★☆★セヴン#ス雑語りnote★☆★ ※開けたらパンチ
前置き
『セヴン#ス』が面白かったという感想を書きたいが、記事の体裁を整えるのが億劫だな~と思っていた。
ですます調、独りよがりな感想にならないよう伝わりやすいよう書き方を考える、オープニング~エンディングまでの各パートにおいて思ったことを列挙するなど。今回はその点を省いて雑記っぽく、ツイッターに書く程度の書き散らしとして書いてみる。
注意点
・あまり話の筋を通したりせずに思ったことを書いてみるので読みづらい可能性が高い。
・『セヴン#ス』を読んでいない人はまず『セヴン#ス』を読んだほうがよい。
雑感
今までシーズってクリフハンガーで引っ張って来てて、登場してから2年間はこれだったから、強い引きで引っ張りつつ進捗をちょっとずつお見せしていくというのがシーズの形なんだろうな~と思ってたから突然全ての進捗が来てびっくりしたし、ちゃんとそういうカタルシスを感じられるシーンのための前フリだったんだと思ってびっくりしたし、嬉しかった。
自分の中で美琴にもにちかにも求めてることはあった。
美琴:アイドルの完璧なパフォーマンスって一人で完成しようがなくない?客が求めているものを理解して、客の求めているものを満たしつつ、自分のやりたいこのもこなせている、が完璧だと思うけど…。
客の要求を理解した上で、「客なんて知らねぇ!完璧=私の思ったパフォーマンスができたということだ!」が言えるならそれでもいいんだけど、客が何を求めているかに興味を持つところからじゃない?
にちか:ただただ見てて辛いのでもうちょいなんとかなって欲しい。『star dew by me』の真乃みたいに、すごいめぐるちゃんじゃなくてめぐるちゃんが好きなんだって言いたいけど、私は私の好きな顔をしているとか、私が敬意を持てるような性格してるとか、見ていて面白かったり楽しかったりするとか、そういう条件がついた上でしかアイドルを愛せない。
だから楽しいとか面白いとか尊敬できるとか、そういう部分を見せてほしい。にちかを見てて面白いとかが無いわけではないけど、圧倒的に辛いの成分が多すぎる。
ただこういうのを求めるのも自分のエゴだからあんま期待しない方がいいんだろうな~、2年間そういうの無かったし。キャラクターに幸せになってほしいんじゃなくて、キャラクターに自分の思うように幸せになってほしいっていうのはエゴが強いんかなとか、色々考えている中で自分の求めているものがかなり全部載せされたシナリオが来て、とても嬉しいし、なんなら戸惑ってもいる。
「アイドルとは」
美琴さんが、「八雲なみ」というアイドルには何が求められていたのかを考えることによって、帰納法的にアイドルにはどんなことが必要なのかという部分に手をかけていくシナリオはとても上手いな~と思った。美琴さんに「自分を出して」といっても「よくわからない」になるのは明らかだけど、トリビュートギグという仕事のために考える必要が生まれるとちゃんと考えてくれる。
あと、「八雲なみ」を探る上でにちかの協力が必要になり、もともと少しずつ見えてきていたにちかへとより強くアプローチするようになるのも上手。パズルみたい。
にちかから「八雲なみ」への強い憧憬を見ることと、プロデューサーから自分がにちかにとってのアイドルだという話を聞くことが合わさって、このような強い憧憬が自分に向けられているし、向けられることがありうるということに気づいていけるの、気持ち良い。
「ぎゅっ」
好きなシーンその1。にちかはWINGの最後でも「八雲なみ」が抱えていた悲しみ、等身大の人として悩む普通の女の子であることに気づきかけていましたが、このシーンでも、美琴が多くの手間暇をかけ調査をして「彼女でいようとした振り」だと判断した部分をにちかは無意識に好きでいて、完璧なアイドルとしての「八雲なみ」ではなく、普通の女の子だった「八雲なみ」とにちかがシンクロしていてとてもよい。
普通の女の子だった「八雲なみ」とにちかがシンクロしていると何がよいかというと、にちかが憧れていたような輝かしくて華々しいアイドルじゃなくても、悩み多き普通の女の子でもアイドルになれたし、これからにちかもそうなれるだろうと思えるから。
「斑鳩ルカとやりたいか聞いてください…っ」
にちかは目の前にある現実を微妙にずらして見ていることが多く、それは自分もよく分かる行為だからこそそういうシーンでやきもきしてた。
現実をずらして見ているシーンの一例。
美琴さんがこんなせまいステージに立ちたくない"だろう"という自分の独断をもとにせまいステージに不満を抱えている。ただしそれを直接相手に確かめる事ができない。
怖いんだと思う。相手の気持ちを確かめる過程で疎まれたらどうしよう?
