見出し画像

政治家としてのリーダー--ヨーゼフ・ゲッベルス博士


画像1


1934年、外交団の新年のレセプション。

人間の偉大さは、すべて血に由来する。本能(insthinct)はその導き手であり、直観(intuition)がその偉大な救いの恵みである。知性は真の天才の作品に部分的にしか貢献しない。それよりも作品の方向性や意味を確認し、後で見る人の目に触れることに重点を置いている。これらの法則は何よりも芸術に適用される。芸術とは人間の最も崇高な活動であり、人間を神の起源に近づけるものである。同じように、偉大な政治の領域にもそれは適用されるが、政治をステーツマンシップ(statesmanship、政治家として立派な態度・精神。Statesmanは、立派で尊敬される政治家の意)と呼ぶのは、そのような政治が実は芸術であり、芸術的創造の本質的な特徴をすべて備えているからである。彫刻家は、厄介な石にハンマーとノミを当てて、神の息吹を吹き込む、生の大理石は芸術的な形となるのだ。画家は色という素材を使って、自然界の高貴な絵を再現、いわば二度目の再現をする。詩人は、基本的に形のない言語の言葉を、詩や劇や叙事詩の描写にアレンジし、そこに人間の善と悪の情念を描き出す。

政治家は、大衆という素材を自由に使うことができる。彼の言葉と仕事の強さによって、彼は彼らを生きている民族の体に成形し、彼の輝かしい計画は民族に国家の目標を示す。これらはすべて、最終的に真の芸術家が自らを道具とみなす直観である輝かしいディスプレイから生み出される。さらに、これらすべての領域には職人が存在し、彼らもまた自分の居場所を持たなければならず、その義務と責任は明確に定めれらている。彼らは勤勉に自分の仕事を学び、もしその職業で優れた人たちに属していれば、その技術について広く価値のある知識を獲得し、必要な時にそれを使う方法を知っている。しかし、彼らがすることは職業にとどまり、天職ではない。彼らはあらゆる芸術活動において才能がある。しかし、本当の芸術家は天才である。

才能と天才の違いはここにある。才能は経験や知識、そして想像力や知性から生み出されるが、天才は神の恩寵から生み出される。天才は世界をひっくり返し、新しい世界を築き上げる。彼らは民族の偉大な導き手であり、時代は天才の元に整列する。彼らは歴史の進路を決める。

すべての人の中には子供が隠れているという言葉は、特に天才に当てはまる。なぜなら、天才は子供のような抑制された気持ちから行動し、そして、子供が通常行う自己認識の欠如によって物事にアプローチするからだ。

聡明な政治家は、可能なことを可能にするために、あえて不可能を敢行する。彼の実際の強さは、一見融通が効かないように見える相違を単純化することである。平均的な知性が、解決するべき課題をみたり認識したりする前に、偉大なリーダーはすでにその解決策を掴んでいるのである。

画像2

アドルフ・ヒトラー、1914年8月2日、ミュンヘンにて。

画像3

帝国首相官邸を訪問[ゴンボス首相]。

第一次世界大戦後、我々ドイツ人が直面した緊急の問題は、国家、政党、組織、個人の集合体から、一様に考え、感じ、行動する国家を形成することであった。この問題は、当初は戦争で表面化することはなかった。しかし、問題が解決されなかったために、最終的には戦争の犠牲となったのである。ドイツは、何世紀にもわたって、その内部分裂のために世界政治から排除されてきた。我々ドイツ人は、宗教的、経済的、社会的なものであれ、内面的な意見の相違を甘受し、それに応じて酷い苦痛を受けてきた。一方、我々より早く世界政治における自らの運命に気づいた他の国々は、世界を支配し始めたのである。

しかし、この状況が継続不可能であることが明らかになったのは、第一世界大戦が始まってからである。それなのに、ドイツ人はこの恐ろしい教訓から学ぶことなく、歴史が要求することとまったく逆のことをしたのである。ドイツ国内での統一に最も強く依存しなければならなかったときほど、あらゆる種類の特殊主義がドイツで猛威を振るったことはなかった。

