オリジナル脚本 タイトル  綺麗

登場人物
 
神崎 智也(21):大学入学も決まっていた矢先、恋人であった繭を事故で無くす。大学は少々通うも、2年間休学。その後、3年目で大学に通う。文野サキと交際中。
嶋 高戸(21):智也と高校の同級生。智也と共に同じ大学へ進学を決めており、休学などもなく、3学年目。
天川 繭(18):智也、高戸の同級生。智也と待ち合わせをしている際、横断歩道を女児が渡っており、そこにトラックが突っ込む。危機を察し女児を救出するも、自分がトラックにはねられ、他界。物語には、回想のみの登場。
文野 サキ(21):高戸と同じ学年。智也の休学から復帰した後に出会い、恋人になる。智也への連絡はまめで、品性のある言葉遣い、行動の育ちの良さが伺える。
藤原 昭二(32):遥香の父。千夏の夫。完全リモートワークにより、都心から離れた都内に戸建てを購入。娘である遥香のために、手術を行うべきかの決断を迫られている。
藤原 千夏(30):遥香の母。昭二の夫。幼い遥香を見失い、見つけた時には事故の後だったため、自分の監督不行き届きさを強く責めている。上品で凛とした、落ち着いた女性。
藤原 遥香(6)4歳未満ほどの年齢の際、母とはぐれ一人横断歩道を渡り、事故に合う。幸い、繭に救われ、軽症で済んだ。その後、呼吸器官系の癌を発症。元々身体も小さく、まだ幼い本児は、長時間の手術に耐えられず、術中に命を落とす可能性を危惧され、投薬治療に留まっていた。
看護師(35):遥香の担当看護師。
医師(38):遥香の担当医師。
友人A(21):高戸の数多くの友人の一人。
友人B(21):高戸の数多くの友人の一人。
友人C(21):高戸の数多くの友人の一人。

あらすじ
〇大学入学を目前に恋人である繭を事故で失った主人公、智也。その繭の死も、自分との待ち合わせの最中の出来事で、自責の念に駆られ自暴自棄になっていた。事故から3年経とうとする頃、大学復帰をした智也。日常を淡々と熟すことで、哀しみから逃げようとしていた。しかし、いつの日か、繰り返し繭の夢を見るようになる。その夢を「暗示」と捉え、友人の高戸に相談。矢先、繭の救った女児の遥香が、呼吸器官系の癌を患っていると、藤原夫妻から連絡を受け取る。現実を受け入れきれず、再度自暴自棄になる智也。壊れかけの精神状態の中、智也は様々な決断を下し、自分やその周りの人たちと戻らない過去へ向き合っていく物語。

〇あの日から夢を見るようになった。彼女の夢を。(以後会話ではなく、動きや心情。目線は智也の主観。)
智也:汗を拭い、足首まで浸かった川の水の冷たさを手で組み取り、確かめる。その直後、額や頬に雫が跳ねた。
繭:意地悪く無邪気に笑い、智也にもう一度、手で飛沫を起こし川の水を掛ける。
智也:繭の笑う様子を見つめ、ふと彼女の声がないことに気が付いた。一瞬疑問を抱き、呆然としていると、油断の隙を突かれ繭から顔に水を掛けられた。バランスを崩し、尻もちを着く智也。
繭:川で座り込んだ智也を見て、大笑いし手を差し伸べ、話し掛ける。
智也:しかし、口の動きだけで、繭の声は聞こえない。もう一度、声が聞きたい。
 
〇智也のアパート。食べ掛けの弁当や紙くず、蓋の開いたペットボトル等、床やちゃぶ台机に散乱し、部屋は荒れ果てていた。インターホンが鳴るも、智也は抜け殻のようにピクリともしな
い。何もかもを見放し、全てを捨て去り、考えることを辞めていた。世界との接点を持つことは、一生ないのだろうと、そう思っていた時、聞きなれた声に気付いた。
高戸:大分散らかったな。
智也:…。
高戸:とりあえず、片付けるから適当に漁るぞ。それにしたって、何から始めたらいいか分からない有様だな。
智也:ごめん。
高戸:謝るくらいなら、手伝ってくれないか。
智也:俺のせいで。
高戸:分からないだろ。お前が居ても居なくても、起こりうることだったのかもしれない。
〇高戸はごみを拾い上げるその手を止め、智也を見る。
高戸:強いよな。いつも二人は俺の先を行くんだ。自分に呆れるよ。結局、こうやって追いかけても届かないところまで行っちまうんだから。
〇智也は黙り、姿勢も変えない。
高戸:それでも、残してくれたものまで失いたくない。
〇その後、ごみの始末と散乱した物を棚に戻し、床に歩くスペースを作ると、高戸は智也に話しかける。
高戸:もう受け止めるしかない。彼女は、とっさだったんだ。俺たちが悔やんでいるのは、彼女のためじゃないだろ。彼女は智也を選んだ。それと、同じように彼女はまた、希望を望んだ。
〇反応をみせない智也と掛ける言葉に迷う高戸の間に沈黙が流れる。
高戸:智也、待っているよ。
〇しばらく、高戸は智也を見つめた後、部屋を後にする。玄関口の戸の閉まる音が薄暗い智也の部屋に響く。
 
〇いつからか、決まった時間に起き、決まった行動をすることが得意になった智也。シャワーに洗顔、朝食に歯磨き。同じことを同じように繰り返すことが、物思いから逃げる単純な方法だった。そうやって、誤魔化し方ばかり増えていった。あの夢を見るまでは。
 
〇大学では、教室の窓際に着くのが定例で、そこから望む雄大な空は、智也に目もくれず、自分の世界だけを青く染めていた。そう思うと、気が楽だったからだ。誰かに見られたり、愛情を注がれたり、あるいは人を好いたり。そんなことにはうんざりだ。人から逃げ、人を避け、人目に付くのが嫌になった。
〇ズボンのポケットで携帯が震える。通知を確認すると、サキからのメッセージ。内容は、昼食への誘いだ。智也は、サキに返信をする。昼は、一緒に過ごせないと。日の光と雲の塊が交差し、一瞬辺りは影に覆われる。
智也:夢は暗示…。
〇しばらく窓の外、広がる空のひたすら奥を眺める智也。
 
