誰がプロなのか分かりません。仮にプロトレーダーを見つけたとしても、ただで教えてくれるわけではありません。そこで、私の特技を生かした妙案を考えたのです。

それは、「プロトレーダーの勝てる手法をプログラム化する」といった方法でした。実は、話が少し戻りますが、投資関連書籍を100冊読んだ時に、私のバイブルとなる書籍と出会いました。それが『FXメタトレーダー入門(PanRolling:豊島久道氏著)』でした。


FXメタトレーダー入門

元々、システムエンジニアだった私ですから、FXで自動売買取引ができると知った時は衝撃が走りました。もちろん大規模なファンドや銀行などが自動で取引を行っているだろうとは想像していましたが、まさか一般のトレーダーが自動売買できる環境があるとは思ってもいませんでした。

この本を知った私は、即購入して自宅でプログラムを書き始めました。まずは手始めに、有名トレーダーが紹介していた取引手法をプログラム化してみました。しかし、予想と反して結果は全く駄目でした。メタトレーダーには、ストラテジーテスターという機能が搭載されており、開発したプログラムを過去相場のデータから擬似的にトレードテストをすることができます。その機能を使ってテストすると、利益が出るどころか、みるみる口座残高が減っていく結果となってしまったのです。

ここで、誤解があるといけないので補足しておきますが、その有名トレーダーの紹介していた取引手法がデマカセだったとか、そんな話ではありません。プログラム化する場合に、人が持つ感覚的な部分、例えば「移動平均線が横ばいで」といった表現も、プログラムでは明確な数字で示さなければなりません。そういった曖昧な部分を自動化するのは非常に難しいのです。

とにかく、書籍で紹介されている取引手法をプログラム化しても勝てないと理解した私は、きっと書籍に書いていない秘密があるのだろうと思い「あなたのロジックを格安でプログラミング化します。」と、ブログで宣伝したのです。プログラム化するには、そのロジックの全てを明かしてもらう必要があるからです。

この企画は、プロトレーダーの知識を得られる上、プログラミング技術も向上する。しかも、収入まで得ることができる。といった一石三鳥の妙案でした。また、当時はプログラム化するサービスも少なかったこともあり、想像以上に反響がありました。注文が次から次へと殺到し、数か月先まで予約で一杯でした。格安で受けたにも関わらず、その製作費だけで十分に暮らせる収入となりました。

そして当初の目的どおり、プロトレーダーの核心的なノウハウも得ることができ、多くのプロトレーダーとの人脈もでき、私の投資家としての基盤を作ることができたのでした。

そうしてFX投資の世界に入って1年が過ぎた頃、オリジナルの自動売買プログラム(メタクオーツ社のチャートソフト『メタトレーダー4』上で動く、Expert Advisors:EA)が完成しました。そのプログラムは、その後、なんと年利100%を叩き出すものとなりました。

2020~ そして現在

現在では、プロトレーダーの人脈や、メディアで活動することで私のことを知ったトレーダーから、多くのノウハウが私のもとに持ち込まれるようになりました。そうしたノウハウをお互いにシェアしたり、自動売買化したり商品化といったお手伝いもしています。

今、こうしていられるのは、私がプロトレーダーになるべく努力していた頃に、自動売買のプログラムを依頼してくださった方、そして惜しみなくノウハウを提供してくださったプロトレーダーの先輩方のおかげだと思っています。だから、当時の私と同じく、勝てるトレーダーになるために悩んでいる方のために、私から次のバトンを渡したいと思いました。

このNoteでは、私のFXトレードのノウハウや相場解説などを公開していきたいと思いますので、FX投資で利益を上げたいと願っているならば、ぜひフォローして頂ければと思います。

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