「この狭いステージ、どう思います?」とか聞いて「ステージは狭いとか広いとかじゃない」的なことを言われ、ステージを狭さや広さで判断するような自分の狭隘な価値観が相手に曝け出されてしまったらどうすればいいんだろう?
相手を知るためには自分を曝け出さないといけない。まずはそれが怖い。
プロデューサーに対して強く自虐してみせるのは、相手がどう思っているか不安だから。相手は自分のことをよく思っていないかもしれない。有り体に言えば嫌いかもしれない。だから前もって、自分の嫌いなところも、認められないところも口に出しておく。自分が言われたくないような最悪なことばは前もって言っておく。辛いけど、最悪ではない。嫌われているということを予想せず、いきなり自分の行動や価値観を責められるよりは嫌われているということを前提にしておくほうがマシだ。
自分が相手を好ましく思っていても、相手は自分を嫌いかもしれないし、さらに最悪なのは、相手が自分を嫌いというのを知ったところで別にできることはない、ということだ。
好かれるように行動すればいい?自分が思う"好かれるような行動"が相手にとって好ましい言動かどうかなんてわからない。
相手がどんなことを好むのか知ればいい?それで自分の根幹にあるような価値観が、相手にとって好ましくないものだったらどうすればいい?それは好ましく思う相手による、自分の存在そのものの否定に等しい(ように感じる)。
だから相手の気持ちを知るのは怖い。
相手が何を考えているか確かめるという行為、難しすぎないか?
だからにちかは「美琴さんに来るわけない」「もともとは私の仕事」という言葉について、美琴に言い訳することもできない。「もともとは私(というアイドル未満に来た)の(本当のアイドルがやるようなもんじゃない、望ましくない)仕事」が「美琴さん(という本当のアイドル)に来るわけない」という括弧の中身を説明できない。自分の価値観をさらけ出すのは怖いので。
実際美琴がこの括弧の中身聞いても「?」って感じな気もするが。
『セヴン#ス』内で一番好きだったの、このシーン。このシーンはめちゃくちゃ最高だなと思う。最高というのは先述したような恐怖を持っているであろうにちかが美琴の気持ちという現実と向き合う覚悟を決めたこと。尋常じゃなく偉いな、と思う。尊敬する。
シャイニーカラーズのキャラクターの好きなところとして、この子たちいい子たちだ、というのが自分の中である。単に自分の意見を主張しないがゆえに周囲の期待を裏切らない、という意味の「いい子」ではなく、目の前の現実にも人にも真摯に向き合い、悩み、自分の意見を持ち、行動する。それでいて自分の意見に固執したりせず、相手を受け入れる心の大きさもある。尊敬できる人だということ。
これまでにちかや美琴にあまり尊敬を抱いたことがなく、それが勝手ながらに残念だなと思っていたが、ここのシーンは他のシャイニーカラーズのキャラクターを尊敬するのと同じくらい、にちかのことを尊敬したし、雑感でも書いているようにこういうことをにちかには求めていたので、開放感が強かった。
現実を受け止めることにはなんの意味があるんだろうか。現実を受け止めても、現実は変わらない。「相手は自分を好きかもしれないし、嫌いかもしれない」。どちらでもない状態で、「好きかもしれない」という願望に身を浸して何が悪い?「嫌いかもしれない」という諦めに逃げて何が悪い?どちらも何も悪くない。
だが現実を受け止めることに意味はある。現実を受け止めると「選択肢」が手に入る。にちかは美琴さんの本心を確かめ、「美琴さんがルカさんと踊ることを選んだ」という現実を受け止めた。それによってにちかは「美琴さんが自分を選ばないなら、私も美琴さんを選ばない」ことを選ぶこともできたし、「割り切って仕事仲間として接する」ことも選べた。にちかは「選択肢」を得て、その中から「美琴さんが選んでくれるまで頑張る」ことを選んだ。
