『凸凹息子の父になる』6 赤ん坊の自主トレ
年が明けると、翔太はハイハイができるようになった。すると行動範囲が広くなり、片時もじっとしていない。
翔太は毎日、キッチンからリビングまでの端から端までを何往復もしていた。その自主トレ効果もあり、彼のハイハイのスピードは、めちゃくちゃ速くなっていった。
それが嬉しいのか、ほっぺたを真っ赤にして声をあげながら、得意気にハイハイする。
やがて彼の自主トレは、つかまり立ちへと発展し、椅子につかまりながら膝の屈伸運動のような動作までするようになった。
たまにバランスをくずして倒れ、頭を打って泣き喚くが、日に日に足腰が強くなってきた。
そのうちに、何でもよじ登るようになった。
ローテーブルやソファに上れるようになった息子は、さらなる高みを目指して階段に挑戦しようとする。
それは今の息子にとっては危険な行為なので、私は何度も階段を上りかける息子を抱き上げ、その挑戦を阻止した。
しかし彼は、諦めなかった。
ある日、二階から息子の歓喜の雄たけびが聞こえる。ついに階段を上りつめたのだ。
それは、エベレスト登頂に成功した登山家のような喜びようだった。
しかしこの登山家は、上り方は知っているが下り方を知らない。後向きに、そろりそろりと下りようとするのだが、残念ながら足を滑らせて落下した。
思った通りだ。
幸い我が家の階段は、一気に下まで落ちないよう途中に踊り場を設け、そこから向きを90度変えてある。そのため大事には至らなかったが、彼のおでこには見事なたんこぶができた。
以後、階段の前には鍵つきのゲートが取り付けられた。
その後も、翔太は色んな動作を組み合わせて出来るようになってくる。そうなると、ますます要注意である。
牛乳が飲めるようになると、息子は仰向けに寝転んで、ラッコのように哺乳瓶を両手で抱えて飲む。その飲みっぷりたるや、瓶の中が引圧になって音がするほどの勢いだ。
彼は牛乳を一気に飲み干すと、哺乳瓶を咥えたままハイハイしてキッチンまで行く。そして流しの扉につかまりながら立ち上がり、バスケットのシュートのように、哺乳瓶を自分の頭上のシンクの中に投げ込むのだ。
本人は大満足なのだが、お陰でシンクの中にあった皿やコップが、幾つか割れた。そのため台所にもゲートをつけ、哺乳瓶はプラスチックの物に変えた。
こうして、翔太の立ち入り禁止区域が増えていった。
春になった。桜が、あちこちで満開だ。
我が家では、しょっちゅう市内にある山に弁当を持って出かけるのだが、この時期は特にいい。
山頂まで続く道の脇には桜の並木が続いているので、車窓から花見ができる。この日はミシェルも一緒で、車で山道のカーブを右に左にゆっくり曲がりながら、満開の桜のトンネルに歓声をあげた。
「わぁ、すごーい」
「きれいだねー」
「今年も見事だな」
そう言いながら山頂の駐車場に着いた。今日は日曜日なので、県外ナンバーの車が多い。
私は車を停めるとベビーカーを降ろし、翔太を乗せて押した。そして妻は次女と手を繋ぎ、長女とミシェルが手を繋ぐ。
10分くらい歩くと、展望台に着く。展望台からは、町が一望できる。青い空と青い海に、濃い緑の松林と鮮やかな緑の水田や畑が広がり、川や町が続く。
長閑な風景だ。
展望台からしばらく歩くと、所々に木が生えた原っぱがある。その向こうは絶壁で、色とりどりのパラグライダーで滑空している人たちがいる。
目の前で断崖から飛び立つ人を見るのは、緊張感が伝わりスリルがあった。
私たちは木陰にレジャーシートを敷き、弁当を広げた。翔太は動き回らないように、ベビーカーに座らせたままだ。
地面は少し傾斜があるので、ベビーカーが移動しないように木の根元を支えにする。
