報われない男
休日、蘇枋が在宅ワークをしていて暇になったので、僕は一人で散歩することにした。
商店街をぶらぶら歩いてポトスまでやって来ると、扉の前でことはが掃き掃除をしていた。
「おはよーことは」
「あら桜、おはよう。お散歩?」
「うん」
「その服、似合うわね」
今日の僕は蘇枋に買ってもらったカンフーシャツを着ていた。
「蘇枋がよく着てるの見てたら僕も欲しくなっちゃって買ってもらったんだ」
「ほんとに二人とも仲良しなんだから。蘇枋とお揃いでいいじゃない」
「いいでしょ」
可笑しそうに笑うことはに僕は自慢げに言った。
商店街を抜けると大きな公園に着いた。
ここは僕のお気に入りの場所だ。
犬とお散歩するお姉さんやジョギングするお兄さん、トランペットを吹くお爺さん。
いろんな人に混ざって歩くのが僕は好きだった。
公園の中心から少し離れたところに屋根のあるベンチがあって、イーゼルに向かって絵を描いている人がいる。
遠目からなんとなく見覚えがある人で、僕が歩いて近づくとやっぱり思った人だった。
僕の足音に気づいたようでその人、棪堂はイーゼルから顔を出して僕を見た。
「わぁー桜じゃん」
満面の笑みを向ける棪堂に、自分でもわかるくらい好かれているなと感じる。
「珍しく一人?」
「うん。蘇枋は家で仕事してるよ」
「そうか、なら俺と一緒に過ごそうな」
「その絵、見てもいいの?」
棪堂の戯言は聞き流して、僕はイーゼルからはみ出して見えるキャンバスを指差して聞く。
「ええ、俺の絵気になる?いいよ」
棪堂が描く絵を僕は全く想像できなかった。
僕はイーゼルの後ろに回り込んで絵を見た。
そこには燃え盛る炎を纏ったような、男らしい人物が描かれていた。
赤系の色に包まれたその男は拳を振るっていて、唯一はっきり見える顔は血まみれなのに、目を輝かせて笑っている。
「変なの。何で笑ってるの?」
思ったことが口から出ていた。
こんなに血を流しているのにどうして笑っているのだろう。
「はは、これはなあ、コイツが最高に楽しんでいる時の顔なんだ」
棪堂は嬉しそうに、でもどこか遠い目をして言った。
「これ、俺の惚れてる奴でさ。コイツがこんな顔したのは一度きりしか見たことがねえ。アイツと…梅宮と殴り合ったときだ」
「うめみやってあの?」
「そうだ。あの梅宮だ」
信じられなかった。
人を落ち着かせるような優しい瞳を持つ彼が、殴り合いなんてするはずがない。
「梅宮は殴り合いなんてしないよ」
「昔の話さ。コイツと梅宮は敵対同士で、一度だけ本気でぶつかった時がある。それを俺はそばで見てたんだ。特等席だったなあ」
棪堂は懐かしむように目を細めて語る。
「コイツはさ、本気で喧嘩している梅宮が好きだったんだ。炎のような梅宮のことが。俺と同じさ。俺はこの絵ように炎のようなコイツが好き。でも、コイツは変わった。梅宮と喧嘩してから、コイツは梅宮の全てを受け入れるようになった。喧嘩してない梅宮のことも優しい梅宮のことも、今のコイツは梅宮の全部が好きなんだ」
切ないってこういう表情を言うのかな。
僕は棪堂の顔を見ながらそう思った。
「俺はまだ変われてない。今でもコイツのこういう顔を求めてる」
棪堂はキャンバスの絵を柔らかい目で見つめてそう言った。
「好きなんだね」
棪堂の目を見て、僕は自然とそう呟いていた。
「ああ、ずっと好きさ」
しばらく沈黙が続いて、僕は気まずくなってなんとなく棪堂の名前を呼んだ。
「えんどー」
僕の呼ぶ声に、棪堂は現実に引き戻されたようにハッとして僕を見た。
「わりいな桜、長々とひとり語りしちまって。飽きちまったよな」
「‥‥‥」
「どした?」
何事もなかったようにケロッとしている棪堂に僕は何か言いたかった。
考えている僕の前に棪堂はしゃがんで顔を覗き込んできた。
「僕、また会いに来るね」
棪堂の青い瞳と目が合い、咄嗟に出た言葉がそれだった。
「はは、桜は優しいな」
笑いながら僕の頭を撫でる棪堂に対して、僕はなんだか悔しい気持ちになった。
⬜︎
蘇枋と夕飯を食べながら、僕は今日あった棪堂との会話を思い出していた。
「えんどーって好きな人いるんだね」
「棪堂さん?」
「うん、今日公園で会って好きな人の絵を描いてた」
「へえ。どんな絵だったの?」
「血まみれの顔で笑ってる男の人の絵だよ。昔、うめみやと殴り合いしてたんだって」
僕の言葉を受けて、蘇枋は少し考える顔をして口を開く。
「………それってもしかして焚石先生のことじゃない?」
「たきいし?」
「うん、桜君は会ったことないけど、焚石先生もうちの病院の主治医をしててね、梅宮さんと同じ外科の先生だよ」
蘇枋が知っている人で、しかも僕がお世話になった病院の先生だなんて。
意外と身近な人なので驚いてしまう。
「うめみやとその人は今仲良しなの?」
なんとなく答えはわかっているけど聞いてしまった。
「う〜ん、これはあくまで噂なんだけど二人は付き合ってるって聞いたことがあるよ。桜君がさっき言ってた殴り合いの後に、二人は和解したとかで。棪堂さんは焚石先生の付き人みたいにずっとそばにいたから、いろいろ思うところはあるだろうね。ほんとのところはわからないけど」
たぶん棪堂は噂も、本当のことも全部知っているんだろうなと僕は思う。
全部知ってて、それでも変われずにいるんだ。
僕の胸はギュッと苦しくなった。
棪堂の切ない顔が頭の中にずっとチラついて離れない。
「棪堂さんのこと、心配?」
柔らかい口調で蘇枋が尋ねる。
「う〜ん、心配なのかな。よくわからないけど、今日のえんどーは僕が見たことのない顔をしてたから。なんだからしくなかった」
「そっかあ。棪堂さん、桜君相手だとつい色々話しちゃうんだろうね」
「なんで?僕なにもしてないし、なにも言えなかったよ」
「聞いてくれただけで嬉しかったと思うよ。それに桜君、君は聞き上手だってこと、覚えておいてね」
「聞き上手?僕が?」
「うん」
にっこり笑う蘇枋の顔を見て、僕はくすぐったい気持ちになった。
「僕、またえんどーに会いに行くって約束しちゃった」
「そっか、それじゃあ今度お菓子作って持っていってあげようか」
「うん、そうだね。きっと喜んでくれる!」
蘇枋の提案で僕の心は一気に晴れやかになった。