吉川経家が鳥取の英雄である理由
私の生まれ育った山陰の鳥取県は、晴れが少ない地方です。毎日どんよりと曇った空が続きます。大学で京都に住んだ時、なんて晴れの日が多い素晴らしい街なんだろう、と感動しました。特に冬。
東京が大都市に発展した理由の1つに「冬に雨が少ない」というのがあったのではないか、というのが私の説です。(笑)冬に雨は雪となりやすい。
雪が積もると現代ですら交通が寸断してしまいます。戦国時代は寸断どころか陸の孤島となったのではないでしょうか。
越後の龍、上杉謙信
甲府の虎、武田信玄
彼らが屈強の軍隊を率いながら天下を取れなかったのは、雪に前途を閉ざされてしまい、冬に動けなかったからではないか。
戦国時代はプチ氷河期だったという説もあり、温暖化が問題になっている現代よりも2℃ほど平均気温が低かったそうです。
鳥取は、私の住んでいた頃は雪が積もる雪国でした。2メーターぐらい積もるんですよ。多い時は。高校は1時間目と2時間目は「体育」になって全校で一斉に雪かきをする。鳥取城のお堀に囲まれていていたので、雪かきした雪はお堀に投げ入れるます。でないとクルマが乗り入れられない。
高校のほとりには、吉川経家という武将の像が屹立していました。戦国時代後期の鳥取城主で、地元では大変尊敬されている郷土の英雄で、織田信長、豊臣秀吉や徳川家康、西郷隆盛より偉大な人物だと思われています。
◆部下を守るため切腹◆
信長の命を受けた秀吉が鳥取城を攻めた時、 吉川は毛利に指名されて鳥取城に入城しました。自らの首桶を持参して。決死の籠城もむなしく、有名な「鳥取の兵糧攻め」を受けて落城しますが、吉川は自らの切腹と引き換えに城兵の命を助けたのです。
地元で育った子どもたちは、年長者から、
「吉川経家のように男らしく生きなさい」
「潔く生きなさい」
と教えられました。
吉川経家は、切腹にあたり子どもたちに遺書を残しました。
◆自らの人生を「幸せの物語だった」と遺言◆
「とつとりのこと / よるひる二ひやく日 こらえ候 / ひゃう(ろう)つきはて候まま / 我ら一人御ようにたち/ おのおのをたすけ申し / 一門の名をあげ候/ そのしあわせものがたり/ おきゝあるべく候 / かしこ/ 天正九年十月二十五日/ つね家 / あちやこ / 申し給へ/ かめしゆ/ まいる/ かめ五 / とく五」
【現代訳】
「鳥取の事、夜昼二百日、こらえたが兵糧が尽き果てた。そこで我ら一人がご用に立ち、みんなを助けて吉川一門の名をあげた。その幸せな物語を聞いてほしい」(鳥取県立博物館に本物の手紙が今でも飾られています。)
自らの最期に臨んで「その幸せ物語、お聞きあるべく候」と書いた幼い子どもたちへの遺言。自分の人生を「幸せ物語」と言い、それを語り継ぐべしと子どもたちに告げて笑って逝く人生。いつ読んでも涙を禁じえません。
やはり経家はカッコいい。今は城下ふもとの真教寺に篤く祀られています。
(会長・横井)