戦後数年間、ドイツがついに世界の大国の交わりから離れ、地方の孤立に陥ろうとしている様に見えることもあった。国民全体の思想様式を標準化するためのすべての前提条件が欠けていた。実際、当時のワイマール憲法と呼ばれるものは、議会政党を貪欲な受益者とし、この内部の不統一をある適度永続化させるものであった。政府はこの課題から手を引き、ドイツ国外よりもむしろドイツ国内に警戒の目を向けた。その目的は、我々に残された僅かな国内移動の自由と対外的な主権を維持し、保全することであった。

この時期に現れた優秀な政治家にとって、最初の、そして最も困難な試練は、政府自身の中で、ドイツの国際的地位の回復は最初から絶望的であり、その結果、試みられるべきでもないという事実を認識することであった。なぜなら、政府自身がヴェルサイユ条約に調印することでこの国際的地位を放棄し、さらに一歩進んで、この文書の保存を厳しく監視し、これに反対するあらゆる民族運動を自らの存在に対する攻撃と見做して、それに応じて対処していたからだ。

従って、当時、真の政治家は、政党や政府の中にではなく、政府の外部に見出すことができた。この政府は、ドイツ国民の道徳的、社会的、経済的な回復の過程と、これに関連して、彼の理想を反映する真の政府の統合を可能にするために、崩壊しなければならなかったのである。従って、政府との戦いでは、政府内に政府を形成し、実際的かつ組織的な側面に関する限り、すべての法律が試されることになるのである。そして、これらの法律がのちに新政府の基本法となるのである。問題は、ワイマール理論を新しい理論に置き換えることではなかった。いくらよく考えられ、良い意味であったとしても。新しい理論の周りに、この理論に生命と色彩と実質を与える人たちの集まりが必要であった。ワイマールの非政権に対する思想は、その中心に非政権の中に、たとえ反対であっても政府が必要であり、また民族の中に、それを受け入れる民族が必要であるというものであった。この原則に従ってのみ、ドイツ民族の再生のプログラムが動き出すことができたのである。

ここにリーダーの素晴らしい仕事が始まった。

まず初めに、ある意味で、彼の全体的な政治的活動の実際の起源となったいくつかの主要な決定を明らかにしなければならない。すでに世界大戦の無名の伍長として、革命の混乱の中でバイエルンの守備隊に話していたとき、リーダーは輝かしい政治家の絶対確実で主権的な本質を示す一連の決議を行い、それは当時、ほとんど誰にも理解されなかったという事実を通じて、のちに彼の脅威的かつ幻想的な上昇の実際の起源となった。それはまた、彼の頭の中で形作られつつあった世界観の正しさを確認するものでもあった。彼が既存の政党の一つに加わるのは簡単だっただろう。そこでの魅力は、静かで安定した生活と、あらゆる種類の昇進の機会であった。まだ救えるものは救わなければならない。だから必要なのだ、という考えで、痛めつけられた良心を癒すこともできただろう。より小さい悪を選択すること。彼はそのいずれもしなかった。なぜなら、既存のどの政党も、ドイツ国内の精神を克服する可能性はおろか、その保証も提供していなかったからである。しかし、ドイツの統一がなければ、政治家的な意味でのドイツ国家の問題の解決はまったく問題外であった。ここですでに我々は、妥協で仕事の始まりに負荷をかけるよりも、政府、金の力、報道機関、政党に対する何もないところから始まる絶望的と思われる闘いを、むしろ自ら引き受けようとする才能のある人間の本能的な感覚を見ている。

画像4

歴史的な出会い。エデンとサイモンとリーダー。

当時は、政府と一緒に行動することが流行っていた。その理由は二つあった。一つは政府に同調すること、もう一つは政府を内部から改革することであった。リーダーは、この二つのどちらにも固執しなかった。なぜなら、この政府はその構想において間違っており、従って改革することはできず、むしろ真の政府の樹立を可能にするために横槍を入れなければならないことを、彼は知っていたからである。その後、ワイマール体制の内部からの改革が不可能であることを認識し、あるいは認識すると公言して、この体制に外部から率先して反対し始めた人物や政党があった。しかし、彼らは、ワイマール民主主義との暫定的な平和条約の妥協という重荷を当初から背負っていたのである。リーダーだけが、最初の日から最後の日まで、自分が議会制度と協定を結んでいなかったという事実に反対を言及することができ、それゆえ、最後の時に議会に一撃を与える運命にある唯一の人物に見えたのである。