〇昼時、講義が終わると、智也は3学年の講義があったであろう教室の前で、目的の人を待った。
高戸:おお。どうした智也?さっき文野さんが会いたがってて、俺に居場所を聞きに来てたん
だ。会えたのか?
智也:連絡は来た。でも、会えないって返信しておいた。
高戸:なんでだよ。時間取ってやらないと。細かいサービスが大事だっていつも言っているだろ。
智也:彼女は大丈夫だよ。なんだかんだ人付き合いは上手いし、友達も居るし。俺なんかと一緒にいなくたって。
高戸:連絡が来るほどだ。何かあったって、おかしくないんじゃないのか。
智也:昼の連絡なんていつでも来てるから。それより一緒に昼、食べないか。お前、パンとか買いに行くだろ。
高戸:話を反らすな。お前は、サキちゃんを見習って小マメに連絡をよこすべきだ。
友人A:おおい。高戸、何してんだよ。はやくしないと昼終わっちまうぜ。
高戸:悪い。急用が入った。俺、別で食べるわ。
友人B:なんだよ。連れねーなー。
高戸:そう言うなよ。また今度な。
〇軽く二、三度手を振り、友人グループに挨拶をする高戸。
高戸:この貸しはデカいぞ。
智也:手間取らせて、ごめん。
高戸:それで。昼、何処行くの。お前のことだから…。
〇使われなくなり、廃墟となった旧校舎に腰を下ろす。
高戸:お前、好きだよな。ここ。
〇少し前に、売店で買ったカップ焼きそばを開封する高戸。
智也:ここは落ち着くから。
高戸:とりあえず、なんかあるんだろ。智也からの久々の呼び出しだ。話してみろよ。
〇智也は、売店のサンドイッチの封を開ける。
智也:あぁ。お前にしか話せないし、それに話しにくいことなんだけど。
高戸:まあ、呼び出されるくらいだから、身構えは出来ているよ。
智也:今日、夢を見たんだ。作り物のような夢。川岸で彼女が立っていて、いたずらに僕へ水をかけていた。
高戸:彼女?サキちゃんのこと?
智也:いや、繭のこと。
高戸:もう、気にしてないって…。無理もないか。
智也:いや、払拭は出来た筈だった。その矢先の夢で遂、動揺して。彼女は俺に話しかけていた。でも、彼女の声は聞こえない。何を聞いていも答えてくれなかった。俺、久しぶりだったんだ。繭のことを思い出すのは。何かの暗示のような気がしてならなくて。
高戸:暗示ね。気にしすぎなんじゃないのか。
智也:そうは思えない。思いたくもない。
高戸:暗示だとして、いつ来るかもわからない未来にビクついていたって仕方ないだろ。まあ、確かに、智也から繭の名前を聞くのは久しぶりだから、突然思い出して考え込むのも無理はない。忘れろっていうほうが出来ない話だろうし。
〇カップ焼きそばを食べきり、殻の容器を置き、横になる高戸。
高戸:しかし、考えすぎるなよ。夢なんて、大体が夢のままで終わるもんだ。
智也:単純な夢だって、わかってる。でも、伝えたい何かがあると、そう思えてならなくて、焼きついて離れないんだ。
高戸:考え混みすぎだ。それに、今は文野さんがいるんだから、大切なものを履き違えるなよ。
智也:サキとは、言われずとも上手くやっているさ。ああ見えて、結構強いタイプだし、俺と居なくとも、案外大丈夫な性格だ。
高戸:そんなこと言って、見捨てられても知らないぞ。
智也:その時は、その時さ。
高戸:おいおい。以前の智也なら考えられない発言だな。文野さんと何かあったのか?
智也:変わらないよ。別に。
高戸:ふーん。とにかく、考えすぎて沼にハマるなよ。彼女も就活時期で、今が勝負どころだ。小さなことが縁の切れ目になるなんて、良くある話なんだ。お前自身も、変に気をとられると、またダブっちまうぞ。
〇身体を起こす高戸。
それじゃ。俺戻るから。また、心境の変化でもあったら、いつでも相談してくれ。
〇高戸は校内に戻って行く。話すことに夢中で封を開けたままになった、手付かずのサンドイッチ。高戸となら、夢の暗示を解決できるとそう思っていた手前、期待した気持ちは大きく裏切られた。心に残るモヤを払えないまま、智也はしけり始めるサンドイッチを頬張った。

〇夢の暗示。智也は、帰りがけまで考え込んでいた。これ以上身の回りの何かを失うことに、耐えられる気がしない。
智也:それならいっそ…。
サキ:智也。
〇周囲の雑音すら、届かなかったことに智也自身ハッとして、聞こえた声に目を向ける。
サキ:良かった。気づいてくれた。
〇サキは、動揺しつつも智也に笑いかけていた。
智也(暗示…。)
サキ:どうしたの?
智也:いや、何でもない。いつからそこに居たの。
サキ:少し前。3回も呼んだけど、全然気付かないから。どうかした?
智也:いや、何でもない。少し考え事していて。
サキ:それだけ?
智也:うん、それだけ。
サキ:そう、、、。なんだか、すごい汗。
智也:え、ああ、気づかなかったよ。春も近いし、外との寒暖差かな。
サキ:そっか。
〇ハンカチで智也の額を拭おうとするサキ。智也は、反射的に避けてしまう。
サキ:あ、ごめん。
智也:いや、少し突然だったから。大丈夫、自分で出来るよ。
〇智也は自分のハンカチで額の汗を拭う。
サキ:…。ねえ、今日これから空いてる?駅前のショッピングモールでも行こうよ。服とか少し見たいんだよね。
智也:うん、いいよ。
 
〇二人たちはショッピングモールに向かった。智也は何度も訪れた場所なのに、どこかその空間に耐えられずそわそわする。その心中を知ってか知らずか、サキは売られている服を自分に当てがっては、智也に感想を求め、楽し気に笑っていた。
〇サキと智也は、ショッピングモールで買い物を済ませ、帰路に着く。
サキ:今日は、ありがとう。服選びなんてさ、男の子興味ないよね。飽きたりしてないかな。
智也:そんなことないよ。
サキ:そう。良かった。今度は私じゃなくて、智也君の行きたい場所、やりたいことにお付き合いしたい。何かない?お礼がしたいんだけど。
智也:ありがとう、考えておくよ。
サキ:うん、楽しみにしてるね。
○当たり障りのない返事しかしない智也に対し、サキは、心配気に尋ねる。
サキ:ねえ、智也君。なんか悩んでない?
智也:え?
サキ:今日の智也君、どこか上の空だった。興味がないのは分かるけど、流石にボーっとしすぎてる。
智也:悩んでなんかない。
サキ:そうは思えないよ。私でよければ相談乗るよ?
智也:違うってば。そんなんじゃないよ。ただ、ぼんやりしてただけだから。そういう時、あるだろ。誰にだって。
サキ:そう…、なんだ。なら良かった。でも、本当に何かあったらいつでも相談していいからね。
智也:心配しすぎだよ。大丈夫だから。
サキ:うん。それじゃ、また明日学校で。
〇二人はそれぞれの帰路に着く。夜には当たり障りのないメッセージのやり取りを定例のように行った。いたって普通な、当たり前の返事、ありきたりの誉め言葉、上辺だけの感謝。今日もまた「明日ね」と、あの日、果せなかった約束をした。上辺だけの会話は、智也自身の首を絞め、虚しさを増幅させるだけだった。

〇翌日、智也は夢を見なかった。気持ちが軽く感じ、ご機嫌な智也はサキを連れ出し、旧校舎へ昼食に誘った。
サキ:智也君から来てくれるなんて珍しいね。
智也:そうかな?
サキ:誘ってくれてありがとう。なんか、昨日とは打って変わって元気そう。
智也:うん、まあね。
サキ:「まあね」ってことは、やっぱり昨日元気無かったんだ。嘘つき。昨日の智也君は本当に上の空って感じで、心配してたんだよ。
智也:大袈裟だな。
サキ:大事なことだよ。今は悩んでたり、してない?小さいことでも、放っておくといつの間にか膨らんだりすることもあるんだよ?
智也:大丈夫。心配ないよ。
サキ:なら…いいけど。
智也:そんなことは、どうでもいいから。別の話をしよう。この間、話してた映画何だっけ。
サキ:ああ、あれね。もうすぐ公開らしいんだ。
智也:へえ。そうだったんだ。じゃあ、今日…。
サキ:ううん。気持ちは嬉しいけど、昨日付き合ってもらったし、わざわざアルバイトのギリギリまで一緒に居なくても、私は大丈夫。それに、今は私がサービスする番だから。
智也:そうか。でも、まだ行きたいところは、決めてなくて。
サキ:じゃあ、また宿題だ。ちゃんと考えて。そろそろ、お昼も終わるから
戻ろうか。
〇気を遣われた智也は、出来すぎたサキの深い優しさに溺れそうになり、不釣り合いな自分にやるせなさを感じ、息苦しくなった。

