見出し画像

「つなげる」と「育てる」 -あらきひろみちさんのコルゲートハウス-

まずはじめに夢を描くことです。


-Followed by English Translation-


__東三河にある5つのコルゲートハウスの一つ、田原市中山町に建つあらきひろみち邸コルゲートハウス。建物の正面には「まずはじめに夢を描くことです。」と故あらきひろみちさん(1935-2006)が手描きで描いた看板が掲げられ、訪れる者を迎えてくれます。このコルゲートハウスは、高校の美術教師であり、美術家として様々な文化芸術活動に携わったあらきひろみちさんが、自宅の敷地に建てたセルフビルドによるアトリエです。完成したのは川合健二さんが亡くなる1年前の1995年。ドーム状のコルゲート鋼板の屋根には断熱のための蔦が青々と全体に茂り、風に揺れています。
 
あらきひろみちさんは川合健二さんとの30年以上にも渡る交流の中、コルゲートハウスと川合健二さんを敬愛し、学び、幾度となく川合邸を訪れていました。そしてついには自分流のコルゲートハウスを建て、完成させました。川合邸のコルゲートハウスが楕円型で砂利の上に置かれているのに対してあらきひろみち邸は、コンクリートの基礎の上にかまぼこ型にコルゲート鋼板が組まれています。
 
内部は半分は吹き抜け、もう半分は2階建て構造で、階段や棚、置かれる椅子に至るまで、木造の内装は全て自身の手で作られたものです。この建物の中にいるだけで、あらきひろみちさんのジャンルを超えた多様な創作活動と、何事も柔らかく自由に受け止める寛容な感性が感じられ、無条件にワクワクします。
今回のインタビューは、そんなあらきひろみちさんの奥様の荒木佐智代さんと、あらきひろみちさんと交流があった地元在住のエッセイスト、小川雅魚さんにアトリエにお越しいただき、あらきひろみちさんのこと、川合健二さんと花子さんとのエピソードなどについてお話を伺いたいと思います。
 
荒木佐智代(あらき さちよ) 
故あらきひろみちさんの妻 愛知県田原市出身
小川雅魚(おがわ まさな) 
エッセイスト 元椙山女学園大学国際コミュニケーション学部教授 愛知県田原市出身 著書 「潮の騒ぐを聴け」/風媒社・「金曜日の戦い」/風媒社


健二さんと花子さんとの出会い 


__ひろみちさんと川合さんはどんなご縁で交流が始まったのですか?


荒木 : 随分昔なので定かではありません。私はいつもひろみちさんに付いて行くばかりでそういうことは記憶があまりないのですよ(笑)
 
__今のコルゲートハウスが建つ前にここに建っていたのはバックミンスター・フラー考案の「ジオシテックドーム構造」で作られたドーム状のアトリエでしたね。それが建てられたのが1974年だったので、健二さんと出会ったのはそれ以後でしょうか。
 
荒木 : そうですね、旧ドームは木造で雨漏りなどもあり、老朽化してくることを考える頃に「ドラム缶みたいな変わった家がある」と、どこかで聞いてあちこち探して回った記憶があります。健二さんと出会った経緯は遠い昔のことで詳細は分からないのですが。川合邸での記憶として印象深いのは「みかん畑」ですね。コルゲートハウスの奥の敷地は見渡す程にずーっとみかん畑でした。私が訪ねていくと、花子さんはいつもお百姓のような格好をしてみえましたよ。晩年の頃は帰り際、仏様にと言って庭にある柴を折ってくれてそれをもらって帰った、という思い出があります。
 
 
__花子さんの当時の印象はどんな様子でしたか?


荒木 : 何事においても健二さんの良き理解者、という感じでした。それで、花子さんご自身もものすごく勉強されていました。私はというと、ひろみちさんのやっていることにはあまり干渉するタイプではなかったのですが、花子さんは健二さんの研究や色々なことを一緒に勉強している様子で、専門的なことも私たちによく話してくれていましたね。
 