戸外で食事をすると食欲が増すらしく、子どもたちは驚くほど良く食べる。翔太もいろんなものが食べれるようになり、手づかみで豪快に食べていた。
見たところ、彼が口の中に運んでいる食べ物の量と、こぼしている量とでは大差がないようだった。しかし野外だと、こぼされても掃除をしなくて済むので気にならない。
満腹になると、急に眠気が差してくる。私はシートに寝転んだ。
妻と娘たちとミシェルは、向かい側にある茶店を覗きに行った。そこには、竹とんぼや紙風船などの昔ながらの玩具が並んでいる。
そして四人が、戻って来た。娘たちは、シャボン玉セットを買ってもらっていた。
「お、いいの買ってもらったな」
「おっきいの作るから見てて」
長女がパッケージを自分で開けると、ミシェルがシャボン液の容器のフタを開けてくれた。
長女と次女は、翔太に向かってシャボン玉を吹きかける。
きらきら光っては消えるシャボン玉を、翔太は眩しそうに目をパチパチさせながら捕まえようとしていた。
この上ない平和な光景だ。
この平和が、永遠に続いてくれるといいのだが。
しかし、はしゃぎ回っているうちに、次女はシャボン液を自分の足にこぼしてしまった。
「こぼれたー」
次女がベソをかく。
やれやれ。そろそろ、出かけた方が良さそうだ。
「じゃあ、出発しようか?」
「おくつ、ぬれた」
次女が濡れた靴を履きたがらないので、翔太をベビーカーから降ろし、代わりに次女が乗り込んだ。
今度は妻がベビーカーを押し、私が翔太を抱いて駐車場に向かう。
私が歩くと、私の肩に頭を乗せた翔太には景色が後向きに見えるので、面白がって足をバタバタさせている。
ベビーカーより視点が高くなり、気分がいいのだろう。彼は私の耳元で「うー」とか「あー」とか、言葉にならない言葉を発している。
そんな息子は白いパイル素材のカバーオールを着て、おまけに耳のついたフードまで被っていたので、全身まっ白だった。
来た時とは別の道をみんなで歩いていると、向こうからトイプードルを連れたマダムが微笑みながら歩いて来る。
誰だろう?こんな知り合い居たかな。
なんとか思い出そうとしていると、近寄ってきたマダムが笑い出した。
「あらー、わんちゃんを抱っこしているのかと思ったら、坊やだったのね。まあ、可愛らしいこと」
そうか、後向きに抱いた息子の格好が白ずくめだったので、遠目には犬に見えたらしい。
マダムは、他人だった。
駐車場の手前には大きな池があり、橋を渡らなくてはならない。その池には錦鯉が沢山いた。
私たちは橋の上で止まり手を叩くと、一気に鯉が集まってくる。赤、白、黒、金、ぶち、様々な色と模様の泳ぐ宝石たちは、水音をたて大きな口を開けて餌をねだる。
「でかいなあ、翔太と同じくらいあるんじゃないかな」
「餌やりたーい」
「あんりちゃんも」
娘たちがせがむので、妻が売店で餌を買って来た。
次女はベビーカーに乗ったまま餌を投げ込んだ。水しぶきをあげて鯉たちの熾烈な争いが始まる。
いつも小さい鯉は、大きな鯉に餌を横取りされてしまう。その小さい鯉になんとか餌を食べさせようと、長女は橋の上を行ったり来たりしている。
「落ちるなよ」
「はーい」
ミシェルが気をつけて見てくれていた。子ども一人に対し、大人が一人ついていると安心だ。
やがて餌もなくなり、我々はその場を後にした。車に乗ると次女と翔太は眠ってしまった。
帰りも、桜トンネルを堪能しながら山を下る。前の車がノロノロ運転だったので、桜を愛でるのには丁度良かった。
家に帰る途中、ミシェルを福岡行きの高速バスに乗せた。
「ありがとう。気をつけて」
「ミっちゃんねえちゃん、また来てね」
「うん、またね」
穏やかな春の一日だった。
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