〇智也はまた、彼女の夢を見る。智也の左手を握る右手。強く繋がれたはずのその手は、いとも容易くすり抜けていく。よく笑い、よく凹み。彼女は、絵に描いたように色々な顔を持っていた。昨日のことのように夢は彼女を思い出させる。彼女は、先日のように何かを告げ、僕から遠ざかる。見つけて欲しいと言わんばかりに。
〇智也は目を覚ますと、天井を見つめる。夢は尊く、儚く、愛らしく、醜い。耐えがたい感情が、身体を這うように巣食っていく。言い知れぬ想いを消そうと躍起になり、洗面所へ駆け込んで、冷たい水で顔を洗った。携帯が鳴る。智也は、居間の携帯を手に取ると、一通のメッセージを確認する。宛名を見て、息を呑んだ。
 
〇その日の昼、高戸を校舎の裏庭に呼び出し、逸る気持ちそのままに、今朝届いたメッセージの画面を確認してもらう。
高戸:どうするつもりだ。
〇高戸は真剣な表情で智也に問いかけた。
智也:どうするって。
高戸:行くのか。
智也:どうすればいいかわからない。あれ以来、あの家族とは会っていないから。俺が合いに行くこと自体、相応しいとも思っていない。それでいて、どこかにある逆恨みの感情を、自分で抑えきれる自信もない。こんな状態で行ったからって。
高戸:行くなら、お前しかいないだろ。だからこそ、連絡を寄こすわけだし。何か、力になれることがあるんじゃないのか。
智也:暗示…。
高戸:え。
高戸。これって暗示なんじゃないのか…。
高戸:智也。お前、まだ夢のこと。
智也:今ある、唯一の彼女との接点なんだ。執着するのは、当然だろ。
高戸:なら、行こう。彼女のためにも。
 
〇その週の日曜日、高戸と智也は共に電車に乗って、目的の場所を目指した。最寄駅から3回乗り継ぐと、徐々に山が深くなっていった。
高戸:だいぶ田舎になってきたな。
智也:ああ。
高戸:ここからでも山は高いのに、アルプスや富士山に比べれば、こんなの序の口なのか。すごいよな。
智也:…。
高戸:今更だけど俺が同伴者で良かったのか。
智也:どうして。
高戸:いや、連絡を受けたのは、智也だろ。式では見掛けたが、直接、接点を持っているわけじゃない。
智也:前回は俺一人だったか。でも俺、今は誰かがいないとどうなるか分かったもんじゃない。あの夢を見る度、気が狂いそうで。一人でなんて、到底出来っこない。
高戸:それでも、行くんだろ。お前らしいよ。
智也:これで、何かが変わるのか…。かわらなかったら。
高戸:俺にも分からない。
智也:次の駅で降りる。
 
〇電車を降りると、無人の駅。そこから数分歩いたところに、本数の少ない時刻表のついたバス停があった。待ち時間は30分。バスに乗車しても、二人の沈黙は続いた。高戸には、智也の隠しきれない緊張が手に取るように伝わり、掛ける言葉も無かった。バスから降りた十数分後、集落の一つに造りは新しいながら子風にアレンジされた、平屋の家屋があった。智也はインターホンを押した。
千夏:はい。
〇奥から女性の声がし、玄関の戸を開けた。その女性に会うのは、高戸は式の日以来、智也でさえ式のすぐ後に招かれたっきりのことだった。
智也:お久しぶりです。
千夏:ええ、お久しぶりです。遠路遥々、ご足労頂き、ありがとうございます。
〇品性があり、丁寧な言葉遣いをする千夏は、智也たち学生からすれば、存在すらも疑うほど、大人びて見えた。
千夏:私も働いていた時は、神崎さんの最寄り駅周辺に勤めていたんです。そこから考えると、やっぱりここは離れていますよね。それで、そちらの方はお友達?
高戸:はい。嶋高戸と申します。実は、初めましてじゃないんです。式の時、参列していました。智也とは…。いえ、神崎とは、高校の頃からの同級生です。
千夏:そうでしたか。大変ご無礼なことを申し上げました。私たち、あの時は気が動転していて、失礼ながら覚えがなく。
高戸:こちらこそ、突然お邪魔してしまい、申し訳ありません。覚えがないのも、無理ありません。たったの一回お会いしたきりですから。
千夏:いえ、そんな…。
昭二:長話は必要ないだろ。
〇千夏の旦那の昭二が表れる。
千夏:昭二さん。こちら、旦那の昭二です。昭二さん、こちらは嶋高戸さん。お葬式で…。
昭二:ああ。聞いたよ。盗み聞きのようになってしまって申し訳ない。
高戸:いえ、お気になさらず。
昭二:君たちを呼んだのは、他でもない。娘の調子が良くないからなんです。
〇昭二は、二人を案内し、座るよう促す。
高戸:そういえば、娘さん。
昭二:ああ。早速本題なんですが、今、娘は呼吸器官系に腫瘍があり、危険な状態なんです。医者からは転移している可能性もあり、再発の恐れがあるとのこと。事は急ぐべきなのですが、娘はまだ小さく、手術を行うと、体力的に耐えられないかもしれず。慎重な判断を迫られているところなんです。
高戸:そうですか。
昭二:そこで千夏が、どうしても智也さんにお会いしたいと言いまして、私から連絡差し上げたんです。
千夏:お葬式で枯れるほど泣いていた神崎さんに、私は謝ることしかできなかった。それでも、神崎さんは私に、「大丈夫です」とおっしゃった。なぜ、あれだけの悲しみを感じながら、そんな強くて、優しい言葉を掛けられるのか。その時、私の中で神崎さんの強さが、娘を助けてくれた彼女と重なったのです。こんなこと申し上げる立場に無いのは分かっています。私は…。
〇涙を堪えきれず、両手で顔を抑える千夏。
智也:…。
昭二:月日が過ぎても、償いきったとは絶対に言えない。許してもらおうとも思っていません。
高戸:そんな。お二人が罪を犯したわけじゃ。
昭二:それでも、私たちは、大人だ。監督不行き届きは、僕らの責任に違いない。もう一度謝罪させてほしい。申し訳ありません。そして、どうか。娘にまた、会ってやって下さい。
〇昭二は智也に頭を下げる。
昭二:出来ることはすべてやりたい。彼女から貰った命。絶対に無駄にはしたくない。だから、彼女との強い接点の神崎さんにまた会ってもらえれば、何か変わるかもしれない。可能性は捨てたくないんです。だから、どうか。
智也:…。
高戸:智也…。
智也:僕ではないです。強いのは繭でした。僕なんか…。
〇智也は一言告げると、黙り込む。沈黙の後、再度口を開く。
智也:最近また、彼女の夢を見るんです。僕は懐かしさとやるせなさから、謝罪の念を伝え続ける。けれど、彼女からは返事が無い。きっと、それが現実だからなんだと思います。分かっているのに抵抗したい。変わらないのに諦めたくない。僕は、僕自身の気持ちに整理を付けられないで居るんです。
高戸:…智也。
智也:…。すみません、これで失礼します。本日中にお力添えすることは、難しいです。申し訳ありません。
〇智也は立ち上がり、弱々しく頭を下げる。
昭二:君が謝ることではない。すべては僕らの我がままだ。同じ立場を想像するならば。いや、想像する権利もない。遠くからお越しいただいたのに、こんな短い時間しか持て成せず、申し訳ない。せめて、駅までは送らせて下さい。
〇昭二は立ち上がり二人に声を掛ける。
智也:帰ろう。高戸。
高戸:智也…。お心遣いありがとうございます。本日は二人で帰らせていただきます。少々、お時間を下さい。
〇高戸と智也はバスを待った。来た時よりも、何倍も長い待ち時間に感じられた。
〇人の少ない帰りの電車で、高戸はふと、智也に顔を移す。智也の見つめる先は、景色の向こう側にあり、意識はこの場所に無いと思えた。視線は、深い悲しみを持ち、吸い込まれてしまうほど冷たいものだった。悲しみは恐怖へと変わる。どこかで彼を繋ぎ留めておかなければ、もう戻らないのではと、疑いを感じ、焦慮の念に駆られた。その感覚は、繭を失った当時の智也を見た時と同じもので、それにも関わらず、何をどう供すれば良いものか浮かばずに、ただ悔しく彼から目を背けるだけに留まってしまった。そして、智也は一言だけ呟く。
智也:なあ、高戸。
高戸:え。
智也:なんでだろうな。
〇弱々しく、魂の乗らない智也の声音と表情からでは、その言葉の意味を察することは難しかった。返す返事が見つからないまま、去り際で別れを告げることしか高戸には出来なかった。

