1997年チャンピオンシップ

家の中を整理していたら、1997年12月から1998年3月までの手帳のメモが出てきました。

4ヶ月間で、チャンピオンシップ、天皇杯、アジアクラブ選手権、スーパーカップ、そしてリーグ戦開幕と、本当に忙しかった時期でした。

もう20年以上前の出来事ですが、記憶を引き出してみたいと思います。

当方のスケジュールを振り返りながら、まず1997年12月におこなわれたチャンピオンシップにフォーカスしました。

1997年12月2日(火)
トヨタカップ(@国立競技場)
ドルトムント(ドイツ) 2-0 クルゼイロ(ブラジル)

この時に、クルゼイロの選手として出場していたべべトが、のちにアントラーズの一員になるとは、全く想像をしていませんでした。

1997年12月4日(木)
ワールドカップ・フランス大会グループ分け抽選会(@マルセイユ)

悲願だったワールドカップのグループ分けが決定。

アルゼンチン、そして93年にウディネでコテンパンにされたクロアチア、ジャマイカとの対戦となった。

1997年12月5日(金)
サテライトリーグ分科会に出席のため、虎ノ門のJリーグ事務局に向かいました。

会議終了後に、翌日のチャンピオンシップ第1戦に備えて、静岡県のホテルへ移動しました。

1997年12月6日(土)
チャンピオンシップ第1戦(@ヤマハ/17,269人)
磐田 3-2(延長Vゴール) 鹿島
[磐田]1分、47分:中山雅史、120分:清水範久
[鹿島]63分:ビスマルク、89分:マジーニョ

先週に開催されたナビスコカップ決勝第2戦では、ジュビロ磐田に連勝(2-1、5-1)して、優勝を勝ち取り、まずは一冠⭐️を獲得していました。

そしてチャンピオンシップでも、同じカード。やってくる手の内は、選手達も嫌という程、理解していました。

精神的に優位な立場で臨みましたが、磐田はしっかりと立て直していました。

前半開始早々、後半開始早々と、慎重にならなければいけない時間に、最も注意しなければいけない中山雅史選手に決められました。

油断をしていた訳ではないと思いますが、ちょっとした事でも、可能性を信じてプレーをしていた中山雅史選手は、神がかっていた。

それでも、この時のチームは、地力があるから、絶対に反撃すると信じていましたた。

その想い通りに、ビス(ビスマルク選手)とマジーニョ選手が決めて、90分の笛が鳴る前に追いつきました。

延長に入り、流れ的には鹿島のイケイケ状態でしたが、磐田は踏ん張って、試合終了間際に清水範久選手の素晴らしいコントロールシュートが決まり、第1戦を落としてしまいました。

凄い試合でした。

負けてしまいましたが、試合後にゴール裏へ挨拶に行った際には、「第2戦は、90分で勝って優勝しよう!」という第2戦のホームゲームに向けて、切り替えようという声が、スタンドのあちらこちらから聞こえました。

その声に励まされて、選手達も悔しさを噛みしめながら、必死になって気持ちを切り替えようとしていました。

絶対に第2戦で、ひっくり返すという想いを持ちながら、鹿嶋へ帰りました。

1997年12月7日(日)
オフ

1997年12月8日(月)
翌日から名古屋出張の為、出勤してJリーグと第2戦の確認をしたり、チームのトレーニングを見て帰宅。

1997年12月9日(火)
スポーツターフ研究会に出席する為に、朝から名古屋市へ移動。

1994年シーズンが、猛暑の為に各ホームスタジアムの芝生が、惨憺たる状況になりました。

カシマスタジアムもかなり痛みましたし、レオナルドのデビュー戦となった三ツ沢球技場では、改修した芝生が全く根付いておらず、ほとんど土のピッチでプレーしました。

この問題を改善する為に、Jリーグ事務局が立ち上げたのが「スポーツターフ研究会」でした。

施設管理者、実際に芝生を管理している責任者、そしてクラブの運営責任者が集まって、情報を共有して、より良いピッチコンディションを維持する事を目指してスタートしました。

