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【思考-pt24】海外進学における社会的認識

日本という島国において海外大学へ進学することはしばしば、特別な選択として取られられる事が多い。

特に学歴社会が残っている日本においては「高位の大学」に所属したというステータスは重要な意味を持ち、これは海外大学進学においても影響する。

海外大学進学に置いて、日本では「凄い」という認識が大半を占める。

この認識が今回のキーテーマであり、この認識の変容が良い効果をもたらすのではないかと考えている。

まずこの認識だが、はたして海外大学進学は凄いことなのか?という真実を確認する所が最も大事になる。

そもそもこの文脈における「凄い」とは何か。

先ほど述べた通り、日本においては「高位な大学」に所属することがすごいとされ、日本の入試制度上、高位な大学=入学難易度が高い、偏差値が高い→有名大学

といった認識がある。

ここで疑問に感じるのはそもそも大学に入るということは凄いことなのか?という問いである。

これは大学の存在価値において変動する問いである。

例えば、大学を自分の学びたい専門的な分野を学ぶ場所というように位置づけた場合、重要視される評価項目は「自分の学びたい事を学べるかどうか」という部分になり、入学自体はただのプロセスであり、さほど重要な事ではない。重要視される部分は、入学後の内容であり、その進学が凄いかどうかは本人次第である。

大学に入学すること自体はさほど本人にたいして重要事項ではなく、真に重要なのは大学になぜ行くのか、行く事によって自分にどの様な影響を及ぼすのかであり、ステータスではない。

大学選択は人生の中で大きな選択の一つであるため、自分の行きたいところに行く、自分が価値を感じている所に行くということが最も重要な部分であり、判断軸は常に「自分のために」である。

大学へ行くという事がこのような意味を持っている場合に、果たして入学は「凄い」という意味を持てるのであろうか。

大学に苦労して入れた事はある人にとっては重要な意味を持つが、それはその人の世界の中での限定的な意味であり、他の人にとっては意味を成さない。

大事なのは当人にとってどうか?である。

よって日本では凄いと認識されている凄さ、すなわち入学難易度、偏差値といったものは、真の意味で凄いのか、そもそも大学進学において凄さとは図れるものなのかという点においては疑問が残る。

特に海外大学となると情報量が少ない点や、希少性が日本においては高いこともあり、特別感があり、そこから「凄そう」といった認識が広がる。

海外大学に進学できるのは限られた人間のみであり、かなり「高難易度」な選択である。という認識によって海外大学進学=凄いとなっている。

ここでこの認識を変えるために重要となりそうなのが「難易度」である。

そもそも難易度とは絶対的な物ではなく、相対的なものである。

個人にとってそれはどのような難易度なのか?ということが重要であり、絶対的な難易度は存在しない。つまり、海外と国内で明確に線引きは存在せず、個々の大学、個々人にとって難易度は無数に変動する。

ここで認識といった哲学的な精神的な舞台から現実的な面に話を移したい。

海外の大学と日本の大学における難易度について考えてみると、そもそも海外の大学は日本と異なる入試形態を取っている大学が多い。

例えば自分の行くイタリアの大学においては入試要項に「受け入れ自由」と書かれている。ようするに自動ドアのようなもの。(これを隠してイタリアの大学に通っていますと言うと、すごい!と言われるのが現実である)

また、大学の存在意義が日本とは異なるため、そもそも求める学生も変わって来る。

金銭面だが、確かに海外大学への進学は、国内進学と比べて「距離」を要するため、その分費用は増える。

ただし、現実的な範囲の金額であり、最近では海外大学志望者を支援する制度で費用自体を減らすことも可能であるし、実際の金額を見てもアルバイトをしながら貯金をすれば誰にでも十分に可能性のある金額である。アルバイトであれば誰でも可能である。

このように見てみると、難易度を明確に比較することはやはり不可能であり、個人にとって代わってくるものであり、そしてほとんどの人に可能性が十分にある選択であることが分かると思う。

現実的に見ても海外大学への進学自体が特別凄い事ではない、そもそも一般的に「凄さ」で比較できるものではないというのが伝えたい部分である。

このように海外大学進学を普遍的な選択肢にしたいという目的の中で最初に取り組むべきと掲げたのが「認識」であることには明確な理由である。

最近海外大学進学者が増えてきている事もあり、このような「海外大学進学を普遍的な選択肢に」という活動はかなり増えてきているように感じる。

実際に進学した人が自身の道程を語ることによって海外大学は特別な人だけでなく、全員が平等に持てる選択肢であることを広める活動は最近になって増えているように感じる。

もちろんこれは重要な活動だと思うが、一つ問題点としてあるのが「発信者と受信者の間にある認識の乖離である」。

発信者すなわち進学者は、すでに体験しているため「凄い」という認識を持っていないことが多いが、受信者の認識はそうではない。

例えば、平凡な人間でも進学できました、だから誰でも可能性はあります。というストーリーは確かに事実であり、真実であると思うが、受信者に「凄い」という認識がある場合、このストーリーは普通の人でも努力すれば凄い所に行けましたと変換され、本来重要であるはずの「平凡」であるという事実は、最終的なゴールの進学が「凄い事」である限り、より深みを生み、凄さを際立たせる要素に変換されてしまう。

まるで海外進学することが甲子園に出場することのように認識上捉えられているため、このストーリーは「弱小校が奇跡的に甲子園に出場できた」ストーリーとして捉えられてしまう。

こういった背景があると感じているため、先に取り組むべきは認識の変容だと考えている。

カントの言葉にもある通り、対象が認識に従う。といったように人間は認識次第で受け取る意味合いが異なってくる。

この認識を変えるには、この認識を持っていない者かつ事実を伝えられる人物。つまり海外進学経験者本人であると思う。

ただしここで生じる問題の一つは、この認識の変容は海外進学者本人にとってはプラスにならないどころか、デメリットである点である。

現代が唯物主義的な「表面の花」を重視する、目に見えるもので物事が決まる時代からシフトしている最中とはいえ、まだまだ日本ではこの考え方が主流である。

SNSといったネットの普及もあり、唯物主義、つまり物質、目に見える物、「表面の花」が最も重要とされる世界では、「ステータス」や行為としての「ストーリー」が重要視される。

よって述べた通り、進学者にとっては「甲子園に行けたストーリー」というのは大きなステータスとなり、またその前に平凡からのスタートという要素を付け加えることによって簡単に深みを付けることができる。

これを自らなくそうというのがこの認識の変容となるのでこれが難しい点であると思う。

しかし、その中でもやはり、より多くの人が「自分の歩みたい道を歩める」ということが一番重要な事だと考えており、今海外進学者の人たちが行っている「開示」はこの認識が変わればものすごく大きな効果を及ぼすと思うので、まだ方法はわからないが、このような問題提起をすることで認識について再び問い直し、考え直し、それぞれの未来に向けた選択に対して良いキッカケになればと思う。

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