〇智也は翌日も、彼女の夢に叩き起こされる。夢は、徐々に智也を蝕んで行き、キシキシと身体を擦り、疲弊させた。当たり前だったことが少しずつ出来なくなり、そのことが智也の負い目となり、徐々に身体の動きを鈍らせた。
 
〇サキは携帯に未だ通知が無いことを確認し、新しいメッセージを智也に送る。サキは、うなだれため息をつき、手の甲を額に乗せ、考え込んだ。ふと、智也との出会いの時を思い浮かべる。
 
〇サキの過去。飲み会の会場に向かう、サキと友人の由実。
サキ:私は良いって言ったのに。
由実:恋愛の傷は、他人に癒してもらうのが一番。誰かまた、良い人を見つけて過去の恋愛なんて、綺麗さっぱりお別れしなさい。
サキ:だから、もう忘れてるってば。今は誰かと過ごすより、自分の時間を楽しみたいだけだって。
由実:ほらやっぱり。サキ、それはね。ただ、自分が傷つくことを怖がっているだけ。引きずってなきゃ、そんな発言しないよ。
サキ:余計なお世話だってば。
由実:まあまあ、気分転換に思ってくれて大丈夫だからさ。それに、何も無いなら無いで、私は新しい人を見つけるだけだし。
〇居酒屋に着くと、飲みの席で高戸を合わせた男子1名、女子1名で既に座って待っていた。
高戸:よし。女子は揃ったね。後、1人連れが間に合ってないんだけど…。大目に見てもらっても良い?
由実:私は大丈夫ですよ。
高戸:お友達は?
サキ:私も気にしないですが。
高戸:ありがとうございます。連れの面目に免じて、謝罪と感謝申し上げます。それでは、先に始めようか。
〇高戸は軽く頭を下げた後、飲みの席を取り仕切る。飲み物を頼み、一人ずつ自己紹介をし、学部や履修中の講義、プライベートな部分などの話で盛り上がる。高戸はふと、携帯の通知を確認し、智也の到着が間近であることを知らせる。
高戸:お待たせしました。最後の一人がすぐに、合流出来そうです。
由実:やっとご到着ですか。随分登場のゆっくりなヒーローですこと。
高戸:申し訳ない。遅刻の償いとして、幾らでも質問攻めだの、いじり倒すだので好きにしてもらっていいからさ。
智也:それは、勘弁してくれ。
〇智也は、入り口付近の暖簾を分け、顔を出す。
智也:高戸のほうが、言葉達者でいじられ慣れてるよ。期待だけさせて、詰まらない思いをさせるんじゃ溜まったもんじゃないですから。先に言っておきます。
高戸:連れです。遅刻をいくらでも呪っていただいて、構いませんよ。
智也:先にアルバイトって言っておいただろ。初めまして、神崎智也です。今日は、遅れてしまい、申し訳ございません。
由実:なんで、会の日にアルバイト入れているんですか。
智也:すみません、先約で。アルバイトのことは高戸に、お伝えしていて了承済みと思っていたものですから。しかし、どうも「ホウレンソウ」がなってなかったようですね。
高戸:報告しない方が、後で面白いとおもったので、特別必要ってわけじゃなかったでしょ。
智也:高戸にとってはね。
〇高戸と智也の与太話を耳にしながら、ふとサキが智也を見る。偶然、智也と目が合い、サキが会釈をする。智也は柔らかく微笑み頷く。
サキ:(心境) それは出会った時からそうだった。他の生徒よりも、言葉が丁寧で、大人びて見えて、目の奥が何処か冷たくて、私たちとは別の時間を生きているような、そんな人だった。
〇帰り際、酔って智也に絡む、サキの友人の由実。
由実:コラ、遅刻男。あんたが遅いから飲み足りないでしょ。もう少し付き合いなさいよ。
智也:すみません。僕は、飲みの席があまり得意でないので、これで失礼いたします。
由実:遅れてきておきながら、飲めないなんてそんなの許される訳…。
サキ:由実飲み過ぎだよ。流石にもう帰ろ。
高戸:分かった、分かった。それじゃあ、俺が付き合うよ。文野さん、由美さんは俺が預かるね。
サキ:いいんですか。
高戸:大丈夫。ある程度で留めるようには伝えておくから。
それじゃあ、智也。文野さん駅まで送ってあげて。
智也:分かった。高戸も飲みすぎないようにな。
高戸:どうだろうな。二人とも、駅か自宅に着いたらまた、連絡して。
サキ:うん。
智也:それじゃあ。
〇駅に着くと、智也とサキの二人は、別れを言い合う。
智也:行き先、反対なんだ。
サキ:うん。
智也:それじゃあ、俺、高戸に連絡しておくから。今日はありがとうございました。
サキ:いいえ。あの…。
智也:はい。
サキ:私も嶋君に連絡しないといけないから。
智也:うん。
サキ:だから、連絡先教えて貰っても良いかな。その後、嶋君の連絡先も一緒におくってもらえれば。
智也:ああ、そういうことね。それじゃあ。
〇智也は携帯を取り出し、連絡先をサキと交換する。
〇サキは一目見て、少しでもこの人を知りたいと思えた。そして、その日から、智也とサキとのメッセージのやり取りが始まった。
 
〇友人と高戸との会話。
友人A:嶋、それヤバイぞ。
友人C:ホントだね。でも嶋くんてそういうの多い気がする。それでもなんだかんだ熟すところが嶋君らしいっていうか。
高戸:いや、これに関しては俺がスゴイって訳じゃないんだよ。
〇高戸は何も変わることなく、友人と話をするだけの日常を送っていた。しかし、それは
高戸自身の中で、どこか納得のいく日々でないことは明らかだった。そんな時、サキは高戸へ声を掛ける。
サキ:嶋君、ちょっと時間良い?
高戸:ん?どうしたの文野さん。
サキ:ちょっと。
友人A:おい、どうしたんだよ、嶋。
高戸:ごめん。ちょっと、訳あってさ。
友人C:え、お昼ご飯は?
高戸:後で適当に済ませるよ。また、今度な。
友人A:連れねぇな。
高戸:埋め合わせは必ずするよ。
 
