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初めての患者さんの死

言語聴覚士になって新人の頃に担当した患者さん。

病院という場所が「死」に近い場所だと、そんなことすら学生の時にはよくわかっていなくて、この職業に飛び込んでしまったのを思い知らされた話。

先輩言語聴覚士と2人で担当になった内科系疾患で入院してきた男性。
かなりやせておられて、飲み込みの機能も弱く、全身の機能的にも落ちている状態。

それでも、いつも私が訪室すると穏やかな笑顔で「来たかー」と言って迎え入れてくれた。奥様も毎日来ておられて、優しい顔で「今日は割と調子がいいみたいよ」なんて話をしながら迎えてくれる。

水分やゼリーから評価を始めて、ミキサー食で食事が始まった。
食事が始まったけれど、なかなかたくさんは食べることはできない。
加えて痰の吸引も必要な状態。
言語聴覚士として飲み込み機能の評価としては、食事の形態をミキサー食以外に変更することも難しいと判断していた。

ひとまず食べる量は少ないながらも食事がとれているので、療養病棟へ移動となった。

「そのこと」は、療養病棟へ移動となって本当にすぐの出来事だった。

食事が開始されてからは訪室する頻度は減らして対応していたが、
最近食事の量が減ってきているかもな・・とカルテを見ながら思っていた矢先、先輩の理学療法士からこの男性が亡くなったとの報告を受けた。

ちょうど午前中のリハビリが終わろうとしていた時間だった。

そして「大丈夫?」と言われた。

そう、私にとっては言語聴覚士になって初めて経験する患者さんの「死」

その時はあまり考えることが出来ずに「大丈夫です!」と言い、とにかく患者さんのお部屋へ直行した。
直行したものの、その場所は家族同士の最期の大切な時間。
扉を開けてみたものの、ほとんど何も言えずただ頭を下げて帰ってきた。

これまで「死」について真剣になんて考えたこともなく、でもこの病院という場所では「死」がこんなにも身近であることに怖さも感じた。

今日、私がリハビリをした方が明日も生きて迎えてくれるとは限らない。

毎朝、自分のリハビリをする患者さんのカルテチェックをする。
そこに名前がないと昨日のうちに亡くなられたことに気づく。患者さんの名前を検索して、ようやく死亡と書かれたドクターのカルテにたどりつく。

経験年数を重ねると、患者さんの死にであう回数も増えていくけれど、いいのか、悪いのか、この「死」というものに取り乱すことも少なくなっていく。
というか、毎回取り乱していては心が持たないのもある。

それでもトゲのように小さく胸に刺さる衝撃のたびに、よく考えるのは「私はその患者さんの最期までにベストを尽くせただろうか?」ということ。

ヨガのクラスの中で「今日のベストを尽くしましょう」なんて声をかける。
ポーズができようが、できまいが、いま出来るベストを尽くしているか?それが大事だとヨガではいう。
ベストを尽くしているのなら、あとから後悔することはない。

だとしたら、ひとまず今日も今、わたしが出来るベストを尽くしてみようか。

※ヨガライフコンサルタントあや※
医療職による医療職のためのおしゃべりヨガ教室主宰
自分の心地よさを見つけて、広げて、実践するヨガライフを提案
言語聴覚士歴8年、ヨガ歴10年以上、1児の母としても奮闘中











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