「千と千尋の神隠し」と「ロミオとジュリエット」から見る名前
※全文公開です。おひねりをいただければ幸いです。
日々精進していきます。
ほんとふとした瞬間、気づいてしまった
千と千尋の神隠しと
ロミオとジュリエットって
同じテーマを扱っていると!
端的に言えば
「ロミオとジュリエット」は名前に縛られた話で
「千と千尋の神隠し」は名前に救われる話である
たとえばロミオとジュリエットでは有名な以下のセリフがある
つまり
ロミオという人間存在の本質は名前には縛られない
こう主張しているわけだ
しかし
千と千尋は真逆である
名前を奪われることによって
だんだんと自分がなんだかわからなくなっていくのだ
そう
両者とも名前という社会関係/社会的存在をテーマにしていながら
まるで逆のことでストーリーが展開しているのである!
結末も面白いように真逆である
ロミオとジュリエットは死ぬことによって名前(社会関係)から抜け出せ
千尋は人間として生きるために名前を取り戻すのだ
こう考えていくと
さきにあげた薔薇も実は面白い対比ができる
それは千尋の両親の豚である
ロミオとジュリエットでは
薔薇という名前がなくても薔薇の本質は変わらなかった
ところが
神の世界の食べ物を食べた千尋の両親は
名前もなくなったどころか
人間ですらなくなってしまったのである!!
社会関係を失うということは
社会的存在でなくなるということは
神の世界では
もはや「人間」ですらないのだ
そう考えると
最後になぜ豚の両親を千尋が当てることができたのかということも
一つのメタファーとして考えることができる
じつは
宮崎駿本人がこれについて回答しているので
まずはそれを見てみよう
ふむふむ
なるほど
良いこと言うな~宮崎駿は
ところで「生きる力」とはなんぞや?
色々な解釈があろうが、今回はシェイクスピアとの比較で考えてみたい
シェイクスピアとの比較で浮かび上がってきたことは
「社会関係(名前)」がなければ、奴隷のように生きるかしかなく
「社会関係(名前)」が強すぎても、名前から抜け出せなくなる
ということである
ロミオとジュリエットは結局死ぬことでしか
キャピュレット家とモンタギュー家の社会関係を変えることしかできなかった
しかし
もし、彼らに「生きる力」があったとしたら
すなわちそれは、この社会関係を変える力があったということだ
両家の確執を変えることだけが、彼/女らの生き残る道だったのだから
さて
生きる力=社会関係を変える力として見たとき
もう一度千と千尋を見直すと
最後に湯婆婆にハクが「両親を返せ!」と言い
その条件として両親を当てろというのである
そう
千尋はあの怖い湯婆婆と「交渉」をしているのである
交渉して社会関係を変える
生きる力の第一歩をすでにこの時点で彼女たちは行っているのだ
さらに
千尋は
「豚はこの中には居ない」という
あくどい罠もくぐり抜けて
見事に両親を取り戻すことに成功する
ここはよく議論になるところではある
なぜ千尋は両親がそこにはいないことを見抜けたのかと
伏線を張っていたり、理由を述べるといったような
ロジック展開をしていないのは
あくまでこれは「生きる力」のメタファーであるからだ
社会関係を変えるための方法はいくらでもある
あるがゆえにここでは一つの解決法を私たちには見せていないのだろう
重要なのは社会関係を変えることこそが生きる力だということなのだから
問題はそんなことよりも
千尋が豚となった両親と関係を取り戻したことで
豚が人間になったことだ
千尋という存在が関係をもったおかげで
豚から人間
さらに言えば
千尋の父と母という社会的存在になったのである。
はてさて
豚をメインに話したかったのでいろいろ吹っ飛ばしたが
千尋が名前を忘れずに済んだのは
か細く残ったハクという社会的関係のおかげであるということも付け加えておこう
さて
ここで千と千尋をもう少し寓話として考えて
現実世界にまで思考を拡げてみよう
「生きる力」=「社会関係を作る力」
であるとするならば
実は現代人って
神隠しにあいやすい環境なのではないだろうか?
社会関係が希薄になりやすいという良く言われるやつだ。
たとえば引きこもり
これは現代の神隠しといえる
とは実はやすやすとは言えない
むしろ
働く事が社会関係を築く、と思わされていることが
千と千尋のメタファーなのではないだろうか
なぜそういえるか
なぜなら
名前を奪われた千尋が唯一許されたのが「労働」だったからである
社会関係をすべて奪われても
労働だけは許されるのである。それが「奴隷」というやつだ
しかし
千尋が両親を取り戻したとき
そこには労働など一切なかった
社会関係を築くことに、本来「労働」が媒介する必要はないのである
これでは語弊があろう。
労働ではなく、「賃労働」が媒介する必要がないのである
労働はお金をもらわない家事労働やボランティア活動などもあり
社会関係を築く行為も労働といえなくもない
色々な行為が本来「生きる力」なのである
そのことをきちんと理解できれば
そんなこと「自然とできる」ものなはずなのだ
一時間前くらいに思いついたことを推敲もせず書いたので
よみづらいかもしれないが
ここまでお読みいただきありがとうございました
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