〇サキと高戸は、校舎裏で話し始める。
高戸:話って何。文野さんから持ち掛けて来るってことは。
サキ:うん。智也君のこと。
高戸:智也…元気か。
サキ:連絡を入れ続けて一週間も経つのに、返事が来ないの。だから、嶋君なら何か知っているんじゃないかって思ったんだけど。その様子じゃ。
高戸:ないよ。俺にも。
サキ:智也君。大丈夫なの。この間、何か悩んでいたみたいだったから。
高戸:悩みなんて呼び方が、正しいのか否か…。
サキ:その言い方、嶋くん何か知っているの。
高戸:どうだろう。
サキ:どうして、二人して何も言わないの。私では、理解できないの。二人だけしかわからないことなの。私、智也君を救いたいのよ。どうしたらいいの。
高戸:俺が文野さんに教えられないんじゃない。智也から、いずれ話すタイミングが来ると思う。
ただ、今、どうアイツに声を掛けたらいいのか、俺にもよくわからない。だから、アイツを待ちたい。
サキ:私、智也くんの愛情深い反面、どこか冷徹さのある彼の目に惹かれた。でも、今はその冷徹さが何処か恐ろしい。浮世離れした彼の中の何かが、怪物のように怖いのよ。
高戸:そうだよな。俺もアイツに救われた過去がある。周りを穿った見方でしか見られなかった時、アイツと出会った。自分しか頼らず、他人とは一線を引いて迎合しない。その分真っすぐな芯を持った、少し変わった奴だった。そんなアイツが、今は自分を見失いかけている。力になりたいが、待ってやりたいとも思う。俺自身もどうしたら良いのか…。
〇頭を抱える高戸。それでも、サキにもう一度訪ねる。
高戸:俺は過去の智也に救われた。だからこそ、今の智也とも付き合っていきたいと思えるが、文野さんは今の智也しか知らない。過去の事実を打ち明けられたとき、文野さん自身で選んで欲しい。同情や共依存は智也の一番嫌う形だ。その時になったら、必ず答えを出してやってくれ。
サキ:私…。受け入れられないかも。
高戸:それでもいい。どんな結果であれ、文野さんの決めたことなら、アイツは喜んで受け入れるさ。
サキ:私は、いつまで待つの。
高戸:待たないことも、一つの選択肢かもしれない。
〇今は智也を待ちたい高戸だったが、それが正しい答えなのかに迷う。もしも、一刻を争う事態ならば、智也の出す答えはどうあれ、あの子と会うべきではないのだろうか。あの子にとって
智也が必要な存在だとするならば、智也にとってもまた、あの子は必要なのではないか。何にせよ、時間は智也にも、高戸にも公平に迫りくるのであった。
 
〇教室にて、講義に出席する智也。辛うじて大学には通えているものの、本橋さん家族の元を去った後、逃げ道かのように、ただ大学へ通い続けた。何日も続く夢と繭の最後に伝えたかったこと。命を落としかけているその人。抱えることが多くありすぎる。
〇講義の最中、サキからの通知が届く、メッセージの内容は話をしたいと綴られていた。
〇智也は、黙ってメッセージを閉じた。もうこれ以上、抱える物が増えるなら、一つ重荷を降ろそう。
 
〇サキは、智也に遠慮がちな手の降り方で出迎える。智也も少し微笑んで見せる。
サキ:良かった。最近、連絡も少ないし、来てくれないかと思った。
智也:ちょっと考えたいことがあって、連絡出来なかった。
サキ:そうなんだ。そういう時もあるよね。
〇しばらく沈黙が続く。
サキ:この前、高戸君と少し話したんだ。
智也:…。うん。
サキ:高戸君は、智也君を信じて待つって。
智也:待つって。何を。
サキ:分かんない。
智也:…。
サキ:分かんないから、知りたい。知りたいけど、私も待ちたい。ねえ、智也君。私はどうしたら良いの。私は、何を待って、何をどうしたら二人の役に立てるの。
智也:待つ…。いつもそうやって、待たれてばかりだ。高戸もその一人。二人、三人、待ち人が増えていく。それは、僕にとって、あまりに重いことで、抱えなければならない痛みなんだ。でも、その痛みはいつまで抱えなければならいのか。どう、受け止めればいいのか。その答えを高戸に聞きたかったのだけれど、始めから、求めてはいけなかったんだ。これ以上は巻き込めない。
サキ:高戸くん、きっと、そんな風に思ってないよ。だからこそ待っているって言うんだと思う。そこに、私は、入り込めない。智也君の何を待てばいいのか、私にはわからない。
智也:ごめん、サキでさえ待たせてしまっている。それでも話せない。サキの優しさが、人の良さが、どこかで小さく負担になっていた。正しさを求める僕と、絵に描いたような綺麗なサキ。恋人なのに、どこか対比して自分を卑下してしまう。君を幸せに出来ていない思い込みが、いつしか事実になってしまわないかと不安になっていた。それが怖くて今まで、本当の自分でいられなかった。
〇サキが涙を浮かべ、すすり泣く。そして、一つだけ、智也に確信を点く疑問をぶつける。
サキ:智也くんにとって、私は要らない存在なの。お願い。それだけ教えて。
智也:要らないわけない。何度もサキには助けられた。
〇智也も気付かないうちに涙を流していた。それを見て、サキは、尚も涙が止まらなくなり、声を上げて泣いた。智也は、その姿を見つめ、ただ、肩を寄せた。
 
〇教室で、高戸と友人が会話をしている。
友人A:なあ、それヤバくね。
友人B:だろ。でもさ、高戸がさ。
友人A:高戸それは面白過ぎるって。なあ、どうした、高戸。
高戸:ああ、いや何でもない。少し考え事してた。
友人A:優等生らしからぬ、上の空だな。
友人B:体調でも悪いんじゃないのか。
〇サキが高戸の横を通りがかり、一言ぼやく。
サキ:二人とも考えてばかり。
高戸:え。
サキ:二人は、二人でしかわからないことに悩んでばかり。それでいて、二人して壊れかけている。
高戸:待って、文野さん。今は…。
サキ:ずっと付き合いが長いわけじゃないし、隠し事はあるし。私なら最悪どうなったっていい。
友人A:どうした。確か、学部が一緒の。
友人B:なんだよ。急にわけわかんないこと言って、高戸への不満ならいくらでも聞くぜ。
高戸:すまん。少し茶化さないでくれ。
〇高戸は友人に冗談の静止を求める。サキは友人の言葉など無視して、高戸に話を続けた。
サキ:二人は私とは違うんでしょ。今も以前も、一緒に居たんじゃないの。でも、結局二人して距離感を見失っている。大事だからとか、迷惑だからとか、大切に思い過ぎて最善を見つけるまで、動かない。分かった気になって、押し引きに迷っている。でもそれは、本当の大切な人のためにやること。そのことが、お互いを後悔させないって保証はあるの。
〇少しずつ、サキは語気を荒げていく。
二人は、二人でいる関係を大事にしたいんじゃないの。このまま何も出来ないでお互いを待ってばかりなら、それ以上のことは多分、望めないよ。それをしたいのに、私にはそれが出来ない。だから。
〇サキは、高戸へ強気な眼差しをぶつける。周りの注目する視線を気にし、手を差し伸べ退出を促すも、サキに払いのけられる。
サキ:いいよ。自分で行く。こうでもしないと、二人共きっと、お互いを大事に思い過ぎるままだから。
〇サキは、高戸へもう一度強く見つめ、それ以降言葉を告げないまま、その場から立ち去った。
友人A:高戸。何しでかしたか知らないけど、ああも怒らせるのは、流石にマズいぞ。
友人B:追いかけて、謝ってきたらどうなんだ。
高戸:いや、いいよ。
〇高戸は、サキのまっすぐな思いに呆気にとられ、そして悔しみを覚えた。智也の性格、変化、思いやり。誰よりも傍で見て来た。だからこそ、彼はまた立って自分の足で歩けると、立ち直れるんだと、そう信じていた。しかし、今は智也との関係だけでなく、様々な人が交じり合い、想いを抱えている。それに、今、本当に間に合わなくなってしまえば、智也は今度こそ自分を責め、縛られる過去が出来てしまうかもしれない。
高戸は、覚悟を決めた。
 
