神さまは細部に宿ル -神ちガここ好き雑記-
語り始め
仲谷先生の作品ですごく好きだと言えるところはたくさんあるけれど、今回どうしても書いておきたいって思ったのは
"物語の導入において、その世界観を「現実世界と照らし合わせても、まったく違和感の無い方法」で読者に伝えるというスタイルがとても緻密に組み立てられている"こと。
これによって「その物語の実在性」が読者の中で限りなく高まっており、それが没入感の高まりにも繋がっているなぁと思ってます。
その辺の「ここめっちゃ好きでさ……」ってのを、年の初めに推し語りしていきます。
※ご注意 この文章は電撃大王にて連載されている「神さまがまちガえる」についてのネタバレを含みます。
物語の導入部の自然さについて
主に"神ちガ"について語るのですが、そのためにまずは比較サンプルから。
別作品なのでスクショを引用することはしませんが、歴代の有名な漫画やアニメ作品を例に挙げれば、
・本編での「村の少年モンキー・D・〇フィ」という注釈付きのキャラ紹介
・「今回登場する主なキャラクター」というページを挟み込み、ぼ〇ぼのやシマ〇スくんといったメインキャラを紹介
・「わたし 木〇本桜。友枝小学校の4年生。」のモノローグによる自己紹介
──これらのように、歴代の作品においては世界観やキャラクター情報について、冒頭で文章として書きこんで紹介を済ませる手法を取ったものが多くあります。
これらは手っ取り早く世界観を説明する点において最良ともいえる手段であり、より広い年代に対して、より的確に「これから始まる物語の心構え」をしてもらう事ができます。
現に、我々はそういった名作とともに育つことで読解力や想像力を養い、SFやミステリーをはじめとした、徐々に明かされていくor明確に語られることのない設定を多数含むような、難解な物語にも果敢に飛び込んで楽しむことができるようになったのだと思います。
しかし、これらは現実世界で展開されるやりとりではなく「漫画やアニメ特有の前説」として読者に「あぁ、これは漫画だもんね」という冷めた目線を持たせる隙を生んでしまうというデメリットを持ちます(といってもデメリットとしては非常に小さいのですが)。
そういった意味では、昨今の漫画で似たような説明パートを挟むと、「目の肥えた」読者から、「掴みが雑」とか「説明が長すぎる」といった批評(読者としてのワガママ)が書かれたりする……といった話も見聞きします。創作文化の円熟とも言えますが、その分漫画家は更に知恵を絞って世界観の紹介をする必要に駆られているんだろうなと思います。
仲谷先生の作品における「物語の導入」は…
さて、話を仲谷先生の作品に戻します。読者として見る限り、仲谷先生が「世界観を違和感なく伝える」ことについて、ある種の美学をもって執筆されているように感じており、その説明の自然さは、商業デビュー第1作目となった「やがて君になる」においてのキャラクター紹介でも存分に発揮されています。
同級生の朱里に名前を呼ばせることで、「侑」という名を紹介し、
大人である担任の先生に名前を呼ばせることで「苗字」もインプット。
校舎裏での告白シーンを通して「七海」というキャラクターを紹介し、
ついでにその「七海」が、一年上の先輩であることも描き、
ここまでの描写から、この二人をメインキャラクターとして読者に認知してもらった上で「燈子」という名前を"小糸さんに向けて"紹介。
最後に、忘れっぽい読者のためにもう二回「侑」と呼ばせる。
これらの"キャラクター紹介"は、現実世界における「日常会話的なやりとり」とも十分に一致しており、読者に「これは漫画の中の世界だ」と一歩引いた目線を持つ暇を与えることなく、自然な流れで一気に物語の導入に必要な前提知識を与え、物語の世界へと惹きこんでいきます。明らかに「肥えた目を持つ読者」を納得させるべく、周到な用意をしていることがうかがえます。
「神さまがまちガえる」では"説明"の緻密さが更に凄い
そして、ようやく本題である仲谷先生の最新作「神さまがまちガえる」へと話のコマを進めるわけなのですが、この作品においても「物語の前提知識を違和感なく読者に伝える」という美学はしっかりと引き継がれています。
しかし、題材がSFであるという特性上、SF世界の住人(各キャラクタ)と現実世界の我々(読者 )との間には、前提知識において大きな溝が存在してしまいます。
これを、主人公の特異的な設定を"後出しにする"形をとり、単行本2巻までのストーリー全てを用いてあちらこちらに「あれ?なんか引っかかるな」という違和感を残しながら読者に前提知識を学ばせ、そのうえで第9~10話で重要な設定を開示することで、一気にすべての違和感が読者にとって納得のいく形へと昇華され、これによって「作中のSF世界と現実世界のかけ橋」が形成されるという、細部まで仕掛けを張り巡らせたテクニックを用いて世界観を描き切って見せています。
具体例を挙げていくと、
呼ばれた少年の名が「紺」であり、相手方は「かさね」であること。
ここは、前作でも用いられた自然な紹介となっています。
そして、紺という少年が「引っ越してきたばかり」であることを開示し、世界観の説明役として機能することを暗示させ、
その直後に「不自然な表情のコマ」を挟み、読者に「この顔は何を意味するもの?」と深読みしてもらう余地をつくり、
そうこうしているうちに"バグの調査"という目的のもとに二人を街に繰り出させ、会話の流れと共に、この作品における"バグ"の定義を読者と共有。
そのうえで、「引っ越す前の町でも慣れっこだったハズ」のバグへの対処について"読者と同様に"やたらと新鮮な反応をする紺を見せることで、また違和感の種を撒いていく。
紺少年も、引っ越す前の町で数限りなく似通ったバグに遭遇しているにも関わらず、街の人のように警戒感を失わずに生き続けてきた点から読み取れる違和感。そしてその警戒感は、読者がこの物語に初めて触れている「まさにこの瞬間」の感情とほぼぴったり重なっており……
第一話のラストにおいて、突如誕生日をお祝いすることで「言いようのない違和感」を多くの読者に決定的に植え付ける。
第二話以降においてもたびたび「やけに初心な反応」をする紺を読者に見せていく。
そしてその「読者に寄り添うような初心な反応」は、バグの解消においても描写され、
──そして決定的な瞬間として、第9話の冒頭において、紺少年の衝撃的な事実を開示していく。
そして、紺少年の設定がほぼ完全に開示されることで、これまで撒いてきた違和感の種すべてに説得力を持たせる。
ここまでを読むことで、ここまでのシーンに加えて、こんなシーンも「なるほどね」と腑に落ちていく。
もう見事としか言いようが無かったです。"これはストーリーとして微妙に自然な流れではないなぁ"という僅かな違和感を「目の肥えた読者」に植え付け、そのすべてを後から開示した重要な設定によって説得力に変換させる。面白さはもちろんのこと、発想力と技量という点においても凄い漫画を読んだなという感想を抱きました。
もちろん、古今東西たくさんの作品が世に送り出されている中で、説明の自然さに腐心した作品はこれ以外にも沢山あることと思います。
私はあまりたくさんの作品に触れられなかった人間だと自覚しているので、この自然さがものすごく新鮮で、感動的でした。
この文章を書くにあたって、これを感想というにはコマの引用も多くなりそうで、果たして文章として形にしていいのかと正直迷っていたのですが、とりあえずガイドラインには則ったつもりなので、怒られない程度の引用であることを祈りつつ文章を〆たいと思います。
今年の神ちガも目が離せませんね!
──ということで、新年の"推し活"書初めでした。
くまくま