当時は、なかなかこういう括りでの集まりがなかったので、とても画期的な研究会でした。

当方も、随分と芝生に関しては、勉強させてもらいました。

1996年に、個人的に勉強に行ったイングランド・プレミアリーグのウエストハム・ユナイテッドでは、現在ノエビアスタジアム神戸で導入されているハイブリッドターフを見せてもらいましたし、カシマスタジアムに導入したスプリンクラーも、実物を見て「進んでいるな」と感じました。

この研究会で、他のスタジアムの方を知る事が出来て、アウェイゲームの時には、スタジアムの事務室にも挨拶に行くようになったり、逆にカシマスタジアムへ見学に来られる連絡があれば、試合を観戦してもらったりしました。

翌日も研究会があり、この日は名古屋市に宿泊。

1997年12月10日(水)
スポーツターフ研究会を終えて、週末の第2戦の準備の為に、大急ぎで鹿嶋に帰る。(と言っても到着は夜)

1997年12月12日(金)
翌日に控えたチャンピオンシップ第2戦の準備の為、カシマスタジアムへ。

表彰式関連の設備が運び込まれたり、特別な試合である事を改めて実感しました。

アントラーズにとって、チャンピオンシップ出場は2回目でしたが、1回目は初年度という事で国立競技場で開催された為、カシマスタジアムでの開催は初。

第2戦は、スタンドを真っ赤にしてもらいたいとチームから依頼があった事もあり、何と入場チケットを赤いビブスにしました。(記念に持っている方も、結構いらっしゃるのではないでしょうか)

赤いビブスに、指定席の番号を一つずつクラブスタッフが、スタンプで押していきました。その数は約1万枚以上......アホでしょ?(笑)でも、当時は「チームとスタンドを盛り上げて優勝させたい!」という気持ちが勝り、誰も反対する人はいませんでした。

まだ収容人数が1万5千人だったから、反対しなかったと思いますが、今のサイズのカシマスタジアムだったら、「勘弁して!」になっていたでしょうね。

1997年12月13日(土)
チャンピオンシップ第2戦(@カシマ/15,276人)
鹿島 0-1 磐田
[磐田]82分:中山雅史

試合の経過は、今さら触れる必要はないので、省かせてもらいます。

ともかく2試合での中山雅史選手のプレーは、ただただ凄かったとしか言えません。

90分で勝利すれば、逆転優勝できるレギュレーションだったので、スタジアムの中は「90分で勝て!」という空気で支配されていました。

1993年のチャンピオンシップ第2戦も、逆転優勝の可能性を残していましたが、先程も触れましたが、試合会場が国立競技場でしたから、この時のカシマスタジアムとは、明らかに違っていました。

やはりいつもサポーターの皆さんと戦ってきた我が家であるカシマスタジアムでの試合は、意欲も漲りますが、その分だけ息苦しさも間違いなくあります。

こんな空気の中で戦えたのは、本当に貴重な経験でしたし、勝つ事の大変さを痛感した試合でもありました。

時間の経過と共に、焦りにはなってしまったかなと思いました。

そして、この試合ではスタンドから観客が乱入して、磐田の表彰式を邪魔してしまったのは、本当に申し訳なかったと、今でも思っています。

1997年12月14日(日)
優勝していれば、優勝報告会の予定でしたが、当然の事ながらお流れ。

昨夜の表彰式の事もあり、出勤して新聞記事にひと通り目を通しました。

そしてクレーム対応。

この日以降、暫くの間は表彰式の事について、お叱りの連絡やお便りなどをいただく事になりました。

クラブとして責任を取らなければいけない事態でしたし、逆の立場だったら、嫌な気持ちになるのは当たり前です。

こういう事は、二度と繰り返さないでもらいたいと願うばかりです。

真の王者(チャンピオン)と言われる為にも!

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