〇智也のアパート。食べ掛けの弁当や紙くずが転がっている。智也は、サキとの一件をきっかけに、連日大学を休んでいた。
サキの涙を見て、過ごした時間を無駄にさせたと、自分を恥ていた。本気で誰かを好きになっても失ってしまう。自分が傷つかないだけの関係を築こうとしても、またそれで相手の傷になる。何よりも、また優しくしたい、離したくないと、人を好きになってしまう。素直な自分を見つけられない自分に嫌気が差し、何もわからなくなっていた。
智也:これ以上は…。
〇部屋のインターホンが何度も鳴る。智也はピクリとも動かない。区切りのない毎日は、感覚を狂わせ、時間の経過を麻痺させた。その時、聞きなれた声が部屋に響く。
高戸:うわ。これに至るまで良く放置できたな。とりあえず、ゴミ片付けるから棚漁るぞ。
〇高戸がいつの間にか智也の部屋に入り、話しかける。智也は部屋で胡坐を掻き、うなだれたまま返事をしない。
〇高戸は棚からゴミ袋を持ち出し、いつ食べた物かもわからないハンバーグの残飯を、慎重に捨てる。
高戸:ハンバーグもしけっちまえば、石ころ同然か。夏じゃない分、臭気が無いのは唯一の救いだな。
智也:…。
高戸:この状況、前にも知っている気がする。もう3年も経つのか。むしろ、立ち直ったほうなのかもな。
智也:ごめん。
高戸:謝るくらいなら手伝ってくれないか。そこのゴミ取ってくれよ。俺からは届かないから。
智也:何しに来たんだ。
高戸:お前、もう、何日も大学来てないんだって。
智也:、、、。
高戸:繭がいなくなったのは大きい。計り知れないほどのショックだろうし、立ち直れなんて無責任なことは言えない。でも、一度は何とか出来たんだ。考え混みすぎるな。またお前まで戻って来られなくなるぞ。
智也:繭が居ないのは、もうわかってる。それでも、僅かに彼女を想い続けていた自分が居る。何も届かない、何も聞こえない、何も伝えられない。残された人間はどうしたらいい。
高戸:文野さんはどうするんだよ。文野さんは、お前が立ち直ることを一番に信じているんだぞ。
智也:彼女には我慢をさせて、あげく、本音のすべてを伝えてしまった。そんな筈ない。
高戸:それは、自分の目で見て判断しろ。
〇高戸は含みを持たせるかのように、携帯を拾い上げ、智也にさしだす。ゆっくりと高戸を見上る智也は、その携帯を弱々しく受け取る。そこには、高戸からの十数件のメッセージに対し、その倍はあるサキからの通知。
智也:俺はサキをひどく突き放した。身勝手に自暴自棄になって、本当の言葉を漏らしてしまった。それなのに、サキは…。
高戸:どんな形であれ、応えてやれよ。待ち人っていうのは、かけがえのない存在なんだから。
〇智也はそこで、サキのいくつかのメッセージに目を通し、サキの想いを知る。その通知にまみれ、一通のメッセージを見つける。
智也:高戸。加賀美さんたちからだ。
高戸:ああ。
智也:知ってたのか。
高戸:だから、ここに来た。
智也:俺、自信ねえよ。落ちるだけ落ちて、それでも受け入れてくれる人が居て。なんでなんだよ。怖いんだよ。
高戸:それでいいんじゃないのか。人一倍の絶望も、失望も、恐怖も、孤独もお前は全部知っている。だからこそ、その力を借りたい人が居るんだよ。今。
〇間を空け、高戸は智也を諭す。
高戸:ここからは、智也が選べ。自分で道を選択しろ。その道を進もう。俺の肩を借りて歩くようなお前じゃないだろ。行こう智也。
〇智也は、もう一度携帯のメッセージを一読し、一つため息をつく。鉛のように重い身体を持ち上げ、流しへと向かう智也。鏡の前に写る自分の顔はクタクタにしおれ、痩せ細り、何かを救いたいと願えるような顔つきでは無かった。消えそうにまであるその顔に、2度、3度水を掛け、少しばかりの施しを与える。
居室に戻ると、腰も下ろさずにただ支度を待つ高戸がそこに居る。智也は横目では気付いているも、彼の目を合わせることも出来ず、ただ、黙々と準備を進める中、独り言のように呟く。
智也:まだ、間に合うのか。
高戸:分からない。でも、今でなければ、間に合う物も、間に合わない。
〇智也は、高戸の曖昧な返事には応えず、薄手のソリッドシャツを羽織る。
高戸:準備は終わったか。
智也:行こう。
〇高戸と智也は電車に乗る。神崎さんの家とは違うルート、別の路線。病院に直行する智也と高戸。会話もなく、線路の継ぎ目を通過する偶発的な微振動に、ただ身体を揺すられるだけの長い時間。何をしようとも、どうあがこうとも、結果が同じなことぐらい知っている二人。こうして動き出したことは、まるで意味を持たないかもしれない。それでも、なぜそこへ向かうのか。確信を持てないままに、継ぎ目を通る度に心もまた、揺れ動いていた。
〇病院に着いた頃には夕方だった。天気は曇天。雨雲が空一面を覆い、湿気の臭いがますます不運さを予見させる。入り口に入ると、加賀美夫妻が出迎えてくれ、高戸が軽く会釈をする。高戸は智也と一度目を合わせ、悟ったように昭二さんと千夏さんに話しかけた。ご夫妻の瞼は赤く腫れ、表情は疲れきり、いたたまれない姿に、目を塞ぎたくなるほどだった。当然だ。実の娘が、生死を彷徨っているのだ。きっと計り知れないほどに涙を流し、強いストレスで眠ることさえ、二人には許されないのだろう。高戸との話のやり取りを終え、昭二さんと千夏さんが智也に話し掛ける。
昭二:神崎さん来てくれてありがとう。
智也:いえ。
昭二:塩谷君のこと、勝手をしてしまって申し訳ない。この子はあの時、彼女に助けられなけれ
ば、今こうして治療を受けることも出来なかった。しかし、今感謝できるのは、神崎さんだけなんです。神崎さんにとって他人の娘の命なのですから、無関係にしか思えないでしょう。ましてや、あの場にこの子さえいなければと思っていても無理はない。
智也:そんなことは。
昭二:見捨てられても仕方がないことです。僕らも、わがままが過ぎたと反省しています。だから、今日限りで良い。彼女の姿を見て、奇跡を一緒に信じてやってはくれないですか。
智也:僕に出来ることなんて、、、。
千夏:お願いします。これから、あの子に会ってやってください。
智也:千夏さん。昭二さん。頭を上げてください。娘さんを救ったのは、僕ではありません。救ったのは繭です。だから、僕が会いに行ったからって、何も変わることはありません。
それでも、お二人が良いのであれば、、、。
千夏:いいえ。あの日の彼女との唯一繋がりの深いあなただからこそ、今お会いしていただきたいのです。