当時の政党や政治家は、国家として民族に語りかけることはなく、国家の個々の部分に語りかけるだけであった。労働者政党は労働者に、ブルジョア政党は中産階級に、宗派政党は宗派に、農民政党は農民に語りかけた。ミュンヘンでの国家社会主義ドイツ労働者党の最初の会合で、リーダーがわずか百人ほどの人々に語りかけたとき、その呼びかけが常に国民に向けられていたことは、傍目には異様で気味悪く映ったかもしれない。彼は、教養ある人々にもプロレタリアートにも話しかけず、大衆の承認を安っぽいお世辞で買うことを拒絶した。今日国家社会主義運動のこうした起源とアドルフ・ヒトラーの実際の指導に立ち戻らなければ、彼の政治家らしいショーの素晴らしさは理解できないが、それはすでにこうした起源に基づくものである。なぜなら、リーダーを変えたのは時間ではなく、時代を変えたのはリーダーだからだ。当時はまだパラドックスのように思われたことが、今日ではとっくに自明になっている。それは、それ自体ではなく、一人の男の明確で妥協のない決断と、それが確立されるまでのタフで執拗な闘いによって、自明となったのである。

画像5

1936年、新年の外交レセプションを終えて。

画像6

リーダーとフォン・ノイラート帝国外相。

画像7

1934年、ベニスでムッソリーニに会うアドルフ・ヒトラー。

画像8

首相官邸にて。リーダーと参謀長ルッツェ。

当時、社会的な主張をするのは安っぽい手口で、その主張が広がれば広がるほど、荒唐無稽なものになる可能性があった。リーダーとその運動は、約束の実現から遠ざかって行ったのである。また、最初の数年間は、おそらくこの方法で信奉者を募る方が簡単であっただろうと認めることができる。リーダーはこれを拒否した。彼は、自分の運動のために、ある程度まで、自分の党と政府の主要な基礎となる哲学的なプラットフォームを作り上げた。この哲学の本質的な特徴は、国家的な原理と社会主義的な原理を組み合わせたことで、極めて単純でわかりやすい方法で、激しい抗争に陥っていた当時の実際の原動力をより高い次元で結合させたことであった。国家社会主義運動が政権を取ったとき、その綱領と理念、旗と名前に関する限り、何も変える必要がなかったという事実は、国家社会主義者の台頭の基礎が、党の正に初期から、いかに見事に、政治家らしく築かれていたかをはっきりと示している。リーダーは、いかなる妥協もしないことを見抜いていた。それは、原則に関する限り、最大の非妥協性と、方法と行動に関する限り、最大の柔和性とを兼ね備えていた。結成の初日から、議会主義を破壊するまで、議会主義との生死をかけた戦いを繰り広げた。マルクス主義政党の恐怖を、慎重で臆病な演説で回避するのではなく、武力には武力をぶつけた。1923年11月8日から9日にかけて、権力を征服しようとした蜂起の最初の大胆な試みが失敗したとすれば、のちの歴史家は、これによって何が達成されたかだけでなく、何が妨げられたかも調査しなければならないだろう。そして、彼らの判断は、リーダーの取った行動を完全に正当化するものであると、今日、すでに言う事ができる。クーデターが失敗した時、ブルジョア政治家は通常どのように行動するだろうか。海外に逃げるか、自分は参加しなかったと言い張るかだ。しかし、リーダーはそうではない!彼は部下たちの前に立ち、被告人の中で最初に立ち、裁判所や政府がかけた金の橋に乗ることを拒否し、何の弁解もせず、自分が政府を転覆させようとしたこと、そして機会があればいつでもまたそうすると公然と告白した。こうして彼は、その時点で明らかに最も危険で破滅的なことを行い、そうすることによって、実際に運動と彼の仕事を救ったのだ。ミュンヘンの人民裁判所で行われた彼の偉大な裁判は、最大規模の政治家らしい行動である。それは、政治的行動のすべての要素を最高の状態で示している。ここでは、大胆さが論理と一致し、率直さが勇気と一致し、危険に対する軽蔑が大胆な行動と一致したのである。それは、すべてを賭けたが故に勝利した、最後の賭けであった。ベルサイユとワイマールの非政権に対する自衛は、ここで高い道徳的原則に昇華され、それまで夢想するだけだった、或いは切望していた何十万、何百万もの男たちを熱狂的な称賛の波で包み込んだ。リーダーは、自分の投獄中に党がたどった道について責任を負うことはできなかった。彼が、釈放後に自分とその支持者を待ち受けている政治家としての任務をどの程度認識していたかは、議会が始めた、表面的には自分のものと似ているように見える統一の試みに、彼が一切関与しなかったという事実が示している。その代わりに、彼は旧運動が始まった時の原則に沿って、新しい運動の創設に取り掛かった。こうして、党の威信を回復するための、犠牲と苦難に満ちた厳しい戦いが始まった。何年もの間、この事業は絶望的であるかのように思われた。この時、国家社会主義ドイツ労働者党は、反対派の憎悪に値すると思われていなかった。外見上はほとんど変化していないように見えたが、党の内部の有機的な発展は、次第に運動とその個々の組織の再建に繋がった。もし、知性、人格、活力のある人々を集める能力によって政治家を判断するならば、リーダーは、この判断を恐れる必要はないだろう。歴史の中で、我々の時代ほど本物の専門家が豊富にいる時代は滅多にない。今日、その存在を確認することは容易である。しかし、膨大な数の信奉者の中から彼らを選び出し、彼らの才能を直感的に認識し、運動の闘争とのちの政府そのものにおいて、彼らの能力に対応する地位を彼らに割り当てることは、より困難であった。

