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僕たちはどう生きるか(西洋政治思想史)

向ヶ丘遊園駅複合ビル銀座フォレスト内にあるコミュニティスペース「白いハコ」内の貸し本棚「駅前本棚」で始まったカクヤマさんの西洋政治思想史。第1クールの最終回だった第4回に参加できず、カクヤマゼミ長が「補講」をしてくれた。残念過ぎたから大変ありがたい計らいに感謝!

なぜ西洋政治思想史のカクゼミが始まったか。
第1回〜3回はこちらを。


古代ギリシアからアテネ、ローマ、キリスト教やルネサンスを経て徐々に中世、近代に近づいていってからの第4回。民主主義と自由主義、資本主義、共和主義…。
聞いたことあるけど意味知らない、考えたことない事が洪水のように流れ込んできて、溺れかけながらも、今の社会がどうして現在地にいるのかぼんやりと見えてくるような気がする。

最後に、カクヤマゼミ長がどうしたいのか、思いものせられていてとても良かった。

あっという間の3時間。

合ってるかどうかは置いておいて、頭から流れ出ていってしまう前にアウトプットしておかないと。
人物や年代や出来事などの細かな説明は苦手なので、とりあえずゼミで感じたことをメモするので、呪文のようになってしまうかも。


感じたことなど

「足りてない」という認知

ゼミ長は、この政治思想史のことを、西洋に限定していて、ほぼ男性しかでてこない、健常者しか相手にしていない、思想家・政治家達の歴史で、ある意味偏った考えだと言う。
老人や子供、女性、障がい者などにスポットが当たるには、別の視点からのアプローチが必要とのこと。この話だけでは片手落ちだと。

それを聞いて、確かにたくさん話に出てきた偉人達はみな男性だったことを思い出す。

でもね。

「足りてない」を認知してるんだなって思った。

全てを詰め込んで喋ればいいわけじゃない。
西洋に絞って歴史を追って見ていくことで見えてくることがきっとある。

これまでの歴史を辿り、じゃあ僕たちはこれからどう生きるか、を考える上での材料が足りていない、という認識を話し手も聞き手も、お互いが持っていることは意味があると思う。

そんな前提の上で、まずはこの西洋政治思想史から何を得るのかを考えたらいいんだ、と思った。

保守と革新

保守派。リベラル派。
何か耳にするけど、難しくて、知らなくても生きていけて、遠くにある言葉。
人生で一番考えた日で間違いない。

特に印象的だったのは、これまでを「保守する」という考え方の基準について。
言葉からは「変化させない、古き良きを残す」をイメージさせるけど。

「これまで」っていつ?
いつ、どの時点を基準にして、何を保守しようとしているのか。

理想的に判断し、残すものは残していこうぜ、という考え方を「保守派」と呼ぶのならば、一定の革新も許容している。

言葉の定義が確かでないならば、その人の辞書にある「保守」という言葉は、もしかしたら自分の辞書の保守とは一致していないかもしれない。

例えば「議会」だって、その仕組みができる前は、その仕組みを初めて作ろうとした人たちのことを革新的に見ていたんだろうから。
相対的な見方しかできない。

同じ「保守派」という言葉でひとくくりにまとめてしまって大丈夫なのか、注意を払う必要があるんだと知った。

自分の主張を発言する勇気

SNSなんかで政治思想を発言するのは恐ろしい。
父親はいろいろ考えを持っていたが、それを発言するのは、いつもとても注意深かった。
触れちゃいけないんだな、と勝手に安易な方に解釈して、距離を取って生きてきたかもしれない。

何か発言してみて「お前は分かっていない」と否定されたくないと思ってしまうのはなぜだろう。

論破されたくないと思うのはなぜだろう?

別に強硬な主義主張はしなくてもいいけれど、自分の考え方に何て名前がついているのかくらい知っておいても悪くない。
議論ができるような環境があれば、言語化できるくらいの知識は持っておきたい、と生まれて初めて思った。

政党、派閥というくくり

社会主義、民主主義、自由主義、自由民主主義、共和主義…。
頭に入りきらなかったけれど、たくさんの主義が出てきた。
どれか一つでなければならないんだろうか。

考え方が合う人たちが政党をつくり、派閥をつくる。
中には多数派でいるために(選挙で支持されるために)自分の信念と違う発言をする人もいるかもしれない。

そういった人達の中から、この国の政治を託す人を選んでいる。

政党を分けて、主義主張が他とは違うことをアピールするほど、極端な考えに行きやすく、考えにズレが起こる気がしてしまう。

でも完全に主義主張が一致しなくても、大事なポイントとなる方向性が合っている人や政党を選ぶことはできる。

つまり必要なのは。
自分はどんな社会を目指してるんだろう?
それを自分の言葉で説明できるだろうか??
と思う。

目指す社会とは

今日のゼミでは、民主主義が多数派に流れやすい構造が故に壊れやすいという話があった。
社会が良くなるかどうかより、個人の目の前の楽や欲求に従って目の前が良くなれば良い、税金が安くなる、交付金が貰える方が良いという考えだけをもって多数派が支持されれば、確かにおかしな社会になっていくという考えは理解できる。
そのために個人が責任を持ち、勉強しなきゃいけないということも共感する。

