ノクチルの自由、ワレワレの自由。 『ワールプールフールガールズ』感想
前置き
『ワールプールフールガールズ』、おもしれぇ~~~~~!
これで大体言いたいこと終わり。
ただ今回のシナリオは「そこにあるモチーフや示されたテーマについてどう考えるか」という部分も面白そうと感じている。セヴン#スの記事と同様に、気になる部分について雑多に感想を書いていく。
雛菜ちゃんたちのいるところ
ここが本当に好きだ…。アイドルのことが好きな人、応援している人、ファン、プロデューサー。人によってアイドルとの関わり方は様々だが、心の中に「アイドルのいるところ」があるのは確かで、何故か「やられた」という気分になる。平易な言葉でものごとの芯をしっかり捉えた言葉が出てくるのが、シャニマスのすごく好きなところだな~。
そしてそのタイミングでプロデューサーの言葉がフラッシュバックする。透のシーンでも後述するつもりだが、今回のシナリオは『セヴンス』で語られていた「せめて、そこに手を添えていてあげられたら――」という概念が要所にあるのが嬉しいポイント。
最近はプロデューサーの的確な言語化が気持ちよく決まりつつ、問題解決への糸口が掴めていくみたいなシンプルな構成が減ってきたので寂しく思っていたものの、今回は「手を添える」という概念がちゃんとシナリオの骨格を支えてくれていて、誠実さをちゃんとシナリオの面白さの中に組み込めてんじゃん、やればできるじゃんシャニマス…!となっている。
雛菜はその場所にいなかったが、透たちの心の中には雛菜のいるところがあったことに気づいて雛菜がご機嫌なシーン。
プロデューサーが手を添えてくれたこと、透ママとの会話、透が雛菜のために怒ってくれたことが、ファンの心の中にもノクチルのいるところがあるということ、それをノクチルらしいやり方で大切にするということに繋がっていくのがとてもよい。
雛菜の心の中には「幼馴染のいるところ」があるが、小糸的には自分の心の中に「幼馴染のいるところ」があんまりないのだろうかと不安になっているやつ。
このシーンを見ているタイミングだと「なんか小糸の話浮いてんな…?」と思ってたけど通して見るとちゃんと繋がってるな。
ひっくり返す
タロットに関わる文脈は、雛菜を占った占術家が提示した「世界」、やり切って満足している、可能性の限界。ヒトデ人間のくだりで出てきた「星」は幼いノクチルの想い出と関わっていることから、やはり可能性の象徴かな~と思う。イベントタイトルにもある「愚者」は自由を表すと読むなら、
「星」、初めは可能性そのものだったノクチルが大アルカナ最後の一枚である「世界」、可能性の限界まで到達し、それをひっくり返すことで「愚者」、大アルカナ最初の一枚に戻って自由を取り戻し、また新たな旅を始める。という感じか。
タロットには正位置・逆位置の概念があるが、そこはあくまでイメージの源泉として使われている感じがしている。「世界」に象徴されるような完全さ、限界、のイメージと、「愚者」に象徴されるような自由さ、無謀さ、始まりのイメージの対比。
そしてそこに「とびぐるま」、飛車が成ることで竜になるという部分も乗っかっていてなんかもう凄い。
竜王から、そして透が竜王にかけた「ひっくり返しとく」という言葉から何を読み取ればいいんだろうか。飛車から竜に成るという文脈は、彼がプロに成ろうとしていたこととリンクするが、彼は「プロになるための資格の試験」に落ちてしまい、アイドルの追っかけをやっているがどっちつかずで中途半端な状態である。
プロに成ろうとして成れなかった竜王と、アイドルになるつもりがなかったもののその道を進むノクチルの対比は見いだせる。
「めちゃくちゃ頑張ってる人」だった(である?)竜王が今は中途半端な状態にあり、そういう人の心の中にもノクチルではないもののアイドルのいるところがあるということを実感したノクチルは、竜王のような「めちゃくちゃ頑張ってる人」の心の中にノクチルがいるということもまた今までよりもリアルに想像できるようになるのだろうか。
透ママの言葉や、竜王の存在など、かなり迂遠なもののリアルで実感のある要素から、ノクチルの心の中にも少しずつファンのいるところが生まれている様子はノクチルがアイドルになっていくことの表現として誠実でかつ面白い。