玄関を入ると、こたつがあってね、室内には本がたくさん積んでありました。そう、色々なものがとにかくたくさん積まれていましたね。そういうところはひろみちさんとも良く似ています(笑)。それでも、欲しい本やものはどこにあるかがすぐに分かるんですよね。
照明器具(ルイス・ポールセンの「アーティチョーク」やカスティリオーニの「スプリューゲン ブロー」など)が素晴らしくて。それから冷蔵庫などの家電製品は全て外国のもので、すごい!と感動したのを覚えています。花子さんはいつもにこにこして温かくて、誰に対しても親切な態度は一緒でしたね。
 

知の喜び  ー夏の炬燵ー


__健二さんが亡くなる年の1996年の夏、小川さんはひろみちさんと一緒に川合健二邸に訪れていますね。その時感じたことを、著書「金曜日の戦い」(風媒社)の中に収められている文章「夏の炬燵―テクノロジーの詩学、あるいは川合健二さんのこと」として残されています。あらためてその時のことをお話しいただけますか?
 
小川: 1996年の8月、ひろみちさんから連絡があって「お前に会わせておきたい人がいる」と言われて、2人で出かけて行きました。川合邸に着いて中に入ると1人用の小さな炬燵が室内の真ん中にあってね、その奥の方は本やものがたくさん積まれていてそれ以上は行けない状態で、それでも本を探しに行く時は獣道みたいなところを通って行くという、そんな様子でした。第一声は「小川くん、歳をとるとね、夏でも寒いんだよ。まぁ座んなさい。」と。
 
炬燵の上には色々な書類やら封筒やらが雑然と置かれていてね、ふと見るとクリントン大統領からの手紙がある。えっ!?と思って「クリントン大統領ってあのクリントン大統領ですか?」って聞くと、「そうだよ。礼状なんだ。」と健二さん。その隣にはNASAからの手紙があったりね。もう全然スケールが違うんだよ。世界のトップのあちこちと直にやりとりしているわけ。何だ!?この人!って思いましたよ。
 
荒木 : 健二さんはすごく小柄な人でね、本当にお茶の水博士みたいでしたよ。
 
小川 : 容貌はというと、パガニーニのようなんだよ。19世紀のイタリアのヴァイオリニスト、パガニーニは背の大きい人でしたが、健二さんの顔は晩年のパガニーニを思わせるんです。魔術師と言われたパガニーニ、健二さんもむしろ魔術師だな、と思いました。健二さんの話がとにかく面白かったなぁ。
 

―振り返ると4時間ほど、花子奥さんが淹れてくださったコーヒーを飲んだり、家の中を案内してもらったりしながら、川合さんの話を聞いたのだが、その業績のすごさはむろんのこと、その夏の午後を私がいまも掛け替えのない時間であったと愛惜してやまないのは、その話が一種の詩、ポエトリーになっていたからである。それはしかし、甘美な叙情詩ではなく、そう、フランスの象徴主義の詩人ロートレアモンの有名な詩句「解剖台の上のミシンと蝙蝠傘との偶然の出会い」そのままの、ある意味きわめて暴力的な詩であった。その暴力性ゆえか、個々のそれは憶えていないのだが、何度も繰り返し、ある事柄から別の突拍子もない事柄に話が飛んで驚かされ、訳を聞くとうーんと唸らされ、その度に私は「このじいさんすげえなあ!」と感嘆したものである。ある意味酔っていたのかもしれない。―

小川雅魚著 「金曜日の戦い」 “夏の炬燵―テクノロジーの詩学、あるいは川合健二さんのこと”  / 風媒社


ひろみちさんと健二さんと石山修武さん


__ひろみちさんがコルゲートハウスを建てる前の旧ドームは、建築家であり、早稲田大学理工学部名誉教授の石山修武さんがこちらに来て建築の指導をしてくれたそうですね。石山さんは20代の頃から健二さんに注目をしていらっしゃったとのこと。
 
小川: 3人の出会いの経緯は詳しく分からないのですが、私が聞いた話では、石山さんが健二さんのところに初めて会いに行った時、「健二さんの言っていることが分からない」と、こうなったらしいです。つまり石山さんは建築界のアカデミックな世界にいるのでアカデミックな言葉と論理の組み立てで語ろうとするんです。一方、健二さんは全くの独学だった為、アカデミックな背景がないので言葉が合わないんですね。
 