1928年にはまだ12人しかいなかった国家社会主義運動の代表者の数は、その後の2年間でほぼ十倍になった。党は再び大衆の前に立ち、決定的な試練に直面することになった。これまでの他の党と同じように、僅かな官僚ポストを与えられて政権に参加することもできる。しかし、それはまた、始めた闘いを何とか継続し、「すべてか無か!」と言うモットーの元で最後までやり遂げる事もできる。

画像9

フランス外交官フランソワ・ポンセと新年のレセプションでの帝国首相。

画像10

1935年、新年のレセプション。外交団長と話すリーダー。

ここでもリーダーの政治家としての本能が正しい判断を導き出した。闘争は続き、ライプチヒ中央裁判所で行われたドイツ軍裁判では、リーダー自身による合法性の立場の宣言に、その特別な切り札を見いだした。ベルリンの民主的な新聞が裁判の終わりに渋々述べたこと、すなわち、実際の勝者はアドルフ・ヒトラーであり、ドイツの最高裁判所がさらに、法廷と全世界の面前で宣誓して合法性の原則を確認する機会を彼に与えたことを、おそらく体制側の誰もこの裁判の開始時に疑わなかったのである。このことは、これまでの彼の記録からして決して許されることではなかったが、今や彼は共和国に対する闘争を継続する上で常にこれを参照する事ができるのである。これこそが決定的な要素であり、リーダーを敵対者から際立たせているものであった。この政治家らしい洞察力によって、彼は裁判の可能性をその開始時に認識し、敵対者のようにその終了時ではなく、その可能性を認識したのだ。彼は、自分の党の過激派と合法性の原則を貫かなければならないことは当然承知していたが、党が全員一致で勝利するためには、それが絶対に必要であることも承知していたのである。

画像11

リーダーとポーランド外相ベック大佐。

画像12

リーダーに報道を見せる帝国報道長官ディートリッヒ博士。

ブルジョア政党を徐々に解体し、組織的に解散させる事が、次の目標であった。二年後、たゆまぬ努力の結果、彼はブリューニング内閣の打倒に成功した。パッペン政権に対する見かけ上の寛容さは、1932年8月13日まで続き、ここでもまた、真の政治家にとって至高の瞬間が訪れた。この時初めて、中途半端で済ませるか、すべてを求めるかが問題となった。普通の政治家なら、最初の選択を選んだだろう。ドイツの過去の何十もの例がそれを示している。真の政治家として、リーダーは後者を選んだ。彼は、1932年11月の選挙で200万票を獲得し、この偉大で大胆な決定に対する報酬を受けた。そして、かつてないほどの集中力の中で、彼は1933年1月初めのリッペ選挙で政権に最後の猛攻をかけ、その2週間後に政権を握った。

画像14


国防法案交付時の帝国内閣。

ヒンデンブルグとヒトラーの同盟は、復興の最初のシンボルであった。ここでは伝統と革命が握手した。リーダーの卓越した政治的手腕は、真の伝統的権力者との和解によって、大きな流血を伴わない最大規模の革命を実現するという奇跡をもたらしたのである。ここには、先見の明と本能を持つ人間が、生来の法則を自然な結論に導くために最高の行動を取ったという証拠がある。ここでは、一見過激な虚言の侮辱の下に、壮大な変化がもたらされ、世界がひっくり返り、新しい世界が創造されたのである。