飛車を竜王にひっくり返すという文脈は、飛車を大アルカナの「戦車」として捉えると逆位置にあった「戦車」(行き詰まり)を正位置の「戦車」(飛躍)へとひっくり返すという意味にも読める気がする。飛車から竜に成るという文脈を、彼がプロに成ろうとしていたこととリンクさせると、竜王がプロになるということに対する励まし、激励と取る読みは成立しそう。
しそうなんだが、なんというかこのシナリオは置いてあるモチーフをどう受け取るかという部分も、何か決まった解釈があるというよりは多様な読み可能であること、多様な読みが可能なことによって読み手側にも自由を生み出すことのできる余地があることが重要だという気がしている。こちらについては後述する。
ここでしておかないとこれ以降の章で語る場所がないのでついでに語っておくと、「ひっくり返しとく」という言葉には先述したタロットの反転による激励の意味だけでなく、「受け取ったものを返す」(竜王たちから借りていた物品を返却することと、ノクチルが受け取った思いをパフォーマンスや行動によって返していくという意味で両義的)という意味も含まれている。
「ひっくり返す」というラストのシーンにノクチルの行動、心情の変化、変化を表すモチーフ、などが全て詰め込まれているこの表現はやっぱり凄い。
ノクチルの自由
ノクチルの自由については今までの振り返りの要素を含むが、それはそれとして鮮烈なシーンで描かれていてとても良い。こういう今までの要素の再提示をするシーンがちゃんと見ごたえある形だと嬉しいね~。
ノクチルの解散を「冗談」として処理しようとするラジオ・テレビ関係者に対し、円香と雛菜からのパンチある返答。「うらない(NOTFORSALE!)」という章タイトルからも、あくまで安定した売り物としての振る舞いを求められることに対して反抗するという態度は以前より通底している。
自由でいようとする、それを束縛する何かに反抗するという部分は今までのノクチルと変わりないが、どう自由でいようとしたのかという方法の部分が今回のシナリオの違う部分かなと思う。
透が原稿を前もって書くという選択をするの、熱さで言うと一番熱いシーンだと思う。あさひLPの「聴こえてた」じゃないけど、そういう熱さじゃない?雛菜にプロデューサーが添えた手が届くのもこれもあるから個人的にかなり気持ちが盛り上がるシナリオなのかも。
「天塵」での生放送も、「天檻」での逃走も、一個メタで見て「アイドルマスターシャイニーカラーズ」というゲームの、「ノクチル」というユニットの表現としては最高に良いものだったと思いつつ、純粋に「ノクチル」というアイドルユニットがしたパフォーマンス、として見ると個人的にはあまりテンションが上がる感じでは無かった。彼女たちがしたのは彼女たち自身でいることであって表現ではないなと感じるので。
今回の「手紙を読む」という行為は、アイドルとしてファンに対して行ったパフォーマンスとしては粗が残るものの、ステージ上で、彼女たちが考えていることを、ファンの方向をきちんと向いて、彼女たちなりに一生懸命伝えてくれようとしていて、ここには表現が生まれかけているなと感じた。一歩引いたメタの視点じゃなく、一ファンとしてノクチルというアイドルを垣間見ているという感覚になった。それが心地よかった。
自分の想いを相手に十分伝えることが出来るのが自由なら、その逆は不自由。ノクチルは幼馴染4人としては自由でも、アイドルとしては不自由だったのではないかなと思う。つまり、アイドルとして何をしたい、何をしたくないということへの考えがまとまっておらず、まとまっていないが故に言葉にすることが出来ず、言葉に出来ないが故に周囲からステレオタイプな「幼馴染」「アイドル」像を押し付けられ、それに対して痛快な形で反抗をするものの、その先で*同じ問題が繰り替えされる。
*表現できないのは表現させない周囲の状況もあるので、ノクチル自身の表現の稚拙さが原因とは限らないが
今回のシナリオでは、ノクチルのやろうとすることを受け入れられるような*ファンの土壌、プロデューサーが透に与えようとした自分の気持ちを言葉にして伝えるという一つの武器、また、雛菜に対する透ママやプロデューサーの後押し、が繋がっていくことで彼女たちはノクチルとしての自由を、自分の伝えたいことを伝えたいように伝えられる自由を、永遠みたいな一瞬を手に入れることができた。