それで、何かのタイミングでひろみちさんが同席した時に、ひろみちさんが健二さんの言っていることを石山さんが理解出来るように翻訳するんです。「これは、これこれでこういうことです」って。それから、石山さんは健二さんに会いに来る時には必ずひろみちさんに連絡して会いに来るようになった、という関係だったようですよ。
 
__石山さんはその後、建築家集団DAM・DANを率いて新城市の「幻庵」や長野県阿智村の「治部坂キャビン」、田原市の「望遠鏡」など、多くのコルゲートハウス建築に携わっています。


流派や流れ、カテゴリーの中ではなく、ただひとつそこにある


__石山さんにとって、健二さんは「師匠」のような存在だったのでしょうか?

小川 : 師匠ではないね。言うならば「私淑」。私が松山俊太郎(※)に私淑したように。川合健二さんのことは、建築家の中でも一般的なアカデミズムの中にいる人は知らない人が多いんじゃないかと思います。ちょっと他とは違う、面白いことはないかなって自ら探している人は「こんな人がいる!」と発見して知る、そんな位置にいます。流れとか、流派とかじゃなくてポンとそこにひとつ、在るのですね。「建築家」と言うカテゴリーで言うと有名な人のことは多くの日本人は知っているのですが、健二さんのことは、ジャンルやカテゴリーがない、肩書きがないので「知り得ない」のではないかと思います。
 
※松山俊太郎(1930〜2014) 東京出身のインド学者。幻想文学研究家。


__健二さんに直接お会いした小川さんが羨ましいです。

小川 : その日の4〜5時間がとにかくもう楽しくてしょうがなかったよ。
「小川くん、ボクはね、発明家じゃないんだよ。こっちに確立された技術があって、それとこっちにまた別のジャンルの確立された技術がある。ボクはそれとこれをね、こういう風に使えば面白いんじゃないか?とつなげただけなんだ」と言うんです。それを聞いてすごい!と思いました。健二さんは結び付ける人なのだ、と感じます。


本物をみなさい


荒木 :
ひろみちさんは「本物をみなさい」と、口癖のようにいつも言っていました。

__そのような「本物」を見る目が周りの人の「本当の」才能を育て導く、みんなの先生だったのですね。
高校の美術教師として生徒達の創造性を励まし、地元で芸術を志す人を導き、音楽演奏会を根付かせ、渥美窯の復興に尽力されるなど、様々な芸術と人と社会をつなげた文化芸術活動への功績を上げたら本当にきりがありません。
 
ひろみちさんが亡くなって今年の7月でちょうど17年が過ぎようとしていますが、ひろみちさんが残したコルゲートハウスはここに残り、川合健二邸コルゲートハウスと同様に、これからも私たちに出会いを届け、多くを学ばせてくれることでしょう。


制作 / FOOD FOREST


“Connecting” and "Growing" -Hiromichi Araki's Corrugated House


"First of all, you need to create your ouw dream."

One of the five Corrugated Houses in Higashimikawa, the Hiromichi Araki Residence Corrugated House stands in Nakayama-cho, Tahara City. The signboard, hand-painted by the Hiromichi Araki (1935-2006), welcomes visitors to the front of the building and reads, "The first thing to do is to draw a dream. This Corrugated House is a self-built atelier built on the site of his home by Hiromichi Araki, a high school art teacher and artist who was involved in various cultural and artistic activities as an artist. It was built in 1995, one year before Kenji Kawai passed away. The domed corrugated steel roof is covered entirely with ivy for insulation, lushly overgrown and swaying in the wind.
 
During the more than 30 years of interaction with Kenji Kawai, Hiromichi Araki respected and learned from him and his Corrugated House, and visited the Kawai residence many times. Finally, he built and completed his own style of Corrugated House. While Kawai's corrugated house is oval-shaped and placed on gravel, Hiromichi Araki's is made of corrugated steel plates in the shape of semicylinder on a concrete foundation.
 