智也:分かりました。僕からもお願いします。
昭二:ありがとうございます。
〇昭二に案内された場所は集中治療室だった。一刻を争う事態とのこと。
昭二:以前、似たケースの患者さんが要らしたそうなのですが。
高戸:どうだったのですか。
〇昭二は小さく首を振る。
高戸:そうですか。
〇智也は、高戸と昭二の会話を一つ後ろでただ聞き耳を立てることしか出来なかった。
昭二:着きました。
〇集中治療室は、3人までの人数制限があり、千夏さんは、廊下で待つこととなる。
智也:⁉
〇智也は加賀美さんの娘さんを見て、目を丸くする。いつかの少女は、当時より少し成長しているのみに留まり、意識を持たないまま心拍を知らせる機械音だけが部屋を響かせている。現実は過酷なもので、ただ残酷に智也へ降り注いだ。そして、当時の全てがフラッシュバックする。交差点で泣き叫ぶ少女を女性が抱きしめ、その横で彼女が有らぬ姿で横たわる。離れた路肩の脇には、左側面を破損させたトレーラーが、ハザードランプを点滅させ、危機を知らせるクラクションを鳴らす。光のように浮かんだその情景に耐えることも出来ず、頭を抱えもだえながら、真後ろの壁に寄り掛かる智也。
智也:ああああ。
高戸:智也。どうした。何があった。一旦病室を出よう。
〇高戸の静止の声も届かず、智也は、嗚咽混じりに声を荒げる。
智也:こんなのって…。こんなのってないだろ。彼女は。繭は。何故命を落とした。こうなるのなら、彼女は何を救ったんだ。なんのために、彼女は生きたんだ。こんなのすべて無駄じゃないか。君は生かされた。繭の分まで生きるべきじゃないのか、君は。目を覚ましてくれ。
〇言葉の勢いは強く、高戸が抑えるほど強烈なものだった。
高戸:落ち着け、落ち着け智也。
智也:だってそうだろう。彼女は居ないんだ。繭はもう戻らないんだ。あの子を助けるために使った勇気だった。なのに何で。何でこんなこと。こんなことが有っていいのかよ。
目を開けてくれ、目を覚ましてくれ。
〇高戸は、智也を背後から抱え、病室の外へ
退出させる。
〇廊下で待機していた千夏さんが、取り乱す智也を見て、口元を抑え涙している。智也は耐え切れず、雨の降る屋外へ走り、芝生のある広場でしゃがみ込む。高戸は、智也に追いつきその背中に近づく。
高戸:智也。
智也:なあ。繭は、もう居ないよな。
高戸:ああ。
智也:繭は戻らないんだよな。
高戸:ああ。
智也:あの子は、もう生きられないのか。
高戸:…。
智也:答えろよ!
〇耐え切れず、智也は高戸の胸倉を掴んだ。高戸の顔は苦しげで顔色が悪い。智也が掴んでいるからではない。高戸もきっと。
高戸:…。
智也:お前、知っていたのか。どうせ、昭二さんに言われてるんだろう。あの子のこと。あの子は、もう長くはないんだろ。なあ、そうなんだろ。なんだってお前は。
高戸:わからない。
智也:わかるだろ。知ってるだろ。答えろよ。
高戸:本当に知らない。今は祈ることしか。
智也:祈る⁉繭の時は、祈る猶予もなかった。生きていた最後さえ見られなかったんだ。それなのに祈れだって。繭を奪っておいて、尚も祈れと!
高戸:なら見捨てるのか!残されたあの子を見捨てるっていうのか!もう、繭は居ないんだ。繭のほうが早かったんだ。ただ、それだけだ。それでも、繭が残した生命なんだ。繋げていくしかないだろ。
智也:それじゃあまるで、繭の命のほうが、どうでもいいようじゃないか。繭の命のほうが小さいようじゃないか。
高戸:違う。命は比べられないから、特別なんてないから。お前が一番わかっているはずだろ。今のあの子には、願いが必要なんだ。温もりが必要なんだ。力になってやりたいだろ。あの子のために。繭のために。
智也:…。
〇言葉にならなかった。智也だけじゃない。高戸も繭を失った一人だ。失くしてからでは遅いことを、僕と同じくらい知っている。あの子が居なくなってしまったら。そうならないために、ここに来ていた。怒っていい、泣いていい、それだけ今が大事なことだから。もう一度、戻ってやり直さないと。
〇智也はあの子がいる病棟にびしょ濡れになりながら戻った。遅れて高戸も院内に入ってくる。昭二さんと千夏さんは疲れ切った表情ながら、戻った智也に目を移した。
看護師:ちょっと、貴方達。そんなに濡れたまま入室しないで下さい。それに服に泥だって付いている。ここは病院です。衛生的に出来ないのでしたら…。
智也:お願いです。
〇智也は崩れ落ち、うつむいたまま、看護師に願いを請う。
看護師:ちょっと貴方。
智也:あの子を…。救って下さい。助けて下さい。
〇担当医がその場に駆け付ける。
医師:なんだ、院内でちょっとした騒ぎになているぞ。
〇高戸と目が合い、疑うように言葉を重ねる。
医師:君は、何度か面会で。君のような人が…。
〇智也は医師の言葉など入らず、医師の裾を握り、話し続ける。
智也:先生ですか。医者なんでしょ。あの子は助かるんですよね?治るんですよね?何で、あの子なんですか。何であの子が。あの子じゃないとダメなんです。あの子は生きなくちゃいけないんです。生きなくちゃ…。
〇智也は裾を握る手に力が籠り、顔を上げ医師に言葉を続ける。
お願いです。あの子を…。あの子だけは、助けてあげて下さい…。でないと、彼女は…。
医師:顔を上げて下さい。私たちは医者です。平等に全ての患者を救いたいと思っています。しかし、申し訳ありませんが、必ず救うと、お約束は出来ません。医者は神様ではない。人の力だけでは及ばないものがあるのです。しかし、必ず医者として、人として、最善を尽くすことだけはお約束できます。水曜日、手術をすることが決まりました。私達に出来ることは何でもします。それでも、最後は生きる力が問われるでしょう。頑張っているのは、あの子です。
今、我々が信じるべきは、あの子なのではないでしょうか。
〇智也の手から力は抜け、医師の白衣に、泥を拭った後だけが残っていた。
智也:…。よろしく…お願いします…。
高戸:よろしくお願いします。
医師:誰か、二人に拭くものを。
〇他の看護師が、智也と高戸の肩にタオルを回し、温かい部屋へと促す。智也は力が抜け、今にも止まりそうなところで、高戸の手が身体を支え、自立を助けてくれた。俯いた智也の視線の先に雨粒とは別の雫が床に染みを作る。智也は涙が止まらなかった。追われ、耐え、堪え、そしてすべてが溢れ出た。同情に満ちた高戸の手は震え、智也を抱える力は一層強くなった。
 