それがこのシナリオにおけるノクチルの自由。アイドルとしての自由。表現者としての自由なんじゃないだろうか。
*『セヴン#ス』より前の自分が美琴の将来として思い浮かべていたのはこれで、お笑いコンビ・天竺鼠が「無観客無配信ライブ」をやっていて、それが周囲から好意的な反応を受けたのは、端的に言えば「そういうことする人」だと認識されているからで、何の留保もなくシーズというアイドルのライブに行ってコンテンポラリーダンスとか見せられたら私はキレるような気がするが、美琴のやりたいことをそれでも貫き通すことによって、そういったファンの土壌を醸成するのが一つの解決かな~と思っていた。
いや、それをやろうとしたけど解決しなかったのが美琴なんじゃないの?ってツッコミは凄くその通りなんですが…。まぁルカと組んでいた時はその「貫き通す」っていう部分が事務所的に出来なかった描写もあるので、自分の中ではこの先にそういう展開もワンチャンあるかな~と思っている。
ワレワレの自由
ノクチルは表現という自由を手にした。で、われわれは?竜王のセリフは、彼がノクチルに対して放った言葉というだけではなく、ファンがノクチルに言いたいことの代弁としても配置されている。
透がラジオで口に出した「解散」という言葉を「冗談」として処理しようとする周囲の人々は、何もノクチルをアイドルという型に嵌めようという人たちばかりではない。プロデューサーが雛菜に伝えるように、その言葉に心を乱され、悲しみ、その言葉を切実に捉えている人たちが多く存在し、そういう人たちの防御反応の一つがその発言を「冗談」として処理しようとすることでもある。
ノクチルは(透の原稿は?)そういった人たちへの気遣いや、感謝も語っているが、それらはこの場にいるファンがノクチルに対して悪感情を抱かないと言えるほどに十分ではないと私は感じている。にもかかわらず私は依然としてこのシナリオを面白いと感じている。
ファンに対して受け取ったものもあり、それをこのステージでは返すが、あくまで自分たちの自由さは失いたくないと主張し、ファンを傷つける力を持った「解散」という言葉を叩きつける、そんな透が言う「永遠みたいにしたい 今日を 一緒に」という言葉に何故か惹きつけられる。
この二律背反(意味あってる?)が今シナリオの粗でもあり、最大の魅力でもあると思っている。ただこれをどう解きほぐしていくかが難しい…。
まず確認すべきなのは、私(たち?)が「ノクチル」に対して二種類の矛盾した感覚を抱えているということだ。つまり、「幼馴染4人(レッテルとしてのではなく、アイドルではない生の人間という意味での)が自由を失わず、自分らしくのびのび生きていてほしい」という気持ちと、「アイドルユニットノクチルとして、ファンとしての私が見たいものを見せてほしいし、見たくないものは見せないでほしい」という前者と対立するような気持ち。
前者と後者は、それこそグラデーションのように一致している部分もあれば、食い合わせが悪い部分もあり、全く矛盾している部分もあるだろう。そして今までのノクチルのシナリオでは「幼馴染4人」に求めるものが叶えられるようなシナリオが多かったと私は感じている。
今回のシナリオは、今まで私たちがメタ的な視点で「幼馴染4人」に求めていたものを、アイドルユニット「ノクチル」がこれからファンに提示するものとして再定義しようとしたシナリオなのかもしれない。
もちろん、放クラのライブに行けば元気になって帰れるだろうし、ストレイのライブに行けば心が熱くなるだろうし、アイドルが「自由でいること」というのはそのままではファンが求めるアイドル足りえない(○○のライブは△△だという定義を受け入れるということ自体が自由とは違ってくるのでややこしいが)。ノクチルが「自由でいること」と「アイドルでいること」の間隙、それを埋めるのが「ひっくり返す」ことなのだろう。
今までもらった期待や願望に感謝しつつもそれを返してノクチルを終わらせる。ノクチルを終わらせることでまた自由になってノクチルを新たに始める。勝手すぎるかもしれないけど、返されたくないかもしれないけど、そんなアイドルのことをファンは好きでいてくれないかもしれないけど、私たちはそういうアイドルなんだとノクチルは宣言する。
