”優しい”とはなにか
たまに人に「優しいね」と言っていただけることがあります。
とても嬉しく思い、言ってくださった方に感謝するのですが、根本的に私は自分のことを「優しい」と考えてはいません。
「優しい」と言ってもらえるような行動は、自分の「~したい」という感情の結果だからです。
たとえば、人に何か言葉をかけること、電車で席を譲ること、風邪を引いた友だちの代わりに食べ物を買ってくること、総て「相手のため」ではなく、自分がその人を見たときに「そうしたい」と思うからです。
「誰かのために自分が~をしている」「誰かのために自分が犠牲になっている」と言うことは、きっと傲慢です。
“100%誰かのため”なんて、ありえない。
それは心理学にもでてきます(人間も動物で、生存本能で生きていますからね)。
「誰かのために」何かをすると、おそらく、無意識のうちに見返りを求めてしまうんです。
「あなたのために~をした。だから感謝してほしい。私を“優しい人だ”と思ってほしい」というように。
それは、何かをしてもらった相手もきっと苦しいし、自分自身も苦しめてしまうのではないかと思います。
「~してやったのにそんな態度を取るなんて失礼だ」「~してあげてるのにこんな扱いをされるなんて理不尽だ」と、思ってしまうかもしれない。
しかし、「自分のために」何かをすると考えると、きっと、そうは感じません。
「自分がしたいからこれをしたけど、なんか褒めてもらえた、ラッキー」という気持ちになるかもしれない。
「褒めてくれたその人は優しい人だなあ」とさえ感じるかもしれない。
総て、自分のためなんです。
もしも、自分がしたいからしたことを、誰かに「優しい」と言ってもらえるとしたら、それはとても素敵な、それこそ“優しい”ことだと、私は思います。
読んでくださり、ありがとうございます。 このnoteを読むことで、セクシャルマイノリティについて少し知っていただけたり、何か生きるヒントのようなものを見つけていただけたら、幸いです。