「きみはいい子」;出来るだけ他者に伝わるように書く感想文⑩
「きみはいい子」(小説/2012)
中脇初枝さんによって書かれた、ある新しくできた街の関係者各々が、それぞれの視点から語る小説集。新米教師や近くに住む老人、児童虐待をしてしまう母親などが、それぞれの章の語り部を担う。
とても読み易い作品で、この物語とどこかしら自分自身の過去とリンクする部分を感じてしまう。僕自身は母親に虐待された記憶はないものの、この「痛覚」を感じ取りながら読み進めた作品となっている。
子どもは鋭敏な感覚を持っていると気付かされる。小さな彼らは言葉で上手く表現することに長けていない分、逆に感情を用いて物事をそのまま受け取ることに優れていると思う。逆に大人は言葉ですべてを片付けられるようになり、過去の体験を基に今の状態をカテゴライズしているから、物事の機微をアバウトな認識で捉えていると思う。言葉には人ごとに解釈の幅があるから、認識の不一致としてすれ違いが起こるのかもしれない。
だから僕は子どもは残酷だとそういう論調にはあまり納得が行っていない。感情の制御が出来ないから、思ったことを言ってしまう、感じたままの行動をしてしまう、ただそれだけだと考える。大人がする、電車内で出くわせた「ヤヴァい」、「キモい」おぢさんから、無言で車両をすっと変え離れていくことの方が、僕はよっぽど残酷だと感じてしまう。
この作品を読んで感じたのは、たぶん作者の意図とは少し離れてしまうが、自分の過去の「担任」のこと。
僕の小学校1年生の担任は、ある若い女性の先生だった。彼女は今振り返ると先生になって3年目の方で、僕の記憶がもう定かでない部分があるが、あまりちゃんとしている先生ではなかったように感じる。
やることなすことが初体験で、ドキドキで、刺激に満ちていたと振り替える小学校1年生。その先生が当時の僕の絶対だった。だから僕の友達に、その友人が嫌いだった牛乳を強制的に飲ませ、彼に昼休みを与えないことを、「そんなもんなんだ。」と社会を知った気になっていたことを覚えている。教祖だし、指導者だし、総統で、神だった。
教師が現在では、「先生様」と呼ばれるような職業でなくなっている状況は、この小説の中でも触れられていた。現在、教師の成り手が少なくなってきていると聞く。それは温室で育てられているブランド野菜に、もし少しでも埃が付くと農家を人だと思っていないほどのクレームが付けられることからも忌避されているのだろう。やりがいだけで成り立たなくなってきている現状をどう考えるべきなのだろうか。あの1年2組の担任の先生は、地下鉄沿線沿いの山手の小学校に、僕が2年生に上がるタイミングで転任された。今何をされているのか、今も神様なのか、ちょっと振り返ってしまった。
いつまで経っても親の傘の中に生きている僕。いつかは誰かの傘を担える日が来るのか、そんな日がもうすぐ来そう。
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