ノクチルがしたいことをしていたはずなのに、いつのまにかそれらはファンのしてほしいことにすり替わっていて(天檻)、それが嬉しくないわけでもないし、いつの間にか受け取っていた期待や願望へ感謝してないわけでもないけど、「ファンのしてほしいこと」という檻は狭すぎるから、彼女たちはひっくり返したいときにまたノクチルをひっくり返すし、受け取ったものを返したくなったら、相手が受け取りたくなくても返してしまう。そうしないとノクチルが終わらないし、始まらないから。その表明と、あなたたちはどうする?という問いかけが今回のシナリオで描かれたものだと感じる。
そしてその問いかけにどう答えるのか、というところからがワレワレの自由なのではないかと考えている。ノクチルのことが許せなくてもいい。許されなくてもノクチルは何かを返したいときに返しに来る。
透は竜王のことをプロになれと激励しに来たのかもしれないし、将棋なんかやめてアイドル本気で追っかけろよって言いに来たのかもしれないし、なんも考えてないかもしれないし、竜王にはそのどれを選んでもいいという自由があるんだって伝えに来たのかもしれないけど、どういう風に竜王が、ワレワレが解釈するかも好きに決めればいい。何を受け取ってもいいし、何を受け取らなくてもいい。ノクチルというアイドルとの関係を終わらせてもいいし、しばらくしたらまたその関係を始めたっていい。
「何かを返したい相手に嫌われてでも何かを返したい」っていうのは今までのシャニマスに比べても大胆で、身勝手で、『セヴン#ス』での二つの選択肢が頭に浮かぶ。
シャニマスがこれから新しいことをやる上で、ファンとシャニマスの間にある、今まで築かれていた何かを壊してしまうかもしれないし、その過程でファンがシャニマスに悪感情を持つこともあるかもしれないが、それでも進むし、それでもファンを見据えて何かをするということに意味があるはずだという気持ちが、竜王に駒を返す透に託されている。
透が旧友たちに何かを返すというモチーフで、今まで何かを受け取っていたという自覚、それでもファンの期待を背負いはしないという宣言、そして許されたり許されなかったりしながら、許されなくてもその人の方を向いているし、感謝していることの表現をしているのが凄い。(前章と被ったかも)
ファンを裏切るためにしたことではないものの、何かをひっくり返すという行為は今まで心の中にシャニマスのいるところを作ってくれていたファンへの裏切りを含む。
それでも大事にしたい何かのために、今まで築いたものをひっくり返しながら進んでいく。その過程で悪感情を抱いたりすることはあなたたちの欠落ではなく自然なことで(人生にフォーエバーはないので)、嫌われてもしょうがないけど私たちは進むし、ファンのことを見据えて何かをこれからもやっていきますというシナリオは見たことがなくて新しいと感じる。
この新しさをどう受け止めるのか、どう受け止めないのか、それを決めることの面倒くささと楽しさは、この記事を読んでくださっている人ならば分かってい頂けると思う。楽しくなければこんな分量の文章を書かないし、そうはいってもこんな分量の文章を書くのはめんどくさい(読むのも大変だと思います。ありがとう。)。
自由というのはのんびり楽しんでるだけの私のような消費者にとって意外と持て余すもので…。私は決まり切ったお約束の中の安寧の消費も凄く大好きな人間なので(私はπタッチコミュが凄く好き。なんかシャニマス好きな人たちに評判悪いものの)、ブルーアーカイブと反復横跳びしながら少しずつこの自由と向き合って行こうと思う。
いっぱい語るほどでもないが好きなシーンたち
終わり
前回の記事よりも長くなってしまった。この記事は2週間くらいかかったので、前回ほどスムーズにはいかなかった。今回のシナリオはどう受け止めるか迷う部分が結構あって、同じように迷っている人の明かりになれたらとても嬉しい。
ただ、この読む人のためにちゃんと整理されていない記事はやはり読者のためというより私のためにある、という気持ちで書いていると気が楽で、そのくらい身勝手な方が記事を書くことも続きやすいのかもしれない。…なんか考えてると面倒くさくなってくるから、お互い好きにしよう。おわり。