ドイツ統一の奇跡はその結果であった。1933年3月21日に伝統的な勢力を政府に引き入れたヒトラーは、次に1933年5月1日にドイツ労働者を政府に引き入れた。戦略的かつ唯一のタイミングでの労働組合本部の占拠は、この国家改造の過程のほとんど必然的な結果であり、ドイツ生活の緊急課題を解決するための4年計画の設定は、遠大かつ大規模なプロジェクトで、緊張せずに冷静に問題に対処する時間を確保するものであった。その後の時間で、リーダーが政府が直面しているごく少数の緊急の問題を選び出し、自分の手に入るあらゆる手段を駆使して、その解決策を見つけようとしたとすれば、その行動は並外れた政治家のものであったと言えるだろう。彼ほど、ヒステリーや焦りとは無縁の壮大なスケールの革命家もいない。歴史を作る政治家が、彼ほど明確かつ意図的に、大袈裟でなく動いたことはないだろう。そして、歴史上、ここほどの外圧の下で奇跡が起きた事があっただろうか。

国際連盟からドイツを脱退させるというリーダーの決定には、大胆さと斬新さが両立した。疑心暗鬼で絶望的な感覚に満ちていたことが、ここでは最高の確信を持って行われた。なぜなら、それは必要であり、危険を冒さざるを得なかったからだ。この記念碑的な決定を、彼の最初の年に、民族自身の投票に委ねるというのは、政治家の行為であった。決定的な時にドイツの軍事的自由を宣言し、それを既成事実として世界に発表したのは、時が熟し、それゆえ行動が必要であるという確信のもとに、政治家が行った行為であった。ここに、彼の真の使命がある。ここには、より高い法則の元に行動する人間の姿がある。ここには、知性からではなく、血から来るインスピレーションを持った人間の姿がある。

画像14

帝国首相官邸にて。

画像15


リーダーを囲むイギリス前線の兵士たち。

画像16

1934年の建国記念日。ベルリン国立歌劇場での催し物。

画像17

集会と集会の間の憩いのひと時。

画像18

1933年5月1日、帝国大統領と帝国首相。

画像19

1934年の豊年祭の際に、ゴスラーの皇居前のリーダー。

画像20


ニュルンベルグで開催された党大会での外国駐在武官たち。

ドイツ国家は、再び自国を自らの力で守る立場にあり、イギリスとの誠実な協定によって海軍の存続を確立し、今日再び他国の中で大国としての地位を占め、ますます全世界での賞賛、あるいは少なくとも羨望を集め、世界平和の最も重要な要素としてますます明確に台頭しつつある--これらは、ミュンヘンの七人党から今日のドイツ帝国のような大国へと導いた、政治家らしい発展の結果なのである。この発展には、多くの決定が関わっている。それは、間違いなく、のちの歴史家が20世紀最大の政治的軌跡と賞賛することになるものだ。ここには、その時々に何が可能で何が不可能であるかということについて、絶対的な感覚を持った人々の結果が現れている。ここには、明確な方向性と目的意識を持った行動が組み合わされている。ここには、奇跡を信じるが故に奇跡を成し遂げた、信じられないほど純粋な政治的本能の働きが見られる。

今日のドイツは、10年前のドイツとは異なる国家を擁している。その強さと信念は、自分が何を望んでいるかを知っているだけでなく、自分が知っていることを望んでいる真の政治家の確実で揺るぎないリーダーシップに負うところが大きい。彼は歴史上の数少ない選ばれし人物に属する。なぜなら彼は、普通の男であるには十分偉大であり、偉大であるには十分普通だからである。

画像21

リーダーの議長のもと、総統府で行われる帝国総督の座談会。

画像22

1934年、日本海軍の使節団を歓迎するリーダー。

画像23

1934年、労働者の日。5月1日、ベルリンのルストガーテンで行われた青年集会。青年たちへの大演説を終え、出発するリーダー。

画像24

リーダーにプレゼントを渡す子供。

画像25

リーダー。

画像26

1923年11月9日の血の旗。

画像27

5月1日、テンペルホーフの野原にて。


*「」、[ ]は原文。( )は翻訳者。