Half of the interior is an atrium, the other half a two-story structure, and the entire wooden interior, from the stairs and shelves to the chairs on which they are placed, was created by  Hiromichi Araki himself. Just by being inside this building, we can feel Hiromichi Araki's diverse creative activities that transcend genres, as well as his open-minded sensibility that takes in everything softly and freely, which is very exciting to us without any conditions.
In this interview, we would like to ask Hiromichi Araki's wife, Sachiyo Araki, and a essayist, Masana Ogawa, who lived locally and had a relationship with Hiromichi Araki, to visit our studio and we would like to ask them about Hiromichi Araki, episodes with Kenji Kawai and Hanako, etc.

Sachiyo Araki
Wife of the Hiromichi Araki Born in Tahara City, Aichi Prefecture, Japan
Masana Ogawa
essayist, former Sugiyama Jogakuen University, International Communication. Born in Tahara City, Aichi Prefecture, Japan
Book "Shio no sawagu wo kike" /Fuubaisha ・ "Kinyoubi no Tatakai " / Fuubaisha
 

Meeting with Kenji and Hanako


__how did Hiromichi-san and Kawai-san get to know each other?
 
Araki: It was a long time ago, so I am not sure. I always just followed  Hiromichi around, so I don't have much memory of those things.

__Before the Corrugated House was built, there was a dome-shaped atelier here that was built based on the "geositic dome structure" originated by Buckminster Fuller, wasn't it? It was built in 1974, so I guess it was after that when you met Kenji.

Araki : Yes, I remember hearing from somewhere that "there is an unusual house that looks like an oil drum" when we were thinking that the former dome was made of wood and had leaks, etc., and was getting old, and we looked around for one here and there. I don't know the details of how we met Kenji, though, as it was a long time ago. One of my most impressive memories of the Kawai residence is the "mandarin oranges field. The grounds behind the Corrugated House were a field of mandarin oranges as far as the eye could see. When we visited them, Hanako was always wearing a farmer's outfit. I remember that in her later years, when we were leaving, she broke a bush in the garden and gave it to us as an offering to our ancestors.


__What was your impression of Hanako at the time?

Araki : She was like a good partner for Kenji in everything. So, Hanako herself studied a great deal. I was not the type to interfere too much in what Hiromichi was doing, but Hanako seemed to study Kenji's studies and many other things with him, and she often told us about his expert knowledge.
 
When we entered the entrance, there was a kotatsu -a heating table covered with a blanket-, and there were numerous books piled up in the room. Yes, there were a lot of things piled up in the room. That part is very similar to Hiromichi. Still, he can easily find out where the books and things he wants.
 
The lighting fixtures -such as the Louis Paulsen "Artichoke" and Castiglioni "Sprügen Blau"-were amazing. And all the appliances, including the refrigerator, were imported, which was amazing! Hanako was always smiling and warm, and She was equally kind to everyone.
 

The Joy of Intellectual Learning - KOTATSU in Summer –


__In the summer of 1996, the year Kenji passed away, you and Hiromichi visited the Kenji Kawai residence. You wrote about what you felt at that time in your book "Kinyoubi no tatakai" -Huubaisha- titled "Natsu no kotatsu -technological poetics or Kenji Kawai. Could you tell us about that time again?

Ogawa : In August 1996, Hiromichi contacted me and said, "There is someone I want you to meet," so we went out together. When we arrived at the Kawai residence and went inside, there was a small kotatsu for one person in the middle of the room, and in the back of the room, there were so many books and things piled up that we could not go any further. His first words were, "Mr. Ogawa, when I get old, I feel cold even in summer." And then, "Well, please sit down."
 
On top of the kotatsu, there were various documents, envelopes, and other things in a mess, and when I looked down, I saw a letter from President Clinton. "What?" I asked him, "Is that President Clinton? I asked him, "Yes, that's right. It's a letter of acknowledgment," Kenji said. Next to it was a letter from NASA. His sense of scales was totally different. He is communicating directly with the top people in the world. "What is this man? "I thought to myself.
 