現実を受け止めないものに選択肢はないのか?あまり無いように思う。「好きかもしれない」という願望に身を浸しているときには「嫌いかもしれない」恐怖が足を引っ張る。「嫌いかもしれない」という諦めに逃げようとしても「好きかもしれない」という期待が心を苦しめる。何かを選ぼうとしても選ばなかった何かが自分を責めてくる。
美琴がルカを選んだという現実を受け止める強さを持ったにちかは、その逆を受け止める事もできる。にちかは美琴を求めていたが、美琴もにちかのアイドルに対する強い想いを求めた。お互いに求め合い、与え合う関係。
ビールケースという2人だけの「ちっちゃい」ステージだけど、「せっまい」ステージに対して感じていたような苛立ちはもう無いのが対比として美しい。にちかは選び、そして選ばれた。
いっぱい語るほどでもないが好きなシーンたち
にちかはこの靴を履こうかどうか迷ってはいたと思ってて、ただいざ履こうとすると自分の側の問題で履けなかった。「履く」「履かない」の選択肢を手に入れるためにはレッスンするしかない。なぜなら「履けない」っていうのは「履かない」ことを選んだのとはちょっと違うから。
ここちょっとよい。ここでもにちかは自分で何かを選ぶために頑張ってるし、プロデューサーさんの想いがにちかと美琴がレッスン場で出会うための一押しになってるから。
それはそれとしてのやつ
最近はあんまりシーズに期待しておらず、ちゃんとシーズのカードを読んでいなかったので展開の良さに比して感情があんまついてきてない部分はある。というか『セヴン#ス』は120%面白いのだが、ここに至るまでの展開のもたつきで『セヴン#ス』の面白さが100%くらいになっていると感じる。
これって2年間かけた意味がある展開なのかは実はよくわからない。2年間溜めた進捗を一気に出したことでおもしろい話になっているので、2年間かかったことそのものにどんくらい意味があるのか掴みかねる。
有り体に言えば、『セヴン#ス』面白かったからって2年間シーズのコミュが次回に続くをやりすぎて読んでて辛いって感じたことが無かったことにはならないよ~という気持ちがある。
2年間シーズの幸せに希望を失わなかった人は本物だな~と思う。シーズのコミュって辛いが多くてあんま読んでて希望を見いだせる感じではなかったので、(あんま読んでないので、セヴンス読んでからの目で読み返したいところではあるが)
そういう人は本物でありつつ、なんか辛いしどこまで読んでも落ち着けるタイミングがない…シーズのコミュ読むのむりぃになった人絶対いるだろと思っているので、シーズの二人がキャラクターとしてみんなに愛されるためにほんとに適切なムーブだったのか…?という疑念は持ってる。この辺は今後の展開とかセヴンスの反響によりけりなんだけど。
この二人を扱うのにリアリティある展開が必要で、それには時間が必要だよねというのも誠実さだけど、ソシャゲでキャラクターを生み出したからにはその子が愛されるように展開考えるという誠実さも求められる(というか私が求めている)ので。2年かかってることでこの二人が愛される機会を少なからず失ってることはどう思ってるの~?というあれがある。
ライブについて
『セヴン#ス』のプラスの要素ライブを見てる時、声優さんのパフォーマンスとキャラクターのズレが気になっている部分があった。
パフォーマンスは楽しいけど美琴さんはまだファンのことちゃんと見えてるキャラじゃない気がするとか、にちかもステージを楽しむような段階には来てないので、ライブを普通に楽しむことそのものが非倫理的な態度なのかな~とか思っていて、でもそこまでは流石に知ったこっちゃないな~の気持ちでライブにいたので複雑なとこはあった。
っていうのがこれからはステージでパフォーマンスする声優さんにだけじゃなく、声優さんが演じるキャラクターにもちゃんと希望を見出してもいいんだという開放感は思いの外清々しい。
終わり
言いたいこと言えた割にそこまで記事書くのめんどくさくなかったので、この方式はまたやるかもしれない。やらないかもしれない。シーズを好きになれそうでよかったです。