〇智也と高戸は落ち着くと、帰路に着く。先日の藤原さんご夫妻の家からの帰りのシチュエーションに似た形で、高戸と智也は隣り合い、電車に揺られる。
智也:高戸。見舞いに来ていたのか。
高戸:黙っていて済まなかった。どこかで、智也は間に合わないんじゃないかって、疑いもあった。ひどいと思う。
智也:いや、俺自身、駄目だと思っていたんだ。当然だろ。失って辛かったのは、俺だけじゃなかったんだな。
高戸:他の誰もが悲しんでいるんだ。そう思っている人は、沢山いただろう。それでも、彼女は智也を選び、智也は繭を選んだんだ。智也が強い人だから。
智也:いや、弱いんだ。弱いからこそ、自分と、繭と生きることと向き合っていける。分かったんだ。
〇高戸は微笑んだ。以前の智也が戻って来たような、その時の智也を置き去りにしたような。どちらにせよ、智也と話を出来ているだけで、高戸の笑いを誘ったのだ。
高戸:これからどうする。
智也:まずは、けじめを付けることがいくつかある。自分でコントロールできる想いを一つずつ増やしていくよ。
高戸:そうか。
 
〇サキへ送ったメッセージは、少しよそよそしさを隠せなかった。不器用で片言な文言が、遂、自分らしくて笑えてしまう。一度綴ったメッセージを書き直そうか悩んだものの、そのまま送った。自分の姿がそこにあったからだ。彼女からの返信もいい加減なものではなく、冒頭には、「久しぶりです」と綴られており、言葉を選んだ丁寧な文章で始まっていた。これから僕は、彼女に大切な話がある。真面目で彼女らしい文章を見ると尚も落ち着き、固まっていた肩の力がストンと抜け、覚悟はより一層強固なものとなった。あの日の冷淡さを謝ること、これから彼女の優しさには甘えられないこと、自分の力で生きていくこと。感謝し、打ち明けなければならない。
 
〇待ち合わせは、廃墟と化した旧校舎。サキの手を振る姿が見え、智也もまた手を振り返した。ベンチに座るや否や、サキは空白の一カ月間の話を訪ねてくるも、最後に会った日のことを一度も口にはしなかった。
サキ:久しぶり。1ヶ月も学校休んでたでしょ。少しくらい返事くれても良かったのに。心配したんだよ?
智也:ごめん。あの時は、1人になりたかったから。
サキ:わかっている。
智也:でも、大丈夫。なんとなくわかった気がするから。
サキ:そうなんだ。ねえ、この旧校舎取り壊されるんだって。
智也:そうなんだ。
サキ:ねえ。どうして智也君は、いつもここなの。
智也:今までは、きっと逃げたかったから。届かない世界に一番近い場所だと思っていたから。
サキ:そうなんだ。壊れるの、嫌?
智也:もういいよ。形を残すことがすべてじゃない。新しい何かに繋がるのであれば、記憶に留められればそれでいい。
サキ:そっか。
智也:俺のことはもう良いんだ。次はサキだよ。
サキ:え?
智也:宿題。行きたい場所ではないけれど、今サキに聞いてほしい。俺の過去。それが、今までの感謝であり、礼儀だと思う。
サキ:うん、知りたい。
智也:まず始めに謝っておくね。隠し続けてごめん。俺がサキと付き合っていなければ、きっと今頃は何の過去もない誰かと、楽しく付き合えていたんだと思う。
サキ:そんなことない。過去の無い人なんて居ないよ。
智也:そうかもね。そんな考え方がよっぽどおこがましいよね。
サキ:話して。どんなに長くても良いから。
智也:ありがとう。じゃあ、話すね。
〇これから、裏表のない恋人同士に変われるかもしれないし、そうでないかもしれない。それでも、まっすぐに話を聞くサキを見て、惹かれた理由だけがそこにあったことに改めて気が付いた。
 
〇後日、欠かせない用事があり、着なれない堅苦しい正装に袖を通す智也。久々のネクタイには手こずり、2度巻きなおしをした。家を出る玄関口で革靴の踵がコツっと音を鳴らし、その足音で一段と背筋も伸びた。
〇見慣れた駅前に、すっかり溶け込んだ若者が一人、シンボル像に背を向け立っている。智也を視認すると、こちらに向かって歩いてくる。目の前に立ち塞がると、一言放った。
高戸:行くか。
 
〇電車が目的地に着き、二人は、小高い山を登った。その先で、大事な用事があったのだ。
〇二人は墓石に向かい手を合わせ、十を数えた程で一息着くと、智也が過去の話を切り出した。
智也:なあ、覚えてるか。川岸のバーベキューに行ったときのこと。
高戸:もちろん。
智也:俺、今もあの時の夢を見るんだ。その場所の繭が頭から離れなくて。でも、彼女の声は聞こえない。未だに何故だかわからない。でも、それを不安がったりはしない。今は気持ちがどこかに、残っているんだと思う。だから、今はそれも含めて生きていこうと思う。
高戸:いいんじゃないか。それで。
智也:俺、あの日繭に好きだって言ったんだ。
高戸:知ってるよ。
智也:なんで知ってるんだよ。
高戸:繭、態度が妙だったからさ。普段、口固いクセに真っ先に報告してきたんだ。それで、なんて言ったと思う。「お先に幸せを頂戴します」だってさ。ニヤニヤ笑ってさ。面白いよな。ほんと。
智也:サキに黙って、それを言うかね。
高戸:良いんだよ。どんな形であれ、先に逝っちまうヤツが悪い。
 
〇横から物音が聞こえ、その方向に二人が顔を向ける。そこには、千夏さんと昭二さんと、車いすに座る少女が一人。
千夏:ご無沙汰しています。
高戸:ご無沙汰しています。
智也:その節は、ご無礼を致しました。
昭二:いや、頭を上げてください。
智也:あの時は、繭を想う一心で。無駄に命を投げ出したことにしたくなかったんです。
昭二:分かっているよ。君には、我々に痛みを押し付ける権利がある。本当ならば、彼女や君と同じ苦痛を味わうべきだというのに、幸い、神様はそれを許してはくれなかった。また生きることを許され、命を繋いでくださった。僕らは、それが嬉しくて堪らないんだ
千夏:最後のワガママです。この子が生きていることを喜ぶ私たち二人を、お許しください。
〇智也は、許しを請う二人に、返事が出来なかった。生きることを許す権利が、自分に無いことぐらいわかっていたからだ。智也は、目線を車椅子に座る少女に移し、話しかけた。
智也:こんにちは。
女の子:(頷く)
智也:お名前は?
女の子:(口を懸命に動かす。)
千夏:彼女は手術で声を失いました。
女の子:(それでも必死に口を開き、伝えようとしている。)
智也:は・る・か。遥香さんだね?
遥香:頷く。
智也:良かった。本当に良かった…。ありがとう。
〇智也は笑顔のまま、止めどなく涙が溢れていた。そして、遥香の手を取り、ギュッと握りしめた。繭の意思がここにある。繭の一部がここに残っている。この子が生きている、それだけで、嬉しさが込み上げてきた。これでまた、生きる意味を見つけられた。この世界が綺麗なんだと、この世界を捨てきれない理由を、もう一度見つけられた。

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