Araki: Kenji was a very small man, really like *Dr. Ochanomizu.

*Scientific guardian of Atom in Osamu Tezuka's "Astro Boy" series


Ogawa :
In appearance, he looks like Paganini, the 19th century Italian violinist Paganini was a tall man, but Kenji's face reminds me of Paganini in his later years. Paganini was said to be a magician, I thought Kenji was a magician, too! Kenji's talk was absolutely interesting.

I spent about four hours listening to Mr. Kawai's talk while drinking coffee made by his wife, Hanako, and being shown around the house. Not only was it an amazing accomplishment, but the reason I still remember that summer afternoon as an irreplaceable time is that it was a kind of poetry, It was not, however, a sweet lyrical poem, but a very violent poem in a sense, just like the famous French Symbolist poet Lautreamont's famous line, "The Chance Encounter of a Sewing Machine and an Umbrella on an Operating Table. Perhaps because of the violence of the poem, I do not remember the individual verses, but I was surprised when the story jumped from one thing to another unexpected thing over and over again.When I found out the translation, I was surprised at the content of the story,and each time I marveled, "This old man is so amazing! In a sense, I may have been drunk.

“Kinyoubi no tatakai " by Masana Ogawa, from "Natsu no kotatsu - Technological poetics, or about Kenji Kawai" / Huubaisha


Hiromichi,Kenji Kawai and Osamiu Ishimaya


__I heard the architect and professor emeritus of the School of Science and Engineering at Waseda University,Osamu Ishiyama, came here to give architectural guidance for the old dome. Ishiyama had been interested in Kenji Kawai since he was in his twenties.

Ogawa: I don't know the details of how the three of them met, but what I have heard is that when Ishiyama went to see Kenji-san for the first time, he said, "I don't understand what Kenji is talking about," and this is what happened. This means that Mr. Ishiyama is in the academic world of architecture, so he tries to speak in academic language and logical constructs. On the other hand, Kenji was completely self-taught and had no academic background, so his words did not match.
 
So, when Hiromichi joined the meeting at some opportunity, Hiromichi would translate what Kenji was saying so that Ishiyama could understand it. After that, when Ishiyama would come to see Kenji, he would always contact Hiromichi to come to see him, and that was the relationship between the two of them.

__Ishiyama has since led the architect group DAM・DAN and has been involved in the construction of many corrugated house buildings, including "Genan" in Shinshiro City, "Jibuzaka Cabin" in Achi Village, Nagano Prefecture, and "Telescope" in Tahara City.


Not in a school, stream, or category, but just only one there.


Ogawa : Kenji was not his master. If I had to say it, I would say "adoration".-just as I was privately endeared to *Shuntaro Matsuyama. I think there are many architects who are not familiar with Kenji Kawai who are in the general academic world. Those who are looking for something a little different and interesting on their own will discover and learn about him. and they are in such a position to discover and know. It is not a trend or a school, but one that just exists there. In the category of "architects," many Japanese people know about famous people, but I think that Kenji is "unknown" because there is no genre or category for him, and he does not have a specific title.

 *Shuntaro Matsuyama ”1930-2014” Indologist from Tokyo. Scholar of fantasy literature.


__I envy you having met Kenji in person.

Araki : Hiromichi always said, “See the genuine thing”
 

__Such an eye for the " genuine" nurtured and guided the " genuine" talents of those around him, and he was a teacher to all.
As a high school art teacher, he encouraged the creativity of his students, guided those who aspired to art in their hometowns, rooted music concerts, and devoted himself to the restoration of the Atsumi old Kiln, to name just a few of his many achievements in cultural and artistic activities that connected various arts, people, and society.
 
It will be 17 years since Hiromichi passed away this July, but the Corrugated House he left behind remains here, and like the Kenji Kawai Residence Corrugated House, it will continue to bring us the opportunity to meet people and learn a lot from them.


いいなと思ったら応援しよう!