取材してもらいました。
皆さんこんにちは、実はついこの前ちょっとしたきっかけがあって取材していただく機会がありました。
そのキッカケとは、佐伯要さん主催のスポーツライター講座に参加している西本清悟さんが、その講座の一環として今回の取材が実現しました。
普段自分の書いているあの恐ろしく読みにくい文章とは全く比べ物にならないくらい読みやすく素晴らしい記事を書いて頂いたのでそれを共有させていただきます!
ここで西本さんの紹介をさせていただきます
西本さんは、東海大学3年で、佐伯要さん主催のスポーツライター講座に参加しておられます。現在は就職活動中で、マスコミ業界や新聞社などを含め業界研究を行われております。
では、以下記事本文です!
~指導者を目指すサッカー青年~
20歳。スポーツ選手ならば、まだまだプレイヤー人生の序章である。だが、この年齢で既に将来監督としてUFFAチャンピオンズリーグ制覇を夢見る青年がいる。
彼の名は、橋本龍来さん。現在、イタリアのペルージャ大学に留学中だが、新型コロナウイルスの影響から日本に一時帰国している。日本では、イタリア在住時から通っていた語学学校であるComitato Linguistacoでイタリア語を学んでいる。彼のこれまでの人生と、今後の展望について話を聞いた。
球技全般が好きだという橋本さん。彼が最初にプレーしたスポーツは、野球。物心がついたときから、野球好きの父とキャッチボールをしていたという。小学校3年生の頃に正式なチームに入部した。橋本さんは、当時のことをこう振り返る。
「長い日だと1日8時間くらい活動がありました。8時くらいに集合して試合して、午後は練習。土日しかない分ハードでした」橋本さんの苦笑いが、当時の練習の厳しさを物語っていた。
小学4年生の2学期、野球を辞めた。だが、橋本さんは既に次のスポーツを始めようとしていた。それが、サッカーだった。その経緯について、橋本さんは「元々野球をやっているときからサッカーは2番目に好きだった。だから、野球を辞めるなら次はサッカーかなって」と答えた。野球を辞めたことは、後退ではなく前進だったのだ。小学4年生の3学期、近所のサッカースクールに通い始め、彼のサッカー人生はスタートした。ポジションは、ゴールキーパー。だが、ここで上海への転校が決まってしまった。この上海への転校が、その後の人生を大きく変えていくこととなる。
上海でも、サッカーチームに入部した。しかし、橋本さんは上海の少年サッカー事情について「日本みたいなチームではなくて、練習も土日しかない。チーム数がそもそも少ないので練習試合もないし、大会も小さいものしかなくて、2週間ほどで終わってしまう。だから、一応入部した程度でした」と教えてくれた。それでも彼がここからサッカーにのめり込んでいくのには、ある理由があった。当時の学校生活について橋本さんは、「学校に行く前の朝6時に、マンションの敷地の下に集合してサッカーをやるんです。学校の昼休みでもサッカー、学校から帰ってきて夕方までサッカー。マンションの敷地内に日本人が多く住んでいたこともあって、みんなで大浴場に行ったりしました。まるで合宿みたいな空間でした」と笑顔で答えてくれた。雨が降っていると、屋根がついているところを探してプレーするほどサッカーが好きだったという周りの友人たち。彼らとの生活が、橋本さんのサッカーへののめり込みを加速させていった。
そんな上海での生活中、テレビでFCバルセロナのパス回しを見た橋本少年はこう思った。「これを選手としても、監督としても実現したい」私は、彼が将来は監督になるという夢を小学5年生で志していたことに驚いた。昔からよく先を見据えるタイプだったのかという質問に対し、「先を見据えるという点では微妙ですが、やりたいことはすべてやりたいみたいな欲求がすごく強いです。それを実行するにはどうすればいいか、みたいなことを考えているうちに必然とこうなっていました」と答えた。この考えが、野球を辞めたあと、すぐにサッカーを始めたことにも繋がっていたのかもしれない。
中学2年の頃に、帰国した橋本さんは文化や風習、常識などの考え方から「やっぱり日本は合わないな」と感じたという。上海にいるときから海外の生活の方が合うと感じていたそうだが、帰国してそれが確信に変わった。そして上海で醸成されたサッカー愛も相まって、ヨーロッパへの憧れが強まっていた。彼は、選手として成長でき、なおかつサッカーを学べる国を探した。この条件に合致したのがイタリアだった。「イタリア人に名将って呼ばれる監督が多いんです。だから、イタリアにはなにかあるんだろうなと」プレイヤーとしてだけでなく、指導者としても成長を。こうして彼は、中学3年生にして将来的な留学を決意したのだった。
中学生時代のクラブチームのコーチとの話し合いの結果、高校からの留学は厳しいと判断。ひとまず日本の高校に通うことを決めた。ここまでサッカー人生において辛い経験がないという彼だが、強いて言うならと話してくれたことがあった。高校1年生の頃、とあるクラブチームに入部した。しかし、監督との考えの違いにより退部。その後もチームを転々としていた。指導者を目指しているからこそ、監督への疑問や不満が募り、信頼を寄せることが出来なくなっていったのだ。そんな高校生活だが、転機が訪れる。3年生の4月、FFCエストレーラ川口に入部し、高校卒業までの最後の1年間をやり抜いた。この1年間について橋本さんは「目標に向かって、しっかりトレーニングを積むことができた。自分としてもやりたいように努力ができました。この1年間はとても充実していました」と話してくれた。目の輝きが、当時の充実度を表していた。
高校3年生の冬から留学までの約5ヶ月間、彼はサッカースクールとゴールキーパースクールの指導にあたった。平均して週2、3回のペース。ここでどのようなことを学ぶことができたかという問いかけに、「実際にスクールがどういう風に動いているのか、どういう風に指導しているのかを知ることができました。現場に行って初めて見えてくる課題も多く、勉強だけをしていても見えてくるものじゃないところも見えたことが良かったです。それに、指導に入るまでの準備や、サッカーの内部以外のチーム運営に関することを知ることができた。大きな経験になりました」と答えた。初めての指導経験を財産に、彼はイタリアの地へ飛び立った。
最後に、今後のビジョンについて質問したところ、「プレーは出来る限り長く続けたいと思っています。自分が一番満足できるところまでやれたらいいかな。指導に関しては、大学在学中にもう一度指導者として携われたら。チームのコーチ、アシスタントコーチでも良い。選手と併行できたら一番良いです。その後は、大学院を卒業してチームを探す。そこで、他の仕事と併行になっても、職に就けたら」と滞ることなく話してくれた。やりたいことをやりたいという気持ちだけではない。彼には道筋がはっきりと見えている。
野球少年だった橋本さんは、サッカーと出会い、上海という地で周りの環境に刺激され、熱烈なサッカー少年となって日本に帰ってきた。子供ながらにヨーロッパ留学を志し、今それを現実にしている。やりたいことにひたすら突き進む。彼が監督となったとき、どんなチームを作るのだろう。そのチームのパス回しが、どこかの国の少年の魂を揺さぶるかもしれない。