その上で。

そうした結果、「政治」っていう今まで自分の境界線外と思っていた事柄について、個人レベルで主義主張がぶつかり、かみ合わない、揺らぐ、連帯できない、議論が増えて悩むことが多くなるとしたら?

目先の個人利益だけを追求しないことにした結果、考え方によっては生きづらい社会になるのかもしれないと思った。

「社会のために生きづらい社会を目指そう」という考えに賛同できるだろうか。
できなくはないと思う。
でもそのためには、その生きづらさは何を得るためにするのか、一人ひとりの思想がしっかりしていないと実現できなそう。

歴史のゆり戻し

4回のゼミを聞いて思うのは、繰り返されている、という事。
その時代の社会課題に対応すべく、優れた指導者が現れ、腐敗し、それに呼応して民衆が立ち上がり民主主義が起こり、機能不全から強い指導者が現れ、何代か後に腐敗していくみたいな現象。
完全に元通りではなく、時代時代の課題を解決させながらアップデートしているとは思う。
人権が認められ、自由が保障され、福祉が充実し、昔より暮らしは良くなっている、と思う。

けれど、社会全体としては、一人一人が助け合って全体を良くしていこうとはならず、個人では利益を追求し続けてる。

ひょっとしてゆり戻しは必要な現象なんじゃないかと思ってしまう。
必要、と言ってしまうと求めているみたいで語弊がある。別に過去の悲惨な出来事が起こればいいと言ってるわけじゃない。

でも西洋の歴史を追いながら、一定程度まで悪くなって社会課題として捉えられないと、みんなで課題解決には向かっていかないんじゃないかと思った。
より良い社会を目指さなきゃ!って思うような強烈な体験が、人を思考させ行動を起こさせてきたのだとしたら、結果的に意味はあったのではないか、それが歴史なんじゃないか。
無関心にならず、目を背けず、歴史から学ぶことがある。

例えば例えば戦争。例えば政治腐敗とか独裁。例えば震災や津波。例えば地球温暖化。
人はもう、地球上からクーラーを無くしたら多くの場所で生きていけなくなってしまったかもしれない。
便利でありさえすれば良かった時代をこのまま続けていいのか考えないといけない。

人は「安心な社会」を目指すのに、安心できると慢心して、悪かった元の社会を忘れてしまう。
安心できない社会の方が、みんなが安心な社会を目指してた。不自由な社会の方が、自由について考え続けていた。皮肉で不思議な話。

でもできれば、ゆり戻さなければならないほど悪くならないといい。

そのために同じ歴史を繰り返さないように今を生きる人達は、昔よりももっと学ばなければならないんじゃないのか。
AIとか技術革新の結果、生まれる時間の使い道はここなのかもしれない。

「教育」って言葉が浮かぶ。
教育とは子供のものだけにあらず。
この西洋政治思想史も教育と捉えてもいいんだ。

公共とは

「公共とは何だろうか」って最近考えていた。

行政が勝手にやるもので、自分達は税金さえ払えばいいんだろ、という考えでは精神的な豊かさは得られないんじゃないだろうか、一人一人が学んで、みんなでまちを良くしていこう、という考えや行動が必要なんじゃないか、その方が結果的に自分のまちのことを好きになったり、つながりがうまれたり、心の豊かさは増すんじゃないか、と最近思う。

そういった考え方に名前が付いていることを今日初めて知った。

歴史を学ばずに思いついたアイデアは、大抵誰かが考えついたものの劣化版くらいにしかならない、という話を以前どこかで聞いた。

その通りだと思う。
別に悲観しているわけではなく、歴史を学ぶ意味や価値が初めて腑に落ちた気がしている。

学生時代には得ることができなかった大切な考え方だと思う。それが知れたことが嬉しい。

歴史を知り、その結果、その後の社会に何が起こってきたのかを知り、だから今に置き換えて考えて未来を予測し、先人達の知恵のもう一歩先のアイデアに辿り着きたい。

そのために学ぼう。

何故学ぶのか、僕たちはどう生きるか、歴史を知る意味をカクヤマゼミで教わったと思う。

ありがとうございました。


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